2008年世界エイズデー・イベント情報(11月28日:不完全ですが個人的にはこのぐらいが限界?また少し追加できるかもしれません)

  
11月24日
今週末〜11月29日(土)ー12月1日(日)〜、今年の世界エイズデーのイベントが目白押しですねー。近場のイベントがあったら↓、足を運んでみて下さい。

  
World AIDS Day 2008 – World AIDS Campaign
  
今年も、「世界エイズデー(12月1日)」が近づいてきました。
1988年に始まったこの日も、今年で20年。
1981年にはじめての正式な症例報告が行われてから、27年。
HIVエイズについて考えることは、「この世界で人間が生きること」を考えることと、等しくなっているようにも思われます。
PLWHA(またはPWA、People Living with HIV/AIDS HIVエイズとともに生きる人びと)が暮らしやすい社会を作り、感染を防ぎ、HIVエイズとともに生きる知恵を、世界は、日本の社会は、1人1人の人間は身につけただろうか?
少なくとも自分を振り返ると、あまりそうは言えません。
  
世界人権の日(12月10日)も近いこの日を、少しでも学ぶきっかけにしたいと思います。
  
12月1日に向けて、日本全国あちこちでいろんなイベントがはじまっています。
Act Against AIDSのような、大都市の有名なイベントはもちろんですが、厚生労働省の勧告に応えて、地方自治体でも街頭キャンペーンや展示会、夜間や休日のHIV検査が行われます。
ふだんから地道な啓発・予防・支援活動を続けているさまざまなNGO,グループはもちろんです。
昨年はAPI-Net (エイズ予防情報ネット)に全国各地のイベント情報が載っていたんだけど、今年はなぜか載っていない…。HIVマップ−すぐに役立つHIV(エイズ)の情報サイトにも。
  
自分の情報集めのために、少し調べてみることにしました。
API-Netから、2008年イベント情報が発表されました(11月18日付)
「世界エイズデー」前後の検査およびイベントについてーAPI-Net(エイズ予防情報ネット)

  
だいたい11月下旬から12月上旬までですから、近場のイベントには、ちょっと足を運んでみてください。
HIV検査は、あちこちの保健所や福祉センターで特別夜間・休日検査が行われています。平日が忙しい勤め人にはよい機会です。
HIV検査に関心がありながら、行くきっかけがつかめない人も、多いんじゃないでしょうか。エイズデーは、検査に足を運ぶ良い機会だと思います。
(自分も今年は行こう・・・)



(11月24日記)
※以下は11月25日(火)からのイベント情報です。11月22日(土)-24日(月)の終了イベントは、こちら
(11月19日記)
※以下のイベント情報は、基本的にAPI-Netのイベント情報を手がかりに調べたものですが、かなり抜けが出ていると思います。行政が行うイベント、とくに各保健所のHIV性感染症特例検査の情報は、API-Netイベント情報が網羅的で、かつチェックしやすいです。
※しかし、API-Netがカバーしていないイベント情報もいくらかチェックしています。併せて参考にしてください。
都道府県市町村名のリンクは、当該地区の通常のHIVエイズ関連ページへ飛びます(作業中)。イベント名のリンクは基本的にイベント情報ページに飛びます。が、該当するウェブページがない場合は、API-Netイベント情報の当該ページに飛びます。

  
そのほか、エイズデーイベント情報を発信しているサイトは:

北海道地方

北海道

 

東北地方

青森県
岩手県
宮城県
秋田県「かだろ!エイズの話」=県内各地でキャンペーンイベント/HIV検査(←場所・日時の詳細は、リンク参照)
福島県

関東地方

茨城県
栃木県
  • 県北HIV定例外検査 11月25日、12月2日(火)、6日(土)@県北健康福祉センター
群馬県
埼玉県
  • 熊谷市HIV夜間・即日検査 12月4日(木)、9日(火)@熊谷保健所
千葉県
  • 県内各保健所のHIV検査(休日検査・定例検査の人数増・時間延長など)/駅前キャンペーン/学校での講演会など多数→API-Nerイベント情報参照
東京都:東京都エイズ予防月間 11月16日−12月15日
    • イベント:街頭キャンペーン/テレビ番組/美術展など
  • 東京NGO・プロジェクト・ボランティア・アーティスト系イベント
神奈川県:秋のレッドリボン月間 11月16日−12月15日(県内イベント、HIV検査の日時詳細は←リンク参照)
    • 2008年世界エイズデーキャンペーン「エイズデーを知っていますか?」 11月26日ー12月14日@山内図書館=展示会・ミニ講演会・高校生が作ったエイズ教育ビデオ上映会

中部地方

新潟県

  • 新潟市
  • 佐渡市:世界エイズデーin佐渡=メッセージキルト展示 11月23日-12月7日@蔦屋書店/HIV夜間検査 12月1日(月)@佐渡中央会館
富山県

→イベントの様子がニュースになっています!(12月1日):世界エイズデー:まん延防止、偏見なくそう 富山大が協力しキャンペーン/富山−毎日新聞

  • 高岡市:HIVエイズ休日検査@高岡厚生センター
石川県
福井県
山梨県
  • 峡南地域:HIVエイズ迅速・夜間検査 12月1日(月)−12月5日(金)@峡南保健福祉事務所
長野県
  • 世界エイズデー普及啓発週間(プレスリリース(発表資料)参考(PDF)): 11月25日−12月1日 =街頭キャンペーン・検査相談の情報詳細
岐阜県:「世界エイズデーぎふ」キャンペーン(県内イベント・HIV検査の詳細は←リンク参照)
静岡県

→イベントが新聞記事になっています(12月1日):世界エイズデー:「ぜひ検査受けて」 森理世さん呼びかけ−−浜松/静岡−毎日新聞

愛知県:平成20年度エイズ予防強化週間 11月25日(火)−12月1日(月)
  • 豊田市:豊田市エイズ予防啓発月間 11月25日-12月25日=HIV検査/レッドリボンツリー設置/街頭キャンペーン(11月25日)/パンフレット配布
  • 岡崎市:世界エイズデー特別検査 12月1日(月)@岡崎げんき館1階保健コーナー(若宮町)(予約不要・ポルトガル語対応)

近畿地方

三重県
京都府
  • 京都市:啓発キャンペーン 12月6日(日)@新風館=,芸人「ランディーズ」と本市職員(医師)によるトークディスカッション/ライブコンサート
大阪府「大阪予防キャンペーン2008」
兵庫県
  • 神戸市
    • RED RIBBON FESTA 2008 11月30日(日):パフォーマンス、カフェとフリーマーケット@メリケンパーク/記念講演会・樽井正義(慶応義塾大学教授)「HIVと社会倫理」@ミント神戸13階会議室 

→イベントの様子が新聞記事になっています!(12月1日):エイズについて考える PRイベント開催−神戸新聞

    • BASE KOBE性感染症予防啓発ボランティア
奈良県
  • 奈良市
    • 即日HIV抗体検査・エイズ相談 12月6日(土)@奈良市保健所
    • エイズ展(パネル展示・パンフレット配布) 12月1日(月)−5(金)@奈良市役所1階連絡通路
和歌山県
  • 和歌山市:世界エイズデー2008in和歌山 11月29日(土)@わかちか広場(JR和歌山駅地下広場)/HIV エイズ休日即日検査 12月6日(日)@和歌山市保健所(予約は12月5日まで)

中国地方

鳥取県
島根県
岡山県
広島県
  • 呉市:世界エイズデーキャンペーン=早朝街頭キャンペーン(12月1日@呉駅、新広駅、広駅)/エイズパネル展(12月1-7日@くれ観光情報プラザ)/夜間検査・相談(12月1・4日 要予約)
山口県

四国地方

徳島県
  • 美馬市:街頭キャンペーン(12月1日(月))/HIV即日検査(12月2日(火)@美馬保健所)
香川県:「香川エイズキャンペーン08」
  • 高松市:「香川エイズキャンペーン08」イベント 11月30日(日)@丸亀町壱番街ドーム
  • 県内各保健所:HIV夜間・休日検査(↑リンク参照)
愛媛県
高知県

九州地方

福岡県
佐賀県
長崎県
熊本県
  • 熊本市:エイズデーキャンペーンin熊本市 12月6日(土)@熊日会館びぷれす広場=エイズに関するクイズ&アンケート、フォトメッセージ、パンフレット配布など
大分県
宮崎県
鹿児島県:平成20年度「鹿児島レッドリボン月間」 11月16日-12月15日
  • HIV平日・夜間・休日検査 11月30?12月7日@各保健所

沖縄地方

沖縄県:イベント・HIV検査情報は、API-Netイベント情報参照。

アメリカの同性婚と「家族の価値」


先日のアメリカ大統領選で、民主党バラク・オバマ氏が大差で新大統領に当選した。そのいっぽう、カリフォルニア州では、住民投票により、結婚を男女に限り同性間の婚姻を禁じるProp.8(プロポジション8)が可決された。
  
2つの象徴的なできごとが起きたように感じられた。
  
オバマ新大統領は勝利演説で、「アメリカ国民」の多様性を表す表現の1つとして「同性愛者もストレートも」という言葉を用いた。アメリカ国民の「性の多様性」が、大統領の言葉によって明言された。
  


 若者と高齢者、富める者と貧しい者、民主党員と共和党員、黒人と白人、ヒスパニック、アジア系、先住民、同性愛者とそうでない人、障害を持つ人とそうでない人が出した答えだ。我々は決して単なる個人の寄せ集めだったり、単なる青(民主党)の州や赤(共和党)の州の寄せ集めだったりではないというメッセージを世界に伝えた米国人の答えだ。私たちは今も、これからもずっとアメリカ合衆国だ。
  
「米国に変革が到来」 オバマ氏勝利演説(全文)ーasahi.com
  
だがその一方で、アラバマ、フロリダ、サンフランシスコ州で、同性の結婚を許すなという保守派の主張が勝利した。
Prop.8という法案が、今回サンフランシスコ州民投票にかけられた経緯についてよく知らない、知りたいという人は、サンフランシスコにお住まいのJapanSFOさんがとても分かりやすくまとめておられるので、こちらを見ていただきたい(JapanSFOさん、ありがとうございます)。
  
同性婚排除 Proposition 8 ー♂♂San Franciscoのひとりごと...3
  
同性婚に反対しProp.8を支持する派が盛んにメディア宣伝を行ったことはニュースでも報道されていたが、JapanSFOさんのブログでその一例を見ることができる(「同性婚を認めたら、重婚も、親子の結婚も、幼児との結婚も、犬との結婚も認めることになる、だから認めるな!」という、メチャメチャな、しかも聞き飽きた情けない煽りだ)。
  
アメリカの性的少数者は、アメリカ「国民」としての揺るぎない存在を固めた。
だが、アメリカの「家族」からは、また排除を宣言された。
正しい印象かどうか分からないが、僕はそんな印象を受けた。
  
  
6月、カリフォルニア州最高裁が結婚を男女に限る民法に対し、州民の平等を守る州憲法に反するという判決を出してから、カリフォルニアで結婚登録した1万8000人のカップルのことを思った。彼らの結婚は、無効になるかもしれないと報道されている。
  
