壱花花WEBSITE「ニジセン」発表!(にかこつけて「自分語り」するよ!)


「ニジセン」が発表されましたよ!


ニジセンーナニ専?と脊髄反応したいゲイの自分が哀しいですが(ついでに「○○のはってん」と入力するとまず「ハッテン」と変換される自分のATOKも)、ニジセン、「虹色川柳」です。


LGBTレズビアン、ゲイ、バイ、トランス)当事者であることの日常や、LGBTフレンドリーな人で日ごろ感じていることなど、5・7・5の川柳にしてください」
漫画家・イラストレーター・風刺画家の壱花花さんが、この夏、サイト「壱花花WEBSITE」で募集していたのが、「虹色川柳」。


「素敵な作品にはうさぎの絵を添えて発表します」という惹句にすごい勢いで釣られて、僕も送りました。


僕は壱花花さんのクールでパワフルなメスを愛するメスうさぎ・うさうさがすごく好きで、俺の川柳に壱さんのうさぎ絵が!と思えば自然に脳内が5・7・5になるというものです。


とはいえ僕が作ってもなんか「川柳」じゃなくて「5・7・5で喋っただけ」にしかならないんですが(なぜだろう)、まあ仕方ないので「5・7・5で喋ったセリフ」を3個ほどお送りし、「俺の川柳がうさぎ絵になるああどうしよう」とすっかり「買った宝くじが当たりとしか思えなくなっている人(1億は無理でも3千万)」モードになって暮らすことしばし、壱花花さんから「発表しましたよ」とのメールが!


うさぎ絵に!うさぎ絵になってる〜!


虹色川柳ー壱花花WEBSITE


うさぎ絵だけじゃなく、ステキなコメントも添えてもらえました。とてもうれしい。壱さん、ありがとうございました。


調子乗りついでに、恐ろしいことをしたいと思います。「自作語り」です。なんて恥ずかしいんでしょう。まあはじめからこういう恥ずかしい人間なんです。運が悪いと思って諦めましょう。



壱花花さんのステキな絵を転載するわけにはいかないので(これはサイトで見たい)、とりあえず僕がはてなハイクで描いた絵でも載せておきます。
(※注意:絵と本文の内容はまったく関係ありません)





壱花花さんのコメント


お母さん…テレビ見るあなたの
その横に、いるんですよ! (壱花花)



なぜテレビだと分かったのだろう・・・。


はい、これは実話です。
観ていたのは巨匠ベルトルッチ『ラスト・エンペラー』(1987)でした。川島芳子が婉容皇后を足舐めプレイするシーンです。あの時の母の、さも嫌そうな声は忘れられん。ベルトルッチは好きだし『ラスト・エンペラー』も(あのオリエンタリズムは別として)優れた映画だと思いますが、こんな思い出のお陰であまりいい印象がありません。


ところでベルトルッチ『暗殺の森』(1971)でもレズビアン的シーンを描いていて、有名なのはこちらのほうじゃないでしょうか。
暗殺の森』は、男社会の心理に巣食うホモフォビアを抉り出した凄い作品だと思いますし、自身の中にある「異常性」のスティグマとしての同性愛の影に怯える主人公とは対照的に、悠々と女性と親密な交感を持つアンナの存在感は、確かに忘れがたい印象がありました。が、これもまた、「ミステリアスなバイ女性が無自覚なノンケ女性を誘惑して同性愛に引き込む」という、よくあるレズビアン・イメージの繰り返しだったような気がします。僕は勝手に「カーミラ・パターン」と呼んでいるんですが(←ほんと勝手だな)、レ・ファニュの『吸血鬼カーミラ』のように、美しいモンスター的なレズビアンまたはバイ女性がノンケ女性を誘惑し、観客の前でさんざん官能的な女同士の情交を演じたのち、モンスターは成敗されノンケ女性は異性愛に戻る・・・という、レズビアンの存在は認めずにレズビアニズムのエロティシズムだけを楽しむために、ボードレールから村上春樹まで繰り返されてきた表現です。レズビアン的関係はあくまで「観賞用」なのです。