パートナーと結婚式を挙げた日系アメリカ人俳優ジョージ・タケイさんの言葉を思い出した。住民投票がなければひっそりと結婚するつもりだった、訴えるために敢えて出た、と語っていた。
  
ジョージ・タケイさん 同性パートナーと結婚した日系米国人俳優ーmsn産経ニュース
【グローバルインタビュー】「念願がかなった」 同性婚を果たした日系米人俳優、ジョージ・タケイさんーmsn産経ニュース
  
そして、8月に87歳で亡くなった、デル・マーティンさんのことを思った。
  
訃報〜デル・マーティン(1921年ー1929)ー『QM』〜NPO法人アカーWEBマガジン
フィリス・ライオンPhyllis Lyon(1924年ー)とデル・マーティンDel Martin (1921年ー1929):レズビアンのコミュニティ活動のパイオニアたち&半世紀をこえるレズビアン・パートナーシップの実践者たちー『QM』〜NPO法人アカーWEBマガジン
  
アメリカ最初のレズビアン組織「ビリディスの娘たち」の創設者の1人。50年以上のパートナーのフィリス・ライオンさんと結婚(正確には2004年の婚姻届の再受理)し、「生きている間に同性婚ができるとは思わなかった」と語っていたという。
でもその嬉しそうな言葉に、気づかされる。この人は、自分のためではなく、自分が死んだあとの未来のために戦っていたんだ。
でも彼女が亡くなったあとの未来は、こうなっている。
  
おまえには関係のない海の向こうの話だろうと言われても、悲しくなった。
  
  
同性婚について、「愛の証が欲しいのかな」「そんな形式にこだわらなくてもいいのに」と思う人は、少なくないと思う。
また、平等を求めるひとつの手段として同性婚を求めることは、性的少数者の権利を真剣に考える人のあいだでも、しばしば批判されている。
「差別を是正するというのは、異性愛中心制度と同じものを無批判に求めることじゃない」
「結婚制度じたいに、さまざまな問題がある、それを認めてどうする」
  
性的少数者には、なにもかも性別二元論/異性愛を前提に作られている現行の社会諸制度にそもそも疑問を感じている人が多い。結婚はその最たるものだ。「結婚の権利の平等」という分かり易いものにこだわることに、冷淡な、批判的な人は多い。そんなにこだわる必要があるものか?という意見は、僕が畏敬する人たちのあいだからも聞かれている。
  
僕も、結婚制度については、同じように思う。けれど、同性婚の議論にまるで意味がないとは思わない。
第一に、「結婚したい」と思う人ができないというのは、不当な差別だからだ。
そしてまた、同性婚は「愛し合う2人は結婚してもいいはず」というだけの問題ではないと思うからだ。
僕はアメリカ合衆国の政治や文化のことはよく知らないので、以下は推測いや妄想レベル、または誰でも分かってる言う必要もないレベルのことになるかもしれない。
だが、忘れられて欲しくないという意味で推測なりに書いておきたいのは、アメリカ合衆国同性婚論争というのは、社会の「家族観」の問題、アメリカ保守派の主張するいわゆる「家族の価値(family value)」との論争だということだ。
  
Family values ? en.Wikipedia
  
「家族の価値」は、アメリカ政治で保守派がたえず掲げる「錦の御旗」だ。この8年のブッシュ政権のあいだ、アメリカの保守系の言論でイヤというほどこの言葉を耳にしたのを、よく憶えている。
アメリカ保守派の同性婚反対や中絶反対は、「宗教的な理由」とよく言われる。だが、同性婚や中絶を毛嫌いする保守的ディスコース(言説)のなかで出てくるのは、この「道徳」「伝統」「家族の価値」といった言葉である。そのバックボーンはもちろんキリスト教だが、聖書の文言が直接飛び出すわけではない。
  
今回Prop.8賛成投票キャンペーンを推進した組織「プロテクト・マリッジ」のサイトのデザインを見れば、Prop.8賛成がなにに基づいているかは一目瞭然だろう。「カリフォルニアの子どもを守れ」というスローガンに、両親子ども2人の「家族」を表すロゴマーク、幸せそうな異性愛白人核家族の写真。
  
Protect Marriage - Yes on 8
  
アメリカ政治に無知な僕だが、このブログでときどき追っている2006年に発表された性的少数者の人権原則・ジョグジャカルタ原則に対し、常に反対キャンペーンを張っているキリスト教保守系の家族問題組織も、さかんにこの言葉を用いるのが、さすがに気になっていた。LGBTの人権を無制限に認めれば、子どもが危険にさらされる、家族が崩壊する、そのロジックは、ほぼパターン化している。こう言って不適切でなければ、「家族」が信仰である、と言えるのである(参考エントリ)。
  
しかし、強硬な保守でなくとも、「家族という価値」という観念を否定することは難しいだろう。もちろん親兄弟や家族など持たない人間は大勢いるが、多くの性的少数者は家族のなかで生まれ育った。もちろん家族はつねに愛する対象ではなく、時として憎むべき対象、縁を切りたい対象にもなる。だがそれも含めて、多くの人間にとって、家族という価値の呪縛から抜け出すことは難しい。
断ち切り難い親密さで人間存在の中に食い込んでいるのが、家族だ。だからこそ保守派はそれを「錦の御旗」にしているのだろう。
  
そして、性的少数者にのしかかる抑圧の非常に大きなものの一つは、まさにこの「家族」からの排除に他ならない。
異性愛家族のなかで、同性愛者の子どもは異端者だ。アメリカでは家にいられなくなってホームレスになる未成年の性的少数者があとを断たず、彼らの救済はLGBT運動の大きな課題となっている。
  
これは「差別の厳しいアメリカ」に限った話ではない。日本でも、性的少数者の家族に対するカミングアウトは、大きな困難だ。まったく偏見を持たずに子どもを受け入れる親もいるだろう。だが、同性愛者の子どもを受け入れられずに苦しむ親のほうが、哀しいことに恐らく多い。
LGBTの家族と友人をつなぐ会」は、性的少数者の子ども・友人を持つ人々が、サポートしあう会だ。子どもからカミングアウトされてショックを受け、どうすれば分からず悩む親たちに、アドバイスやサポートを提供している。だがそのようなサポートが必要となるぐらい、つまり日本の「家族」からも性的少数者は当然の前提のように排除されている*1。そのために、家族も当事者も苦しめられる。
  
アメリカの同性愛者は、暴力やさまざまな社会的不平等のみならず、「家族の価値」の名のもとの排除とも戦ってきたのだと思う。
  

TopPunで販売されているプライド・ピンバッジやTシャツのデザイン
  
 

  
「家族は『家族の価値』」
「市民権は『家族の価値』」
  
 

  
「家族を愛している」
 loveのハートがゲイのシンボル、ピンク・トライアングルになっている。
「私は家族のピンクの羊」
 「黒い羊(異端者、余計者)」とかけている。嫌われるのだろうか?そんなことはない。
  
保守の「家族の価値」とのアメリカのゲイ表現の格闘を近年強く印象づけられたのは、実は2006年から放送されているTVドラマ『ブラザーズ&シスターズ』だ。
  
ブラザーズ&シスターズー日本番組サイト
  
カリフォルニア州サンフランシスコに住むウォーカー家の物語だが、5人兄弟姉妹のうち、次男で弁護士のケヴィンはゲイである。次々と問題を起こす家族のために奔走し、自分の恋愛に右往左往し、自分もまた家族に支えられながら不器用に生きる。
とにかく暑苦しいぐらいの家族ドラマで、個人的に本当に好きか、というと、そうでもない。だが、ずぶずぶの「家族の絆」のなかに同性愛者の存在を描きこみ、しかもケヴィンの姉キティは共和党員と大恋愛のすえ結婚するというストーリー展開には、保守の「家族の価値」と同性愛者の存在を真っ向から向き合わせようとする意志を感じる。何話だったか思い出せないのだが、「私が信じてきたのは『家族』だ」と言うキティの言葉にケヴィンが耳を傾ける場面が忘れ難い。共和党イデオロギーである「家族の価値」を同性愛者のいる家族のものとして捉え返す。チェイニー元副大統領もレズビアンの娘のメアリーさんを大切な家族であると表明していたし、さほど目新しい挑戦ではないが、『ブラザーズ&シスターズ』が『ウィル&グレイス』のような「100%リベラルな都会的空間での楽しいゲイライフ」とは異なる、保守的価値観との対話を目指したと見ても,見当違いではないだろう(エクゼクティヴ・プロデューサーのJon Robin Baitzは、ゲイの劇作家である)。
  
  
同性婚に反映した同性愛者と「家族の価値」の問題は、しかし、ただ「家族の中の同性愛者」の問題だけではない。
  
同性婚について、「愛の証が欲しいのかな」と考える人は、もしかしたら「同性愛者にとって結婚はそれ以上の意味はあるまい」と思っているのかもしれない。また、「結婚は次世代再生産(出産と育児)のための制度であり、子どもを産まない同性愛者にその制度的優遇を与えるのはおかしい」と考えている人も,多いはずだ。
  
だが、同性愛者が子どもを持たない、というのは、それこそ大きな間違いである。
  
人間の次世代再生産は、「男女が性交して子どもを生む」で済む問題ではない。親権者の責任のもと子どもを自立するまで養育・教育するという長いプロジェクトであり、「異性愛」が必要なのはほんのごく一部だ。
いま、世界には、養子縁組、代理母精子提供による人工授精、レズビアンとゲイの共同再生産プロジェクトなどのかたちで、子どもを育てている同性愛者が大勢いる。
その再生産のありかた、家族のありかたは実に多様だ。以前、軍隊と同性愛者のことを調べていたときに読んだan encyclopaedia of gay, lesbian, bisexual, transgender & queerの論文の著者ジェフリー・ベイトマンさんも、大学講師をしているコロラドで、パートナーと友人のレズビアンカップルとともに4人で子育てをしているという。
  
「同性愛者に育てられた子どもが幸せになるはずはない」「悪影響が出る」「子どもも同性愛者になってしまう」と、同性愛者の育児を批判しようとする主張も数多くある。だが、レズビアンカップルに育てられた子どもの調査により、同性愛者カップルに育てられた子どもは異性愛カップルに育てられた子どもとなにも変わらず、必要な条件はただカップルの関係が良好であること、親の性的指向が子どもの性的指向に影響を与えることもないということが証明されている。
  
研究の要旨は、以下のサイトで知ることが出来る。
『子どもの養育に心理学がいえること』N.R.シャファーより抜粋「こどもには、両性の両親が必要か」ーレ・マザーの会
  
子どもを育てるレズビアン家族、ゲイ家族がつながりあう助け合いネットワークもいくつもある。育児雑誌や育児書も多数出ている(Amazon.comのGay&Lesbian>Parenting&Familiesの一覧)。
  
むろん、もっぱら欧米での話ではある。だが、日本も例外ではない。
ゲイとしてのライフサイクルを生きつつ(つまり、女性と結婚するという異性愛ライフサイクルに入らず)、子育てをしようとするゲイは、たぶん、まだあまりいないだろう。しかし、レズビアンには、レズビアンとして暮らしながら、子育てをしているレズビアン・マザーたちがいる。人工授精で子どもを生み、パートナーと育てているレズビアンの人もいる。
日本を含む世界各地で、同性愛者の家族形成と次世代再生産はとっくの昔から行われているのだ。
「同性愛者は子どもを作れないから駄目だ」だの「同性愛者が増えると少子化が」だの言う人は、こういう動きを見て、同性愛者の次世代再生産を妨げているのはただ社会的差別と偏見だけだということを知ったうえで言って欲しいと思う。
  