ドミニク・サンダとステファニア・サンドレッリの美女2人がタンゴを踊るシーンは、この映画への言及ではほぼ必ず取り上げられる、美しい!エロティック!と絶賛の嵐なシーンですが、レズビアン・バイ女性も、あのシーンはいいと思うんでしょうか。知りたいところです。


川柳を作ったときはあまり意識しなかったんだけど、レズビアン、バイ女性とは関係のないところで、異性愛者に見せるために異性愛者が作ったレズビアン像が勝手に流され、「やだレズよ」と気持ち悪がられる。レズビアン,バイ女性はなにもしていないのに。なんか異様な光景ですね。これが「『やだレズよ』あなたの娘が そうですが」だったら、どうだったんだろう。


僕は親にカミングアウトしていませんが、たぶん今なら、何か言い返すと思います。「『やだレズ』って何さ、レズビアンの人に失礼じゃん」「これは『レズ』じゃなく男が作ってる『レズポルノ』みたいなもんじゃない」とかね。でもこの時は、鳩尾にドスッと喰らったような心地のまま、何も言えなかったです。笑える話かもしれないけど、悔しいですね。だから忘れられないのかもしれません。




壱花花さんのコメント


そうなのです!
なのに孤独だったね、あの頃は。(壱花花)



「そうなのです!」の「!」がなんだか嬉しいです。


僕は、同じ小学校、中学、高校の出身のゲイって、会ったことがないんです。近くの小学校(それこそ、合同の体育祭なんかをやったりしたこともある)出身って人にはネットで会ったことがあって、しょうもないローカルネタで盛り上がったことが一度だけありましたが。あれには驚いた。ほんとローカルネタだった。


中学や高校でゲイの友人がいたって人もいるけれど、僕はそうじゃなかったので、恋愛やら性欲に関することについては誰にも正直に語れない、という状態で10代終わりまで過ごしました。でも、あとから振り返って考えてみたら、「どう考えたって同じ学校にも、もしかしたら同じクラスにだって、いたんじゃねえか畜生ッ!」と。気づくのが遅過ぎだ。


しかし、学校にゲイがいたとしても、探す方法、確かめる方法も分からないんだから、仕方なかったですね。「彼はもしかしたら」と思っても、違うかもしれないし、逆に嫌悪を示されるかもしれない。そんな保険のないリスクを抱えて行動できるか?というと、僕にはムリだったので。


そんな感じで、中学・高校のときは、僕はただ早く大人になりたい、と思っていました。大人になって自分に自分で責任が取れるようになれば、好きなように生きることもできる、ここを抜け出せばなんとかなる、というように(まあ高校卒業して大学に行っても親のかかりじゃ「自立」とは言えないわけだけれど、成人もするし、自分で生きてゆく準備も始められるし)。


ある種の希望とともに生きていたから、「同性愛者であることを自覚してから人に言えない孤独に苦しむ少年時代を送って・・・」みたいな言い回しにはいつも違和感を覚えるし、そんなイメージを期待(?)されたり押しつけられたら、反発を感じると思う。でも、10代が自分の一部を麻痺させた判断停止、ペンディング状態で、先を急ぎたい時期でしかなかったことに、正直寂しさはあるし、今の中学生・高校生のレズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダーにもそういう経験をしている人がいるだろうか、と想像すると、辛いしハラが立つ。


デルタGのミヤマアキラさんの「忙しい8月」を読んだときも、そんなことを感じました。大げさなと言われるかもしれないけれど、なんらかの事情で「子ども時代を持てない」という人間がいるとしたら、性的少数者の子どもはその中に入っている、少なくとも、そうなるリスクを抱え込まされているんじゃないか。いまの日本で、性的少数者の子どもが存在を肯定してもらえることが保障されている場所なんてほとんどないから、子どもは少しでも早く大人になるしかない。


EMAの意見書があったにもかかわらず、NTTドコモは未成年向け有害サイトアクセス制限対象カテゴリから、「同性愛(ライフスタイル)」を外しませんでした(崎山伸夫さんの関連ブログエントリ)。性的少数者として生きるための情報は未成年者にとって「有害」だと保護者に推奨しつづけると,再宣言したようなものです。制度と親から「有害」扱いされる子どもは、どうやって生きればいいのか。

(※10月22日訂正)上掲の崎山ブログに、携帯フィルタリングサービスにおける「同性愛」カテゴリ規制撤廃の活動を行ってきた“ 共生社会をつくる” セクシュアル・マイノリティ支援全国ネットワークの方がコメントを寄せておられますが、それによれば、NTTドコモのフィルタリングサービスでは、2009年1月9日からEMA意見書通り新規契約者、既契約者に対し「同性愛(ライフスタイル)」を規制対象カテゴリから外す*1ことが確定しているとのことです。よって、上の消去部分は、僕の事実誤認です。申し訳ありませんでした。
(お詫びするとともに、嬉しいです。)
この誤りは、コメントで指摘いただきました。ありがとうございました。



インターネットは性的少数者のコミュニケーションとライフスタイルを大きく変えたと言われるけれど、いまの10代は、どうやって暮らしているのかな。ただでさえ10代は膨大な苦痛や無力感やペンディングにまみれているもんなのに、「異性愛者じゃなきゃいけない」「男か女じゃなきゃいけない」というつまらない不文律のせいで、性的少数者は子ども時代を目を瞑るようにして駆け抜けなきゃならない余計なリスクを抱えこまされる。そういうことが、少しでも軽減されていればいいと思います。




壱花花さんのコメント


言う価値のないやつには
言わないことですね☆(壱花花)


僕がカミングアウトし始めたのは、大学生のころから。高校までは上記↑のように縮こまっていたのだけれど、大学は良くも悪くも広い世界だし、自分の居場所は自分で手に入れる、つき合う相手は自分で選ぶ、と(どのへんに自信の根拠があったのかよく分からんけど)思うことができた。とはいえ、今振り返るとそれも、学生時代ならではの特殊な環境のおかげでしょうね。働き始めると、居場所やつきあう相手はそう簡単には選べないって分かるし。ともあれ、身近な友人や仕事仲間とは僕がゲイであるという事実を共有して、今までやってきています。


狭い範囲ではあるけれど、これまでカミングアウトして、拒絶反応を受けたことはあまりないです。カミングアウトって意外と簡単だよっていう一説も正しいんでしょうが、初めから確実そうな相手を選んで言っているからでもあるよな、と思います。


誰が言ったのか知らないけれど(僕も受け売りなんで、誰かが言ったんだと思うけれど)、こういう説があります。
「身近に同性愛者の友人がいなかったら、信用されてないってことだよ」
友人知人がざっと30,40人もいれば、1、2人は同性愛者がいて普通です。「自分の知り合いに同性愛者はいない」「同性愛者に会ったことはない」と思っているノンケさんがいたら、それは自分がカミングアウトできる相手だと思われていないことに、気づいてないってだけですーって、いささか極論だとは思いますが(実際、本当に同性愛者が身近にいないってこともあるだろうし、同性愛者がカミングアウトしない事情は、さまざまだし)、リアリティはけっこうあります。


カミングアウトというのは、
「身近な人間が同性愛者だという事実が当たり前に理解されている場を、その人と共有すること」
じゃないかと、僕は思います。カミングアウトがただ「ゲイだ」と言うだけではなく、それを前提とした関係を相手との間に築いてゆく行為だ、ということはよく言われていますが、それは「ゲイは普通にどこにでもいる、僕がゲイであってもよい」という単純な事実が了解された「場」がそこに生まれるということです。
そういう「場」を持つために、僕はカミングアウトした相手とは結構話をしたし、相手にも話を聞きました。相手によりけりだけど、僕はカミングアウトするとき、わりといろいろと話すんです。だって、異性愛者だとは言わなかったでしょう?異性愛者だと間違われたままでは困るから。これまで同性愛者の知りあいっていた?訊きたいことがあったらなんでも訊いて…「つき合いたくないものだったら、つき合いを変えてもいいよ」という提案まで含めて。こうして「一緒に『場』を作る」という感覚は、なんだか「出る」という一方的な行動しか意味していないように聞こえる「カミングアウト」という言葉では、うまく説明できない気が時々します。