Two Father 2005(日本語字幕版)


  
プロの作曲家が曲をつけた自作の歌詞を子どもが歌うオランダの子ども向け歌番組で、1歳のときゲイ・カップルに息子として引き取られたテレンス君が、2人のパパがいる自分の家族の暮らしを歌った。
子どもが歌うこの歌を、僕が見かけたアメリカの保守系サイトは「酷い歌だ、2人の父親は1人の母親に叶わない」と罵っていたが…(参考エントリ
  
同性愛者の権利についての分かり易い争点として、同性婚ばかりが過大視されてはならない、というのは正しいが、同性婚は別に「2人の愛を法的に認めてもらう」ことだけを意味するのではない。その背後には、「法的家族」としてのさまざまな権利の問題、性的少数者が子どもを育て家族を作るという問題が、はじめから横たわっている。
  
「異性婚のみが家族の正式な基盤となる権利を独占している」現状は問題だと、僕も思う。「父親と母親の揃った家庭」を基準とすることで、片親家庭、未婚の母親、孤児、性的少数者家庭を、「不完全」な「問題をはらむ」存在にしてしまうからだ。だからこそ「同性愛者が異性婚のマネをしたがってどうする」という同性婚への批判も起こるわけだが、しかし同時に同性婚は結婚制度そのもの、家族制度そのものの幅を内側から押し広げ、多様化する可能性を持っているはずだ。同性婚によってもたらされるものは「愛の証」以上に、「保守的な家族像の変化」なのではないかと思うのである。
  
同性婚の合法化は、同性愛者と同性愛者に育てられる子どもからなる家族を、「これもまたアメリカの家族」と承認する力があったはずだ。保守派の掲げる「家族の価値」が同性婚を叩き潰したことは、同性愛者に、同性愛者に育てられている子どもに対して、「アメリカ社会はおまえたちが家族を作ることを認めない、おまえたちを本当の『価値』ある『家族』とは認めない」と宣言したようなものだろう。
社会の「価値」から疎外されて生きることがどんなことか、どんなふうに人間を蝕むか、ごくわずかでも、なんらかのかたちで経験したことのある人なら分かるだろう。
  
そんなことを考えていたら、精神科医の針間克己医師が、米国精神分析学会から出されたProp. 8への批判声明を、ご自身のブログに翻訳して紹介しておられた。
  
[ ニュース]精神分析家たちが、カリフォルニアの同性婚禁止投票を批判ーAnno Job Log
同性婚に関する米国精神分析学会の立場表明ーAnno Job Log
  
針間先生が翻訳した記事によれば、「2000年の全米人口調査によれば、同居する女性カップルの34%、同居する男性カップルの22%が、18歳以下の子供を育てている」という統計が紹介されており、「同性婚が認められないこと」が、このような同性愛者家族に対する社会の目に影響を与え、かれらの精神的健康に影響を及ぼすことを、精神科医たちが心配していることが伝えられている。
  

同性婚の否定が今日のアメリカに与える、広範な影響について考えてほしい。家族は多様なあり方で存在し、同性カップルにとって、その結びつきが法的社会的に承認されることは、カップルやその子供や家族にとっても重要なことだ。同性カップルやその家族に対してなされる、レッテル張りや差別は、彼らの健康を損ねることが、調査によって次々と明らかにされている。」と、LA在住の精神分析家で、同学会LGBT部会の議長である Ethan Grumbach, Ph.D.はのべた。
  
[ニュース]精神分析家たちが、カリフォルニアの同性婚禁止投票を批判ーAnno Job Log
  
  
これから、アメリカの同性婚問題はどうなるのか。
シンボル的位置にあったカリフォルニア州同性婚禁止が落とした影は大きい。
僕が気になるのは、「カップル」よりも「家族」のこと、同性愛者の子どもたち、同性愛者に育てられている子どもたちのことだ。
  
望みを託せるのは、保守のイデオロギーが政治的・制度的にかれらを「家族」と認めなかったとしても、彼ら自身が社会の中で「多様な家族の価値」を体現していってくれることだ。同性愛者の子どもを育てる家族、成長して自ら子育てをしてゆく同性愛者、同性愛者のもとで成長する子ども、そしてかれらを支えてくれる人びとによって、おのずと社会が、価値観が、家族のかたちが変わってゆくことができるかもしれない。
  
僕自身、いったいどうするのか、家族を持てるのか分からないけれど、これからも世界が変わってゆくことを、望んでいきたいと思う。

*1:「同性愛に偏見はないが、自分の子どもがそうだと話は違う」という言葉を、僕は何度も聞いたことがある。

三橋順子『女装と日本人』(講談社現代新書、2008年)

  
三橋順子氏の近刊、『女装と日本人』を読んだ。
  


女装と日本人 (講談社現代新書)

女装と日本人 (講談社現代新書)

    
日本のトランスジェンダー、同性愛者、両性愛者、インターセックス半陰陽)など性的少数者についての主な(というか、僕のように勉強熱心でない人間が手に取るほど有名な、というていどの意味だが)本は、たいてい現在を論じている。過去の歴史についての関心は、どちらかというと薄い。たとえば「日本の同性愛の歴史」に興味を持つ人(同性愛者・異性愛者問わず)は、中世の稚児や近世の衆道といった事例をあれこれよく知っていて(こういうことについては文献も少なくない、しかし、「男性」同性愛文化ばかりだが)、「日本は歴史的に同性愛が盛んだった」といったことを言うかもしれない。だがほんの20年前、1980年代にレズビアン、ゲイがどう生きていたか、ほんとうに知っている人がいるだろうか。
  
最新の理論やムーヴメントを取り入れつつ、ジェンダーセクシュアリティの問題を論じる優れた論者は多いが、日本の性的少数者が辿ってきた歴史を史料を渉猟し聞き取りなどのフィールドワークを重ねて再構成する、労の多いコアな歴史研究は多くない。それに、「トランスジェンダー」「同性愛者」「両性愛者」という分類が、相当に問題のある精神医学の概念から発生したのは近代以降、当事者が尊厳をもって自らを語るアイデンティティとなったのはごく最近のことだ。時代ごとの当事者コミュニティとネットワークは基本的にアンダーグラウンドだったから、情報は残らず世代間断絶は大きい。『ゲイの考古学』の著者伏見憲明さんの言葉を引用すれば、「はたして「私たち」はいったいどこからやってきたのだろうか」を、僕らはほとんど分かっていないのだ。
  
三橋順子さんは、生まれもった男性の身体的性別(セックス)とは逆の、女性の社会的性別(ジェンダー)をまとって生きるMtFトランスジェンダーについて、そういう貴重な歴史研究を続けてきた人だ。

  
戦後日本女装・同性愛研究 (中央大学社会科学研究所研究叢書)

戦後日本女装・同性愛研究 (中央大学社会科学研究所研究叢書)

  
たとえば、三橋さんが共同研究者として参加しているこの↑本は、戦後の有名な女装家の聞き取り調査と膨大な文字史料データに基づき、戦後日本のトランスジェンダー文化史、および同性愛表象史を再構成したものだ。「異性装/性転換」や「同性愛」が戦後日本でどのように表象されたかをインタビューとメディア言説から分析し、トランスジェンダーおよび同性愛者がその表象をどのように内面化し、また抗いながらアイデンティティを構築していったのか、現代の性的少数者の表象と主体が立ち上がってゆく過程を明らかにしている。
  
哲学・理論先行傾向にある性的少数者研究に対して、データと実証を重視し、性的少数者の「アイデンティティ」を実体的なものと捉えず、社会関係の中で「アイデンティティがいかに形成されるか」を中心に据えた研究方法は、まさに必要とされていたものだろう。MtFトランスジェンダー史が中心であり、FtMおよび同性愛(ゲイ、レズビアン)表象の研究は補足的なのだが、歴史的に混同され、また実際時代によっては未分化でもあった男性同性愛・MtFトランスジェンダー(女装)の男性(生まれたときの身体的性別としての)性的少数者の戦後史を、トランスジェンダーの側から差異を的確に説明しつつ再構成してくれているから、日本近代男性同性愛史の本としても読める。僕(ゲイ)のような読者には、まさに「「私たち」はどこから来たのか」を辿る興奮があって、むちゃくちゃ面白い(第II部第5章の1960-80年代のレズビアン表象研究も、とても興味深い)。
  
『女装と日本人』は、こうした三橋さんの研究蓄積を、前近代から現代にいたる日本女装文化通史として分かり易くまとめ、女装という視点から日本社会の性別意識の特徴について三橋流ジェンダー論を展開したもの、といえるだろう。と、えらそうなことを言ってしまったが、僕には全部初めて知ることばかりで、教科書のように勉強しながら面白く読んだ。
  
トランスジェンダーは、ゲイにとっては「よく知らない隣人」だ。異性愛中心主義と性別二元制の社会のなかでのマイノリティとしての共通性はあるが、マイノリティ性は全然異なり、実は相互に対してはマジョリティであったりする。少なくともシスジェンダー(性別越境していない)のゲイは、トランスジェンダーに対する社会的抑圧をほとんど理解できない、しばしば積極的に抑圧に加担することさえある。
トランスジェンダーについて考えるとは,僕にとって,自分のシスジェンダー性について考え、自分がその人たちにとってどんな隣人であるかを考えることだと思う。そんなことを考えながら、感想を書いてみようと思う。
  

「双性原理」から抑圧へ

  
とはいえこの本は、MtFトランスジェンダーのマイノリティ史、というわけではない。この本のテーマは、「女装と日本人との関わり」「女装の日本史、性別越境の日本文化論」[pp. 5-6.]だ。
  
著者の関心は、日本社会の性別越境に対する関心の強さや嫌悪感のなさに注目するところから始まる。「(1)日本人は、性別越境の芸能に強い嗜好がある/(2)異性装者に対して,少なくとも個人レベルでは、比較的寛容/(3)そうした文化や意識は世界の中でかなり特異/(4)そのことにほとんどの日本人が気づいていない」[p.22.序章「日本人は女装好き?」]。この「日本人は女装好き」という心性にはどんな歴史的背景があるのか、第一部「歴史編」(1-4章)で古代〜近代の日本女装文化史を概観する。
  
第二部「現代編」(5-6章)では、著者三橋さんのライフヒストリーを辿りつつ、東京新宿の女装コミュニティをおもな事例に、女装者と女装者を愛好する男性からなる現代日本の女装文化を紹介する(第5章)。そして、女装者から見た場合、性別表現(「女をする」ということ)とはそもそも何なのか?というジェンダー論を展開する(第6章)。
  
終章は、世界に広がる女装・異性装文化へ視野を広げ、そうした地域文化に根ざす多様な女装文化が西洋的なジェンダー認識の世界化の中で変容させられたことを指摘する。そして、性的少数者に不寛容でトランスジェンダー文化が育たなかった西洋社会とトランスジェンダー文化が盛んな日本社会の相違を、宗教文化の違いに求める。そして、性別越境に関心を持ち双性性に魅力を見いだす日本人のメンタリティに、多様な性が共存する社会を作る可能性を見いだすーのが、結論と言ってよいと思う。
  