逆に、こういう共同行為をする気力の湧かない相手には、カミングアウトする気になりません。でも、「言えないな」と思うからといって、その人を完全に信用しないわけじゃない。カミングアウトはできないと思うけれど、別の面で尊敬している人、好きな人というのはもちろんいます。その人とは単にその「場」を共有しないというだけです。


カミングアウトというのは、根本的に矛盾を孕んだ行為です。「カミングアウト」は、「クローゼット」がなければ起こりえません。じゃあ、なぜ「クローゼット」があるのか?というと、「人間はすべて異性愛者であるべきだ」という一方的な押しつけがあるからです。
本当なら、異性の恋人がいるとか、明らかに異性に性的関心を示しているとか、異性愛者だということが(あるいは、異性愛者だとアピールしたがっていることが)明らかでない限り、人間が異性愛者か、同性愛者か、両性愛者か、Aセクシュアルかなんて、分かるわけありません。なのに「オカマっぽい」とか「オナベっぽい」とか「同性愛者らしい」とされている分かりやすい印(同性愛規範=ホモノーマティヴィティ)がない限り、人間はすべてデフォルトで「異性愛者」ということにされてしまい、同性愛者は自動的に沈黙を強いられます。同性愛者はクローゼットに入るんじゃない、同性愛者だと自覚したとたん、周りに勝手にクローゼットが組み立てられるんです。そしてクローゼットの中で異性愛者のフリを続けるか、クローゼットを出るか、どちらかを選ばざるをえないんです。


カミングアウトは、マイノリティが社会に自分を抹消させないための行為、だからポジティヴな行為と言えますが、そこには
「なぜマイノリティが一方的にカミングアウトを強いられなきゃいけないんだ」
「何の権利があってマイノリティの周りにクローゼットを作るんだ」
という問いも、当然含まれてしかるべきだと思います。


逆に、カミングアウトを「ワガママだ」という批判もありますね。「言ったほうはスッキリするだろうが、言われたほうの迷惑を考えろ」というわけです。けれど、「自分の友人知人は全員異性愛者である」「親しい人間が同性愛者であることはありえない」という「妄想」に執着し、「この俺の脳内妄想を死守するためにおまえも協力すべきだ!なのに知りたくもない”現実”を見せやがって!」と言われたって、それも十分、ワガママにもほどがある、と思います。


・・・と、カミングアウトについて一般論的に語ることは、あまり楽しい行為じゃありません。肝心なことがこぼれ落ちるから。カミングアウトというのは、恐ろしく個人的な「生活そのもの」だと思うからです。
だって、好むと好まざるにかかわらず、同性愛者はクローゼット/カミングアウトとともに生きていかなければならないんだから。クローゼット/カミングアウトの選択は1人1人の人間の人生であり日常でありサバイバルなんです。


可能性があるとしたら・・・「場」が生まれること、増殖することでしょうか。
「同性愛者が身近にいる事実が当たり前に共有されている場」、クローゼットが無効である、従ってカミングアウトも無効である「場」が。
僕の個人的なカミングアウトやサバイバルが、それにつながることなのか、分からないのですが。




さて、我ながらウンザリするような自分語りでした。


壱花花さん、ありがとうございました。
ニジセンは来年また募集するかもしれないんだそうです。いまから5・7・5で喋っておこうかな。(で、また語る気か?!)

*1:ドコモの発表では「見直し」だが、共生ネットの問い合わせに対するEMA事務局の回答によれば、外す作業は確定しているようです。