一、二部の内容を,もう少し詳しく見てみよう。
  
第一部「歴史編」で著者は、まず古代の女装英雄ヤマトタケルや女装の巫人、中世の女装巫人持者(ぢしゃ)などを取り上げ、日本に「性別越境者(トランスジェンダー)や半陰陽者(インターセックス)にある種の「神聖」を見る」[p. 43.]心性「双性原理」があったことを指摘する。中世の寺院で僧侶の性愛の対象として神聖視されていた女装の稚児、女性器のある稚児としての男装の白拍子は、異性装でトランスジェンダリングした者に特別な双性の魅力を感じる文化の発達を示していた(第1章「古代〜中世社会の女装」)。
  
この文化は、近世、男女ともに歌舞伎の女形をもてはやし、その下位にいる女装の陰間を買う(陰間は女性も買った)、「男色」「女色」に大きな区別を見ず性別越境者の性的魅力を楽しむ大衆レベルの性愛文化を成熟させる(第2章「近世社会の女装」)。そのような文化のなかで、日常的に女装して暮らす市井の女装者も、存在を許容されていたのである[pp. 117-23.第2章「とりかえ児育と市中の女装者]。
  
ここで大切な点は、これまでの漠とした一般認識では「日本の(男性)同性愛文化」の例証とされてきた寺院の稚児愛が、実は異性愛を擬態した「疑似ヘテロセクシュアル」であって男ー男の同性愛ではなかった、という指摘だ[pp. 52-69. 第1章「女装の稚児」]。神聖な憧れの対象だった中世の稚児や近世の歌舞伎文化周辺の女装の陰間の存在を、三橋さんは男性同性愛文化ではなく、MtFトランスジェンダー文化の中で捉えてゆく(だから同じ「男色文化」でも、男ー男の性愛に欲望する武士文化の衆道や薩摩文化の美少年愛好は、同列にならない)。異性装者への欲望が「男性同性愛文化」では理解し切れない広がりを持っていたことは、女性も陰間を買っていたことから分かる[p.109-10.]。「男色=同性愛文化」という固定観念に囚われていては(ゲイの僕などは、すぐそうなりがちなのだけれど)目に入らない、「異性愛/同性愛」の二項対立的概念がその存在を抹消してきたといえるトランスジェンダー文化の重要性はたぶん一般には認識されておらず、大切な指摘だろう。
  
しかし、このような女装文化に対する社会の扱いは、明治以降、ジェンダーセクシュアリティの制度が近代化されてゆくなかで変容してゆく。戸籍による「性別」の画定、異性装や鶏姦(アナル・セックス)の非合法化、精神医学の「変態性欲」言説の流布による異性装/同性愛の「病理」化。歌舞伎の女装文化も女形の芸の芸術性に限定されたものになり、女装文化はアングラ化を強いられる(第3章「近代社会と女装」)。
  
抑圧のなかで、女装者たちがどこに居場所を見いだし、どのように女装を続け、新しいファンクション(女装クラブや医学的トランスジェンダリング)も導入しつつ、現代まで続く女装文化を生きてきたかを、3章と4章(「戦後社会と女装」)は丁寧に追ってゆく。
これまで遠くから描かれてきた「女装者」たちは、よりリアルに顔が見えるようになってゆき、「女装文化」を必要とした、「女装文化」という器の中に居場所を見いだした、現代で言うところのトランスジェンダーたちの姿が立ち現れてくる。そしてそれは、第5章の著者自身のライフヒストリーとつながってゆく。
  
ここで、第一部第4章の後半あたりから第二部にかけて、叙述に一種の「視点の変化」が起きてくることに注意したい。つまり、第一部とくに1-3章で語られていたのは「稚児」「女形」「陰間」「女装芸者」という女装文化の<様式>であり、史料の性質から、女装をしない人間の視点からの女装文化が語られていた。今でいうと「○○(MtFタレント)って女より女らしい!」「両性具有ってカッコいいよね」「知りあいにトランスジェンダーがいるけどいい人だよ」とか言っているシスジェンダーの視点である。
しかし、4章の途中から、女装文化の実践者、トランスジェンダーの視点になる。シスジェンダーが評価しようがしまいが関わりなく、女装を必要とし、生きた人たちだ。もちろん両者に関連がないわけではないが、齟齬はあるだろう。その齟齬は、さまざまな偏見を被る少数者の場合非常に大きく、その人たちの社会的地位に影響を及ぼすものとなることに、注意したい。
    
5章「現代日本の女装社会」は、著者のライフヒストリーを辿りながら、女装コミュニティ(東京・新宿)のジェンダーセクシュアリティ文化が紹介される。もちろん、三橋さんのライフヒストリーMtFトランスジェンダーの一例でしかないだろうけれど、女性として装うことを必要とする人びとのためのコミュニティが、どのような機能を持って日本のMtFトランスジェンダー文化を支えてきたのか、その一面を見ることが出来る。男性同性愛者としては、MtFトランスジェンダー・カルチャー/風俗とゲイカルチャー/風俗の違いをMtFの側からとても明快に説明しているのが、興味深くもありがたかった。両者を思いっきり混同している人は、必読である(僕には勉強になった。なにしろMtFや女装コミュニティのことを何も知らないから、完璧に混同してかかる人から違いを説明しろと言われても、ただ「違う、ぜんぜん別物」としか言えなかったのだ)。
  
第6章「日本社会の性別認識」は、「女性」として生活する三橋さんの性別が、周囲にどう認識されてきたかを、ケーススタディ的に語る。結論を大ざっぱにまとめれば、頭で考え口で言うほど人間の感覚は「生得的身体性別しか認められない」という性別二元論に縛られていない、ジェンダーはその場その場で様々な要因とともに決定するものだ、というところだろうか。トランスジェンダーについてあくまで観念的に、「体が男(女)の人間を女(男)と思えと言われても無理に決まっている」という意味の主張をする人(三橋さん流にいえば「染色体とセックスしているような頭の固い人」)がときどきいるが、ジェンダーをあまりに観念的に、固定的なものとして考えすぎている。ジェンダーは「する」ものなのだ。
  
しかし、これは僕の考えだが、自分の身体に読み込まれるさまざまな「性別」に、ジェンダー認識がいかに多様で機会的なものかを読み出す三橋さんの分析は「おもしろい」のだが、シスジェンダー(非トランスジェンダー)が性自認の性別を当然のごとく認知されていることを空気のように意識せずにすむ特権を有しているのに対し、トランスジェンダーはシスジェンダーがどう見るかという「性他認」をたえず意識しつつサヴァイヴしなければならない、という現在のありようには、やはり僕は疑問を感じる。「男」「女」という社会的性別を否定するところまで行かずとも、「男、女にはそれぞれ多数のシスジェンダーと少数のトランスジェンダーがいるもの/どちらでもない無性の人もいるもの」という事実が、きちんと認識されるべきだと思う。
  

けれど「女装好きの社会」は、その人びとに暮らし易いのだろうか

  
さて、ダラダラと内容を語ってきたけれど、この本の全体の結論は、「日本には西洋キリスト教社会に比べ、性別越境に寛容な心性・文化があった」ということだろうと思う。興味深い話ずくめの歴史の旅が終わったあと、恐らく読者は、そういうメッセージを受け取ると思う。
  
もちろん、その結論には首肯できる。だが、疑問も感じた。ちょっとその疑問を、うまく言えるか分からないが、自分なりにまとめてみたい。といっても疑問というのは簡単で、ほんとうに日本は「性別越境に寛容な」社会なんだろうか?ということだ。
  
そう思う理由は、ひとつには、この本はあくまでMtFトランスジェンダーの文化史であり、FtMトランスジェンダーについては、触れられていないからだ。
いや、「日本女装史」の本なんだから当たり前だし、この本には中世芸能の白拍子、近世の男装の芸者(辰巳芸者)、市井にもいた男装者など、FtMの人びとも、けっこう取り上げられている。しかし、FtM文化や女が男装者を愛する「女色文化」の存在も同程度に印象づけられないと、「性別越境の文化があった」とは言えないのではないかという疑問がわく。
これは、MtFや女性的ゲイのタレントがメディアに露出し、それがしばしば「性的少数者への寛容」「多様性の受容」の指標のように語られる一方、FtMレズビアンバイセクシュアル女性の存在が不可視化されるという不均衡への疑問にも通じる。
  
この本が示すさまざまな事例から、むしろ強烈に印象づけられ、気になってしまうのは、「男性が女性へ性別越境することに、なぜ人はここまで関心を掻き立てられてきたのか」ということだ。推測だけれど、これはやはり男性優位社会の現象ではないか。
たとえば論文「「性転換」の社会史(1)」のなかで、三橋さんはこう言っている。
  


 男性が圧倒的な社会的優位性をもっていた当時の社会において、女性から男性への転換と男性から女性への転換は等価ではない。男女の社会的格差の投影として、女性から男性への転換は社会的地位の上昇であるのに対し、男性から女性への転換は社会的下降という側面をもつ。両者はけっして対称ではないのである。ジョルゲンセン[引用者注:1950年代はじめに日本のメディアで盛んに話題にされたアメリカの「性転換女性」]の「性転換」は、「わざわざ」劣位である女性に転換するという点で、社会に与えた驚きは現在よりもはるかに大きなものがあったろう。
 一方、容姿に大きな価値が与えられる女性への転換は、見られる対象になるということであり、・・・男性読者の興味の対象として、男性から女性への「性転換」は、女性から男性への転換よりもはるかに大きな報道価値をもっていたのである。
  
三橋順子「「性転換」の社会史(1)」『戦後日本女性・同性愛研究』pp. 403-4.
  
つまり、日本社会のトランスジェンダーへの関心とは、むしろ強固な男性中心的ジェンダー制度を絶えず参照したうえで、刺激されているものに過ぎないのではないか。たしかに否定的言説が席巻するということは少ないだろうが、あくまでジェンダー制度を参照したうえでのその「特殊性」をこそ消費し、「興味の対象」になりえないものは存在自体を黙殺する。そういう身勝手な「寛容」ではないか。
  
こうした性別越境への認識は、ほんとうに日本社会は性別越境する人びとを認めているのか、具体的に言えば「対等な居場所」を認めているかという疑問につながるだろう。
  
終章で著者は、世界に遍在する「女装文化」でトランスジェンダーが果たしていた職能は、「宗教的職能」「芸能的職能」「飲食接客的職能」「性的サービス的職能(セックスワーク)」「男女の仲介者的職能」であるとする[pp.328-32.]。性別越境者がその双性的特性を持って果たしていた役割であるが、言い換えれば、トランスジェンダートランスジェンダーとして生きることができる場所が、他に存在しなかった、ということにならないだろうか。実をいうと、僕は本書を読んで、「日本人がオネエやニューハーフタレントのような男→女系芸能人はさかんに消費するのに、身近なトランスジェンダーレズビアンに対する想像力がからっきし働かないのは、もしかしたらこういう女装芸能者好きの伝統が強固すぎるからじゃなかろうか」と思ってしまったのである。
  
実はこれが、前段で述べた、「齟齬」の問題に絡んでくる。「女装(トランスジェンダー)文化」が非女装者(シスジェンダー)に愛好され消費される伝統があったからといって、それはトランスジェンダーが望むような、生きやすいかたちで、とは言えないのではないか。
トランスジェンダーの「魅力」を「非日常的」と見なす心性は、多くのトランスジェンダー「日常」を不可視化し、「日常」における彼らの居場所を奪うのではないか。現代のトランスジェンダー芸能は素晴らしいショー文化を作り上げたが、いっぽうで会社人のアマチュア女装家の人たちは、厳しい二重生活を耐え抜いてこられた。そして、愚痴めいたことを追加することを許してもらうと、イヤというほど繰り返される「レズビアン=宝塚の男役」「ゲイ=おすぎやピーコのようなオネエタレント」というステレオタイプ・イメージに、頭を抱えさせられている同性者は多い。今日も持続する「芸能を通したトランスジェンダーへの関心」は、しばしば性的少数者には苦痛の原因でもあるのだ。
  
性的少数者が「特殊」であるのは分かる。性別二元制度(生まれたときの性器の外見で性別を男女の2種類にビシッと分け、法的性別として戸籍に記録する、そして社会生活の大部分で、その法的性別の影響を受ける)・異性愛中心制度(男女の異性愛を正式なセクシュアリティとして、結婚や体外受精・養子縁組を含む育児など人間のライフサイクルに関わる諸制度をはじめ、文化やメディア言説、教育などが、異性愛関係のみを前提に組み立てられている)に問題なく適応でき、疑問を感じない多数の人びとにとっては「特殊」に見えて当然かもしれない。しかし、トランスジェンダーや同性愛者がつねに数パーセントの確率で発生するのはあたりまえのことであり、ジェンダーセクシュアリティをめぐる制度や社会的コンセンサスに、男女/異性愛のみではない多様なオプションがあってくれなければ困るのだ。
  
現代のトランスジェンダーの人びとは、芸能・接客・セックスワークの分野にしか自分たちの居場所がないという社会は求めないだろうし、僕もそうなって欲しくはない。しかし、今はなおそういう社会に近い。先日のNHKETV特集「ともに生きるーLGBT」でも、就職に対する若いトランスジェンダーの不安が紹介されていた。
(2010年1月11日追記)
三橋さんも、本書より4年前に出した共著『性の用語集』で、トランスジェンダーに対する就業差別が取り払われるべきことに触れている。

近未来的に、性別越境者の職種を「三業種」[引用者注:接客業・ショービジネス・性風俗]に限定するような社会的枠組み(就労差別)は、なくしていかなければならないと思う。すでにMTFトランスジェンダーの女優、アナウンサー、デザイナー、ファッションモデル、美容師、作家、医師、弁護士、会社社長、大学講師などが現実になっている。性別越境者としての特性を生かし、個人の才能を磨いて、様々な業種にどんどん新出していってほしい。その方が世の中が多様になって、楽しいと思うのは、私だけだろうか。
  
井上章一&関西性欲研究会『性の用語集』, p.195.
性の用語集 (講談社現代新書)

性の用語集 (講談社現代新書)

  
トランスジェンダー芸能者に対する伝統的な好意や関心が、こうした変化や不安の解消の助けになるだろうか?間接的にはなるかもしれない。だがそのためには、もっと別の働きかけが必要だろう。
  
こんなことを考えると、僕は、この本がどう受け取られるかに、少し不安を感じるのだ。
これは本の問題というより読者の問題、内容そのものより、その受け取られ方の問題なのだが、そのメッセージが、「日本人は女装を好み、多様な性を認める文化を持っていた」という<満足感>で止まってしまう危険が、あるのではないか。はっきり言ってしまうと、この本が示す「日本にはトランスジェンダーに寛容な心性がある」という視点が、「このうえトランスジェンダーのためになにもしなくてよい」という<言い抜け>に利用されないかと、心配なのである。
  
杞憂だったら良いけれど、似たような発想で、「宗教的に同性愛を禁じる欧米に比べ、稚児や衆道などの文化があった日本は同性愛に寛容」なのだから文句言うな、というディスコースは、同性愛者としてイヤと言うほど聞かされている。欧米と日本の比較には僕も賛成するのだが、日本社会はすでに欧米的ディスコースをドップリと染み込ませていることは明白だし、また「日本的な同性愛嫌悪」もあるのではないか、と感じている。『女装と日本人』がもしそのような読まれかたをしたら、著者が訴えたいところと真逆の方向に行ってしまうのではないかという気がする。
  

「どこから来たのか」を知ったあと、私たちは「どこへ行くのか」

  
でも、この↑ような分かり易い批判は、この本に対して的外れだろう、とも僕は思う。
というか、著者の三橋さんにとっては、想定の範囲内ではないだろうか。
  
三橋さんが、トランスジェンダーが「性同一性障害」の名に一元化され、医学的正当性のなかに囲い込まれることに反対する立場をとっていることは、この本でも表明されている。だがそこで言われたいのは、たとえば単純な「日本の伝統的女装文化を再評価して」といった復古主義(?)ではないだろう。
  
「「女装者」概念の成立」(『戦後日本女装・同性愛研究』)の最後で、三橋さんは色川奈緒さんの「女だって女装する」(『ユリイカ』28:13)を引用し、そこに「新しい「女装」の可能性」を見いだしている。「女が女装する」とは、「成りたい自分に成る方法、在りたい自分を自己演出するテクニック」のこと。それは実はトランスジェンダーの女装と同じ、共通理解がなりたつものなのである[p. 242.]。
  
そう、考えてみれば、身体的性別と性自認が一致しているシスジェンダーの僕も男装、それもそうとう複雑な男装をしている。ふだんの仕事の男装、ちょっと硬い人に会うときの男装、信用を得たいときの男装、男に見せたい男装、カジュアルの「僕が好きな」男装。女性の女装が大変だというのはよく言われるが、男の男装も適切な社会性を発揮しようとすると、けっこう複雑なストラテジーを使い分けている。
  
「パス」という難しい課題を抱えるトランスジェンダーと問題のレベルが違うだろうという感じもあるが、シスジェンダーであれトランスジェンダーであれ、ジェンダーはパフォーマティヴに「する」ものであり、外性器や染色体は大した問題ではないという(第6章で三橋さんが指摘している)事実に気づけば、「トランスジェンダージェンダー表現のみが異端視される」という偏見を克服する方向へ進むきっかけをつかめるはず、だと思う。「個人の自由な自己表現・演出としての性別越境(トランスジェンダー)の在り方を再構築することが、2000年代を生きる私たちの課題であるように思う」[三橋「「女装者」概念の成立」p. 243.]という三橋さんのスタンスは、むしろ性別二元論を絶えず越えようとするクィア的実践に近い。
  
そしてこれは、トランスジェンダーの問題というより、はじめから僕を含むマジョリティのシスジェンダーの問題のはずだ。「男」「女」というジェンダーを性器に即して画定するというシスジェンダーの約束事がなければ、「トランスジェンダー」は異化され得ないのだから。
  
だから、この本から僕らが心に留めて忘れてはならないことは、「歴史の事実」ではないか。
江戸には市井で妻子とともに暮らすMtFトランスジェンダーがいたこと。女として育てられ男と結婚したMtFがいたこと。
その結婚が、明治期に入り「戸籍」の制定によって無効とされたこと。
性別二元論/異性愛中心主義に基づいて「正常」と「異常」を振り分ける精神医学が、トランスジェンダーや同性愛に「変態性欲」の烙印を捺したこと。
それは現代でも性的少数者を否定したい人が繰り返す言説であること。
  


 近代における同性愛者・異性装者に対する社会的抑圧・差別の理論的根拠を提供し、「変態」の烙印を捺すことで、大勢の先輩たちを長い間苦しめ続けた精神医学・性科学の所業と加害者性を、現代の同性愛者・異性装者は、けっして忘れるべきではないと思います。
  
第3章「近代社会と女装」p. 159.
  
日本では昔からトランスジェンダーは身近な存在だったんだ、そう思ったら、いま自分のいる場所が「トランスジェンダーが身近な場所」かを考えてみたい。学校の教室、オフィス、公共施設は、トランスジェンダーがいることができる場所か、考えてみたい。そこを男も女もシスジェンダートランスジェンダーもいることができる場にするためには、自分に何が出来るのか、考えてみたい。「「私たち」がどこから来たのか」(ここでの「私たち」は、シスジェンダートランスジェンダーを含む、日本社会の住人すべて)を知ったあとに続くのは、「「私たち」はどこへ行くのか」という問いのはずだ。
  

 世の中にはいろいろな人がいる、いていいのだ、という当たり前のことに改めて気づいたことです。いろいろな人種・民族・国籍、いろいろな出自、いろいろな宗教、いろいろな職業、いろいろな「性」の人がいて、世の中は成り立っている、多様性をもつ社会の大切さ、多様性がもたらす豊かさということです。しかし、残念ながら、この当たり前のことを認めようとしない人たちがまだまだ世の中にはいるのが現実です。
 私は、21世紀の日本の社会が性別越境に寛容だった文化伝統を継承して、多様な「性」をもつ人たちが社会的に差別されずに暮らせる社会の実現を目指すことを心から願っています。
  
「おわりに」p. 367.
  
そのために、「僕」は、なにをするだろうか?
  

壱花花WEBSITE「ニジセン」発表!(にかこつけて「自分語り」するよ!)


「ニジセン」が発表されましたよ!


ニジセンーナニ専?と脊髄反応したいゲイの自分が哀しいですが(ついでに「○○のはってん」と入力するとまず「ハッテン」と変換される自分のATOKも)、ニジセン、「虹色川柳」です。


LGBTレズビアン、ゲイ、バイ、トランス)当事者であることの日常や、LGBTフレンドリーな人で日ごろ感じていることなど、5・7・5の川柳にしてください」
漫画家・イラストレーター・風刺画家の壱花花さんが、この夏、サイト「壱花花WEBSITE」で募集していたのが、「虹色川柳」。


「素敵な作品にはうさぎの絵を添えて発表します」という惹句にすごい勢いで釣られて、僕も送りました。


僕は壱花花さんのクールでパワフルなメスを愛するメスうさぎ・うさうさがすごく好きで、俺の川柳に壱さんのうさぎ絵が!と思えば自然に脳内が5・7・5になるというものです。


とはいえ僕が作ってもなんか「川柳」じゃなくて「5・7・5で喋っただけ」にしかならないんですが(なぜだろう)、まあ仕方ないので「5・7・5で喋ったセリフ」を3個ほどお送りし、「俺の川柳がうさぎ絵になるああどうしよう」とすっかり「買った宝くじが当たりとしか思えなくなっている人(1億は無理でも3千万)」モードになって暮らすことしばし、壱花花さんから「発表しましたよ」とのメールが!


うさぎ絵に!うさぎ絵になってる〜!


虹色川柳ー壱花花WEBSITE


うさぎ絵だけじゃなく、ステキなコメントも添えてもらえました。とてもうれしい。壱さん、ありがとうございました。


調子乗りついでに、恐ろしいことをしたいと思います。「自作語り」です。なんて恥ずかしいんでしょう。まあはじめからこういう恥ずかしい人間なんです。運が悪いと思って諦めましょう。



壱花花さんのステキな絵を転載するわけにはいかないので(これはサイトで見たい)、とりあえず僕がはてなハイクで描いた絵でも載せておきます。
(※注意:絵と本文の内容はまったく関係ありません)





壱花花さんのコメント


お母さん…テレビ見るあなたの
その横に、いるんですよ! (壱花花)



なぜテレビだと分かったのだろう・・・。


はい、これは実話です。
観ていたのは巨匠ベルトルッチ『ラスト・エンペラー』(1987)でした。川島芳子が婉容皇后を足舐めプレイするシーンです。あの時の母の、さも嫌そうな声は忘れられん。ベルトルッチは好きだし『ラスト・エンペラー』も(あのオリエンタリズムは別として)優れた映画だと思いますが、こんな思い出のお陰であまりいい印象がありません。


ところでベルトルッチ『暗殺の森』(1971)でもレズビアン的シーンを描いていて、有名なのはこちらのほうじゃないでしょうか。
暗殺の森』は、男社会の心理に巣食うホモフォビアを抉り出した凄い作品だと思いますし、自身の中にある「異常性」のスティグマとしての同性愛の影に怯える主人公とは対照的に、悠々と女性と親密な交感を持つアンナの存在感は、確かに忘れがたい印象がありました。が、これもまた、「ミステリアスなバイ女性が無自覚なノンケ女性を誘惑して同性愛に引き込む」という、よくあるレズビアン・イメージの繰り返しだったような気がします。僕は勝手に「カーミラ・パターン」と呼んでいるんですが(←ほんと勝手だな)、レ・ファニュの『吸血鬼カーミラ』のように、美しいモンスター的なレズビアンまたはバイ女性がノンケ女性を誘惑し、観客の前でさんざん官能的な女同士の情交を演じたのち、モンスターは成敗されノンケ女性は異性愛に戻る・・・という、レズビアンの存在は認めずにレズビアニズムのエロティシズムだけを楽しむために、ボードレールから村上春樹まで繰り返されてきた表現です。レズビアン的関係はあくまで「観賞用」なのです。

ドミニク・サンダとステファニア・サンドレッリの美女2人がタンゴを踊るシーンは、この映画への言及ではほぼ必ず取り上げられる、美しい!エロティック!と絶賛の嵐なシーンですが、レズビアン・バイ女性も、あのシーンはいいと思うんでしょうか。知りたいところです。


川柳を作ったときはあまり意識しなかったんだけど、レズビアン、バイ女性とは関係のないところで、異性愛者に見せるために異性愛者が作ったレズビアン像が勝手に流され、「やだレズよ」と気持ち悪がられる。レズビアン,バイ女性はなにもしていないのに。なんか異様な光景ですね。これが「『やだレズよ』あなたの娘が そうですが」だったら、どうだったんだろう。


僕は親にカミングアウトしていませんが、たぶん今なら、何か言い返すと思います。「『やだレズ』って何さ、レズビアンの人に失礼じゃん」「これは『レズ』じゃなく男が作ってる『レズポルノ』みたいなもんじゃない」とかね。でもこの時は、鳩尾にドスッと喰らったような心地のまま、何も言えなかったです。笑える話かもしれないけど、悔しいですね。だから忘れられないのかもしれません。




壱花花さんのコメント


そうなのです!
なのに孤独だったね、あの頃は。(壱花花)



「そうなのです!」の「!」がなんだか嬉しいです。


僕は、同じ小学校、中学、高校の出身のゲイって、会ったことがないんです。近くの小学校(それこそ、合同の体育祭なんかをやったりしたこともある)出身って人にはネットで会ったことがあって、しょうもないローカルネタで盛り上がったことが一度だけありましたが。あれには驚いた。ほんとローカルネタだった。


中学や高校でゲイの友人がいたって人もいるけれど、僕はそうじゃなかったので、恋愛やら性欲に関することについては誰にも正直に語れない、という状態で10代終わりまで過ごしました。でも、あとから振り返って考えてみたら、「どう考えたって同じ学校にも、もしかしたら同じクラスにだって、いたんじゃねえか畜生ッ!」と。気づくのが遅過ぎだ。


しかし、学校にゲイがいたとしても、探す方法、確かめる方法も分からないんだから、仕方なかったですね。「彼はもしかしたら」と思っても、違うかもしれないし、逆に嫌悪を示されるかもしれない。そんな保険のないリスクを抱えて行動できるか?というと、僕にはムリだったので。


そんな感じで、中学・高校のときは、僕はただ早く大人になりたい、と思っていました。大人になって自分に自分で責任が取れるようになれば、好きなように生きることもできる、ここを抜け出せばなんとかなる、というように(まあ高校卒業して大学に行っても親のかかりじゃ「自立」とは言えないわけだけれど、成人もするし、自分で生きてゆく準備も始められるし)。


ある種の希望とともに生きていたから、「同性愛者であることを自覚してから人に言えない孤独に苦しむ少年時代を送って・・・」みたいな言い回しにはいつも違和感を覚えるし、そんなイメージを期待(?)されたり押しつけられたら、反発を感じると思う。でも、10代が自分の一部を麻痺させた判断停止、ペンディング状態で、先を急ぎたい時期でしかなかったことに、正直寂しさはあるし、今の中学生・高校生のレズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダーにもそういう経験をしている人がいるだろうか、と想像すると、辛いしハラが立つ。


デルタGのミヤマアキラさんの「忙しい8月」を読んだときも、そんなことを感じました。大げさなと言われるかもしれないけれど、なんらかの事情で「子ども時代を持てない」という人間がいるとしたら、性的少数者の子どもはその中に入っている、少なくとも、そうなるリスクを抱え込まされているんじゃないか。いまの日本で、性的少数者の子どもが存在を肯定してもらえることが保障されている場所なんてほとんどないから、子どもは少しでも早く大人になるしかない。


EMAの意見書があったにもかかわらず、NTTドコモは未成年向け有害サイトアクセス制限対象カテゴリから、「同性愛(ライフスタイル)」を外しませんでした(崎山伸夫さんの関連ブログエントリ)。性的少数者として生きるための情報は未成年者にとって「有害」だと保護者に推奨しつづけると,再宣言したようなものです。制度と親から「有害」扱いされる子どもは、どうやって生きればいいのか。

(※10月22日訂正)上掲の崎山ブログに、携帯フィルタリングサービスにおける「同性愛」カテゴリ規制撤廃の活動を行ってきた“ 共生社会をつくる” セクシュアル・マイノリティ支援全国ネットワークの方がコメントを寄せておられますが、それによれば、NTTドコモのフィルタリングサービスでは、2009年1月9日からEMA意見書通り新規契約者、既契約者に対し「同性愛(ライフスタイル)」を規制対象カテゴリから外す*1ことが確定しているとのことです。よって、上の消去部分は、僕の事実誤認です。申し訳ありませんでした。
(お詫びするとともに、嬉しいです。)
この誤りは、コメントで指摘いただきました。ありがとうございました。



インターネットは性的少数者のコミュニケーションとライフスタイルを大きく変えたと言われるけれど、いまの10代は、どうやって暮らしているのかな。ただでさえ10代は膨大な苦痛や無力感やペンディングにまみれているもんなのに、「異性愛者じゃなきゃいけない」「男か女じゃなきゃいけない」というつまらない不文律のせいで、性的少数者は子ども時代を目を瞑るようにして駆け抜けなきゃならない余計なリスクを抱えこまされる。そういうことが、少しでも軽減されていればいいと思います。




壱花花さんのコメント


言う価値のないやつには
言わないことですね☆(壱花花)


僕がカミングアウトし始めたのは、大学生のころから。高校までは上記↑のように縮こまっていたのだけれど、大学は良くも悪くも広い世界だし、自分の居場所は自分で手に入れる、つき合う相手は自分で選ぶ、と(どのへんに自信の根拠があったのかよく分からんけど)思うことができた。とはいえ、今振り返るとそれも、学生時代ならではの特殊な環境のおかげでしょうね。働き始めると、居場所やつきあう相手はそう簡単には選べないって分かるし。ともあれ、身近な友人や仕事仲間とは僕がゲイであるという事実を共有して、今までやってきています。


狭い範囲ではあるけれど、これまでカミングアウトして、拒絶反応を受けたことはあまりないです。カミングアウトって意外と簡単だよっていう一説も正しいんでしょうが、初めから確実そうな相手を選んで言っているからでもあるよな、と思います。


誰が言ったのか知らないけれど(僕も受け売りなんで、誰かが言ったんだと思うけれど)、こういう説があります。
「身近に同性愛者の友人がいなかったら、信用されてないってことだよ」
友人知人がざっと30,40人もいれば、1、2人は同性愛者がいて普通です。「自分の知り合いに同性愛者はいない」「同性愛者に会ったことはない」と思っているノンケさんがいたら、それは自分がカミングアウトできる相手だと思われていないことに、気づいてないってだけですーって、いささか極論だとは思いますが(実際、本当に同性愛者が身近にいないってこともあるだろうし、同性愛者がカミングアウトしない事情は、さまざまだし)、リアリティはけっこうあります。


カミングアウトというのは、
「身近な人間が同性愛者だという事実が当たり前に理解されている場を、その人と共有すること」
じゃないかと、僕は思います。カミングアウトがただ「ゲイだ」と言うだけではなく、それを前提とした関係を相手との間に築いてゆく行為だ、ということはよく言われていますが、それは「ゲイは普通にどこにでもいる、僕がゲイであってもよい」という単純な事実が了解された「場」がそこに生まれるということです。
そういう「場」を持つために、僕はカミングアウトした相手とは結構話をしたし、相手にも話を聞きました。相手によりけりだけど、僕はカミングアウトするとき、わりといろいろと話すんです。だって、異性愛者だとは言わなかったでしょう?異性愛者だと間違われたままでは困るから。これまで同性愛者の知りあいっていた?訊きたいことがあったらなんでも訊いて…「つき合いたくないものだったら、つき合いを変えてもいいよ」という提案まで含めて。こうして「一緒に『場』を作る」という感覚は、なんだか「出る」という一方的な行動しか意味していないように聞こえる「カミングアウト」という言葉では、うまく説明できない気が時々します。


逆に、こういう共同行為をする気力の湧かない相手には、カミングアウトする気になりません。でも、「言えないな」と思うからといって、その人を完全に信用しないわけじゃない。カミングアウトはできないと思うけれど、別の面で尊敬している人、好きな人というのはもちろんいます。その人とは単にその「場」を共有しないというだけです。


カミングアウトというのは、根本的に矛盾を孕んだ行為です。「カミングアウト」は、「クローゼット」がなければ起こりえません。じゃあ、なぜ「クローゼット」があるのか?というと、「人間はすべて異性愛者であるべきだ」という一方的な押しつけがあるからです。
本当なら、異性の恋人がいるとか、明らかに異性に性的関心を示しているとか、異性愛者だということが(あるいは、異性愛者だとアピールしたがっていることが)明らかでない限り、人間が異性愛者か、同性愛者か、両性愛者か、Aセクシュアルかなんて、分かるわけありません。なのに「オカマっぽい」とか「オナベっぽい」とか「同性愛者らしい」とされている分かりやすい印(同性愛規範=ホモノーマティヴィティ)がない限り、人間はすべてデフォルトで「異性愛者」ということにされてしまい、同性愛者は自動的に沈黙を強いられます。同性愛者はクローゼットに入るんじゃない、同性愛者だと自覚したとたん、周りに勝手にクローゼットが組み立てられるんです。そしてクローゼットの中で異性愛者のフリを続けるか、クローゼットを出るか、どちらかを選ばざるをえないんです。


カミングアウトは、マイノリティが社会に自分を抹消させないための行為、だからポジティヴな行為と言えますが、そこには
「なぜマイノリティが一方的にカミングアウトを強いられなきゃいけないんだ」
「何の権利があってマイノリティの周りにクローゼットを作るんだ」
という問いも、当然含まれてしかるべきだと思います。


逆に、カミングアウトを「ワガママだ」という批判もありますね。「言ったほうはスッキリするだろうが、言われたほうの迷惑を考えろ」というわけです。けれど、「自分の友人知人は全員異性愛者である」「親しい人間が同性愛者であることはありえない」という「妄想」に執着し、「この俺の脳内妄想を死守するためにおまえも協力すべきだ!なのに知りたくもない”現実”を見せやがって!」と言われたって、それも十分、ワガママにもほどがある、と思います。


・・・と、カミングアウトについて一般論的に語ることは、あまり楽しい行為じゃありません。肝心なことがこぼれ落ちるから。カミングアウトというのは、恐ろしく個人的な「生活そのもの」だと思うからです。
だって、好むと好まざるにかかわらず、同性愛者はクローゼット/カミングアウトとともに生きていかなければならないんだから。クローゼット/カミングアウトの選択は1人1人の人間の人生であり日常でありサバイバルなんです。


可能性があるとしたら・・・「場」が生まれること、増殖することでしょうか。
「同性愛者が身近にいる事実が当たり前に共有されている場」、クローゼットが無効である、従ってカミングアウトも無効である「場」が。
僕の個人的なカミングアウトやサバイバルが、それにつながることなのか、分からないのですが。




さて、我ながらウンザリするような自分語りでした。


壱花花さん、ありがとうございました。
ニジセンは来年また募集するかもしれないんだそうです。いまから5・7・5で喋っておこうかな。(で、また語る気か?!)

*1:ドコモの発表では「見直し」だが、共生ネットの問い合わせに対するEMA事務局の回答によれば、外す作業は確定しているようです。

キム・ジフさんの自殺、そして、証明不可能なー


10月6日(韓国時間、日本時間10月7日)、23歳の韓国の俳優・モデルのキム・ジフさんが、自宅で亡くなっているのを発見された。自殺と報じられている。


キムさんは、性的少数者のゲストがTVを通しカミングアウトするという韓国ケーブルTVの番組『カミングアウト』にこの6月出演し、ゲイであることをカムアウトしていた。
ネットで伝えられているニュースによれば、カミングアウト前の契約を軒並み破棄され、ネットに書き込まれる誹謗中傷に苦しめられたが、ドラマでゲイ役を演じ、ゲイに対する偏見を打ち破る意欲も見せていた。
だが、結局、自分で自分の命を絶つことを選んだ。カミングアウトしてからわずか4ヶ月という時間は、あまりにも短い。


現在、韓国ではタレントの自殺が相次いでいることが衝撃を与えており、キムさんの死も、ショックとともに伝えられている。
先月から相次いで亡くなったタレント4人のうち、2人は性的少数者である。10月3日に亡くなったトランスジェンダーチャン・チェウォンさん、そしてキム・ジフさん。


韓国語を読めない僕が見ることができるのは日本語webの情報だけだが、キム・ジフさんの自殺を伝える報道は、韓国系日本語メディアを中心に多数出ている。
ニュースサイトなのですぐにリンク切れしてしまうものもあるかもしれないが、とりあえず、リンクしてみる。


【訃報】モデルのキム・ジフさん自殺ーchosun Onlineエンタメコリア(2008/10/08 12:29:24)
自殺したキム・ジフさんってどんな人?ーchosun Onlineエンタメコリア(2008/10/08 12:37:50)
故キム・ジフさん「人生は風のようなもの」ーchosun Onlineエンタメコリア(2008/10/08 13:53:01)
故キム・ジフさん、カミングアウト後に契約話消えるーchosun Onlineエンタメコリア(2008/10/08 14:23:59)


‘カミングアウト’のキム・ジフさんが死亡、自殺と推定ー中央日報(2008.10.08 13:51;28)
芸能界の性的少数者、なぜ自殺?ー中央日報( 2008.10.09 16:39:17)


またしても俳優が自殺 「自らをゲイだと告白後、誹謗中傷に悩んでいた…」ーWow!Koreaニュース(2008/10/08 14:39:54)


ホン・ソクチョン「キム・ジフはカミングアウト後、誹謗中傷に苦しんでいた」ーYahoo!ニュース(10月8日16時27分)


韓国で芸能人の自殺続く 「後追い」憂慮もーmsn産経ニュース(2008.10.8 21:55)


「また自殺?!」韓国芸能界パニック!?韓国芸能ニュースーK-PLAZA.com(2008-10-08)


モデルのキム・ジフさんが自殺 芸能人の死相次ぐーYahoo!ニュース(10月9日10時19分)


【イタすぎるセレブ達・番外編】またもや韓国、イケメン俳優キム・ジフが自殺。ーTechinsight.japan( 2008年10月9日 12:53)


Kim Ji-HooーGoogle検索結果


このほか韓国のドラマ、タレントに詳しい人たちのブログも、キム・ジフさんの死を取り上げている。そうした方のブログを参考にすると、目下の報道には、若いキム・ジフさんのキャリアなどの情報は、曖昧なところがあるらしい(出演番組など)。
はなはだしい情報の混乱は、一部のメディアでは、キム・ジフさんがゲイなのか性同一性障害なのかも分かっていない、ということだ。一部は明らかにその区別からして分かっておらず、「同性愛=性同一性障害」と思い込んでいるらしい。中央日報などは、キムさんをトランスジェンダーとしたうえ、「トランスジェンダー=性別が不安定→脆弱」という精神科医の言葉(もっともらしい権威だ)を引いて、あたかもチャン・チェウォンさんとキム・ジフさんの自殺が「性同一性障害による精神的問題」のせいであるという理解にリードするような書き方をしているように感じられる。


こんな問題もあるとはいえ、とにかくこれらのニュースを参考に、キム・ジフさんのことを、まとめてみる(僕は韓国芸能界の知識はないので、以下は上掲のリンクのソースによる情報の切り貼りに過ぎないことを、お断りしておく)


キム・ジフさんは、1985年生まれ。ソウル放送(SBS)のバラエティ番組『真実ゲーム』で芸能界デビューした。俳優としては、文化放送MBC)の人気ドラマ『思い切りハイキック』(2006-2007年)や『ビフォー&アフター整形外科』(2008年 日本放送予定)などに出演している。
モデルとしては2007年、SONGZIO HOMMEのソン・ジオ、CARUSOのチャン・グァンヒョのHOMMEコレクションに出演し、注目されたという。


キムさんは、2008年4月から放送開始した『カミングアウト』(デルタG関連記事)にこの6月出演し、ゲイであることをカムアウトした。


しかし、『カミングアウト』に出演してわずか1月の7月には、芸能事務所との契約を軒並み破棄されたと、インタビューで語っている。


「芸能プロダクションと専属契約の話があったのに、カミングアウト後すべてなかったことになった」
「(カミングアウトが)マイナスになったのは確か。芸能プロダクション数社と契約話が進んでいたが、カミングアウト後すべてダメになってしまった。“まだ偏見の壁は高いな”と思った」


chosun Onlineエンタメコリア


が、最近出演していたケーブルTVのリアリティドラマでは、カミングアウトしたバリスタという、自分自身に共通する役を演じていたという。Wow!Koreaニュースが伝えているキムさんの言葉は、彼がカミングアウトしたゲイのタレントとして、自覚的にロール・モデルの役割を引き受けようとしていたのではないか?と感じさせる。「放送を通して歪曲されたゲイのイメージが拡散しなければよいと願う。人々の偏見を打ち破る意味でも、必ず成功させたい」


日本にはゲイ、トランスジェンダーであることをカムアウトして言わば「トレードマーク」にしているタレントが少なくないし、好感度キャラとして活躍する彼ら彼女らは、性的少数者のイメージを変えることに貢献していると思う。が、こういう言葉を明言できる人は、あまりいないだろう。日本のタレントは、社会の偏見のことにも、彼らが商品として発し続けているステレオタイプにむしろ苦しめられている無数の性的少数者がいることにも、概して口をつぐんでいる。どのメディアで発した言葉なのか、ソースは明らかではないのだけれど、キムさんのこの言葉に示されるような姿勢は、性的少数者の子ども、若者をどれほど勇気づけるかと思う。


だが、それは、命を絶つ、ということで終わった。


キム・ジフさんの自殺の理由として、ほとんどのニュースが指摘しているのは、カミングアウト後にネットで起きた誹謗中傷だ。2000年にゲイであることをカミングアウトし、番組『カミングアウト』の司会をつとめている俳優ホン・ソクチョンさん(韓国芸能人ProfileーK-PLAZA.com)は、キムさんがカミングアウトしてからネットで中傷を書かれるようになったこと、ファンだった人からも悪口を書かれて傷ついていたこと、仕事がうまくゆかず悩んでいたらしいと語っている(Yahoo!ニュース)。


10月3日、キムさんは、自身のHPの掲示板に、「人生は風のようなもの」というタイトルの書き込みを載せ、死を暗示する言葉を残した。
「この世に来たのも風のように来た。この肉体を捨てるのも風のように消える。 秋の風が吹いて美しく染まった葉を落とすように、はかない風が吹いてすべてのものを空虚にするだろう」


そして6日深夜、午前1時、空を飛ぶようにジャンプしている自分の写真をサイトに載せ、同日、自宅で亡くなっているのを発見されたという(chosun Onlineエンタメコリア)。





デルタGさんが紹介している、相次ぐタレントの自殺を受けてホン・ソクチョンさんが自身のHPに書いたという言葉に、僕は涙が出た。僕はよく泣く人間だが、PCの前でボロボロボロボロ取り憑かれたみたいにバカみたいに泣いた。



 生き残った者の宿題が何なのか必ず解決しなければならない。先に去った魂に私ができるなぐさめはひとつだけだ。1対1で闘おう。倒れないで…恐れないで。生き残らなければならない。必ず生き残ろう…。


【韓国】相次ぐ自殺にホン・ソクチョン氏コメントーデルタG


はっきりと心を打ち明ける言葉を残さずに命を絶った人が、なぜそうしなければならなかったのか、知ることはできない。
カミングアウトしてから、わずか4ヶ月、カミングアウト前のすべての契約を打ち切られ、ネットの誹謗中傷に苦しんでいたことを打ち明けた23歳の青年がどうして死を選んだのか、その痛みの深さを勝手に憶測することは、ためらわれる。


だが、彼の心になにがあったとしても、カミングアウトに対する契約打ち切りや誹謗中傷が、その早すぎる死と無関係だったとは思われない。


どんな中傷が書き込まれたのか、韓国語のできない僕には知ることはできない。だが、推測は(、よくないこととはいえ)可能だ。
同性愛への偏見と嫌悪が激しいと言われる韓国じゃなく、この日本でも。いまwebを往来している沢山の人たちが、自分の言葉で語っている。同性愛者に嫌悪を示すのは「自由」なのだと。「嫌悪することも権利」なのだと。


そして、性的少数者は多くの多数者に嫌われる。こと、カミングアウトした性的少数者は嫌われる。楽しいオネエ言葉や陽気なオカマスタイル、あるいはもとは生物学的男だったはずなのに女そのものの、観客を驚かせる美しい容姿など、ホモやオカマとはこうだ、と多数派が認める同性愛規範(ホモノーマティヴィティ)に従っているわけでもないのにカミングアウトするゲイに、マジョリティは嫌悪を示す。なぜ、わざわざ言うのかと。


同性愛者に「自然と」嫌悪感を抱くことを責められる謂れはなく、同性愛者を嫌うことは「自由」だ。いまwebを往来している大勢の人たちが,自分の言葉でそう言っている。だから、それをネットに掲示板に書き込むのも「自由」だ。ゲイだとカミングアウトした俳優をよってたかって誹謗中傷するのは「自由」だ。


タレントは「好かれて」こそ売れる職業だ。「嫌われる」タレントは、契約を打ち切られても不思議ではない。


だから、証明することは不可能なのだ。彼はそういう「自由な」同性愛嫌悪に殺されたも同然じゃないのかと言いたくても、彼の自殺が限りなく「憎悪殺人」の色をしているとしても。


憎悪犯罪は、傷つけた人間、傷つけられた傷、そこに介在した嫌悪・憎悪を証拠として立証できなければ、成立しない。むろん自殺は殺人ではない。人を自殺に追い込むまで誹謗中傷しても、そこに犯罪性を指摘することは難しい。どこにも証拠らしい証拠は残らない。同性愛者に対する嫌悪を「自由に」表明することは、いまの社会の「常態」なのだから。いまwebを往来している多くの人々が,自分の言葉でそう言っている。


そんな社会で、なら身を守る方法は、結局ゲイだとカミングアウトしないことだったのか。
亡くなったキム・ジフさんに、
「ゲイだとカミングアウトしなければ、死ぬことにはならなかったのに」
という人が、いるだろうか。
もちろん、いるだろう。そしてそれは現実を生きるために、正しいといえるだろう。
だがそれは、「同性愛者だと言いさえしなければ生命の危険はない」という理由で、同性愛行為を死刑とする刑法を持つ国に送還されようとしたイラン人のゲイの青年が言われたことと、ほとんど変わらないではないか。そして、
「カミングアウトしなければ、死ぬことはない」
という論理は、
「カミングアウトしたら、死ぬことになってもしかたがない」
という論理と、無関係ではない。どこかでつながっている。


「必ず生き残ろう」
自身カミングアウトしたために約3年芸能界を追放状態になり韓国の芸能界の同性愛者のカミングアウトは勧めない、と語ったこともある、ホン・ソクチョンさんのメッセージが胸を噛んだ。
10代、20代のころ、たしかに「生き残ってやる」と思いながら生きてきた過去がフラッシュバックして、この言葉のあまりの優しさ、いたわりにずっと抑えていたものが溢れ出してくる痛みを感じながら、いまなお10代、20代の若い人々が「生き残る」覚悟を持たねばならないという事実、そのなかでたった23歳の青年が命を絶ったという事実のあまりの堪え難さに完全に心が挫けて、僕は涙にまみれるようにして泣いた。


「生き残らねばならない」とは、「殺されるな」ということだ。


性的少数者だと告げると、死に追いやられる危険が潜んでいる世界。
レズビアンやゲイやバイセクシュアルやトランスジェンダーが生き残れないかもしれない社会。
それは絶対に、絶対に「普通」なんかじゃない。

C. Saura, Tango (1998)


ちょっと、目の保養(?)とか。


ダンスのことはよく分からないけれど、タンゴって、2人の人間の交わりを突き詰めに突き詰めて様式化したダンスなのかなあと感じる。


対になって踊る2人のあいだに演じられる関係(概して男と女)を、あそこまで意識してドギマギさせられるダンスもないような気がする。あの体の近さ、絡まりかた、エロティックさ、恐ろしく濃い愛と欲望の表現に見えるけれど、踊っている2人は欲望し合う以上に憎み合っているようでもあり、戦っているようでもあり。
誰かを欲望してしまうともう一瞬の平安もないんだという、考えるだに気が滅入る人間の業のようなものを、もの凄い様式美にして踊っている、そんなふうに感じられてしまう(ぜんぜん違うのかもしれないけど)。だからタンゴってあんまり見るの好きじゃない、しんどい、疲れる(なんだそりゃ)。
こんなダンスを生み出してしまう文化って、どんな文化なんだろうと不思議に思う。


スペインの映画監督C.サウラがアルゼンチンを舞台に撮った『タンゴ』。
ミュージカル・ショーの製作過程に、男女のドラマが絡まり、そしてアルゼンチンの現代史が浮かび上がる。


goo映画ータンゴ(1998)


次から次へとスタイリッシュなタンゴで表現される人間と人間の濃密でエロティックな交わりの中には、当然、女と女の交わり、男と男の交わりもある。


最良の男と男のタンゴかどうかは、分からないけれど。
週末の深夜に,一緒にドギマギしましょう(笑)。


Tango Saura Julio Bocca Carlos Rivarola

NHK「ハートをつなごう ゲイ・レズビアン第2弾」のメモ


NHK「ハートをつなごう」「ゲイ・レズビアン第2弾」見た〜。
今回はオンタイムに見たぞ。このために定時じゃないけどいつもより早めに帰宅して夕飯も済ませてTVの前にスタンバイしたぞ(←ACLの試合の日のサカヲタのようだ)。


今日は同性婚についてだった。
登場したのはレズビアンカップルだが、性的少数者が結婚の権利から疎外されて生きることがどんなことか、凝縮されたような内容だった。
異性愛者にとってあたりまえのことが、いちいち、いちいち、当たり前ではない。
異性愛者がたぶん日ごろ意識もしていない特権を、たんたんと逆照射するように描き出していたと思う(って、そんなことが気になってしまったのは僕だけかもしれないが)。


全体に優しい、誰にも共感を抱かせるだろう作りになっていた。けれど、僕にとっては、聴いていてキビしすぎる言葉が多過ぎた。
以下は、番組を観ながら取った、走り書きのメモ(ひとつひとつのセリフはウロおぼえ)。
ぜんぜんまとまりがないけど、ちゃんとした感想はいろいろなブログに出ると思うので、僕は思いつくままに好きほうだい書いてしまおう(←なんという態度)。
ところどころ雰囲気ぶち壊すようなツッコミ思考や関係なさそうな自分ワールドに走っているけど。番組の感想・紹介というより、僕の脳内と思って下さい。


「同性愛者として生きることは、孤独を受け入れることだと思っていた」
←なんで、そう思わせられなきゃいけないんだ…。
「孤独を受け入れて」生きなければならない人間はもちろんたくさんいるけれど、同性愛者だとデフォルトなんだろうか?ひどすぎる。


来月カナダで挙式する凌さん・美月さんカップルの式には、勤め先の直属の上司や、社長も出席。
←職場で仲のいい同僚にしかカミングアウトしていない僕には、かなりクル(何が)。


カナダは、外国人にも結婚証明書を発行する。
←この結婚証明書、性別欄があるんだなあ・・・同性カップルには「同性で結婚したぞ、どうだあ!」というインパクトがありそうだけど、性別欄、ない方がいいのにあ。
同性婚を法制化している国は、「結婚に性別を問わない」としているんだよね、確か。じゃあ性別欄がない方がいいのにな。)


凌さん「結婚をする、したことが…(壁を)乗り越える力になる」「認められない中で、自分たちが(この関係を)大事にしていく、意味のないことにしたくない」
←「結婚の権利」を求めるとき、僕らはひたすら「法的保障」を主張せざるをえない。そこにしか「結婚」が保障する権利はないからだ。しかし、結婚の権利を持つ異性愛者は、結婚や結婚を想定するようなパートナーシップを、絶えず関係を再生産してゆく精神的なよりどころとしているはず(もちろん、現在結婚「制度」に利益を見いだしていない異性愛者は少なくなく,僕の友人知人にも事実婚カップルは多いが、「事実婚」も明らかに「結婚」のバリエーションだろう)。
むろん、パートナーシップは結婚だけで成り立つものじゃないと僕は思うが、とにかく感じたのは、社会的なパートナー契約の選択肢が前提として「ある」人間と「ない」人間の落差。


中学生のとき、女の子が好きだとカミングアウトすると。「母親が泣き出した」「夜も眠れなかった、母親が」
←なんでこんな目にあわなきゃならんのだ…。(←こればっかり


「1人で死ぬということを,イメージトレーニングじゃないけど、小さな頃から、ずっと考えていた」
←僕は、小さな頃は、そこまでリアルじゃなかった。10代のころは、とにかく未成年をすっ飛ばして大人になりたかった(いや、オマエのことは誰もきいていない)。割と具体的に前向きに「一生1人で生きる」をイメージトレーニングしたのは20代の頃だ。
ただ、現代は、「1人で死ぬ」ことにあまりにネガティヴなスティグマを与えすぎている、と思う。


東京に出て、レズビアンの友人もでき、恋人もできたけれど、恋人は「親の反対する道にはすすめない」と
←だからなんで、こんな目にあわなきゃならん…。


高校の友人達との会話
「ハンマーでがくんとやられたようで」
「ポピュラーじゃないし、絶対反対される…不幸、不幸じゃないにしても、そうなって欲しくないから、確認した、というか」
「知らない人なら、エーッと思うこともあるだろうけど」
「普通の人とかいってしまうけれど…変わらないし」
「内心差別しているのかなと、思ってしまったり」(泣くお友達)
「背負っているものが多いのに、幸せになろうとしているのがすごいなと」

←こういうところから始めなければならないのが、しんどい…。ノンケさんは,こういうやり取りをしなきゃならない友人関係、想像してみて。


結婚を間近にひかえた2人の
「親は完全には受け入れていない」
「幸せになれるんだろうかという疑問が、少しずつほぐれてきた」
「最初に実家にいった時は、目も合わさない感じだったのに」
「すぐに両手を上げて祝福するのは難しいと分かっている」
「これからの歩みを見てもらって、安心してもらいたい」

←ノンケカップルだったら、よほどのDQNでないかぎり、こんな目にはあわんのだろうな…
なんで、こんなに疑われなきゃいかんのだ…。


スタジオで、ソニンさんが
「2人のあいだに流れる空気が、なん〜〜も変じゃなくて」

←わざわざそれを確認せなならんのが、悲しい…。


石田衣良さんの質問「デートをはじめてすぐ、死後の設計とかしたんですか?」

←ノンケカップルは、そんな設計すんだろうか…。


石川大我さん「1人で生きて、1人で死ぬんだと思っていたので…母がシュウマイを作っていると、そばに行って見て覚えて…料理はできなきゃならない、と…父親がラジカセ修理してたら、そばに行って…なんでも1人でできなきゃならないと思っていた」

←おお〜俺もそうだった〜〜。最初に覚えたのがなぜかアイロンがけ。


石田さん「一緒に暮らしているのに、緊急連絡先に入っていないって、辛いね」