三橋順子「テレビの中の性的マイノリティ」『週刊金曜日』(2009.6.12)

  
昨今のテレビメディアでは、性的少数者タレントの活躍が目覚ましいといわれる。ゲイやトランスジェンダーの芸能人をかつてのように貶めるのではなく、「ちゃんと」「好意的に」扱っており、「性的少数者の認知につながっている」という評価も聞くことがある。
でも、本当にそうなんだろうか。
  
そんなことをいつも考えさせられているのだが、『週刊金曜日』今週号に、三橋順子さんのエッセイ「テレビの中の性的マイノリティ」(pp. 22-23.)が載っていた。すばらしい記事だったので、紹介してみたい。
テレビメディアの性的少数者タレントの扱いかたには、どんな歪みが隠れているのか、そしてテレビメディアのそうした性的少数者タレントの表現が、日本社会の性的少数者のイメージにどんな影響を与えているのか、テレビメディアの責任を追及している小論だ。
  

という3トピックからなっている。
  
自己流に論旨をまとめてみると、「女性を愛する男らしい男」(異性愛者男性)を基準に作られたジェンダーセクシュアリティの規範へのテレビメディアの迎合が、タレントの扱いに見られる性的少数者認識の粗雑さ・偏向の原因となり、大衆が抱く性的少数者のイメージを操作しているというものだ。単に「テレビメディアの性的少数者の表象はいい加減だ」的な苦言を呈しているのではなく、LGBTならテレビを見るたびに感じていたがうまく表現できなかった違和感や齟齬やいらだちが、おだやかな文章ながら、きっぱり論点を整理して明示されている。
わずか2ページの文章なので、読むのが一番早いけれど、以下に記録を兼ねたノートと一部引用をしておく。
  

メディアが作る粗雑な性的少数者イメージの正体

  
まず、三橋さんは、「おすぎとはるな愛が同類だと思うか」という問いから始める。オネエ系ゲイのおすぎとMtFトランスジェンダーはるな愛を「同類だと思う」人は、三橋さんの学生のなかにもいるという。
なんの予備知識もなしにその姿を見たら、ほとんどの人が一方(おすぎ)は男性、一方(はるな愛)は女性と判断するであろう2人を、その差異に目をつぶって「同類」とする認識はどこから生まれるのか。
「それは、テレビメディアが、2人を同類扱いしているからにほかなりません」
と、三橋さんは言う。
  


 では、性の有り様に関するテレビメディアの基本認識とは、どんなものなのでしょうか。簡単に言えば、「女が好きな男らしい男」[引用者:異性愛者男性]以外は、すべて「おかま」であり同類、という考え方です。そこでは「男らしい男」が女を好きになると言う多数派の異性愛(ヘテロセクシュアル)規範が強固な基準として存在します
  
 ちなみに「おかま」という言葉は,本来、肛門を意味する江戸俗語で、転じてアナル・セックスをする(とされる)女装のセックスワーカー(男娼)の呼称となり、さらに1970年代後半から女性的な男性への蔑称として使われるようになった言葉です(井上章一&関西性欲研究会『性の用語集』講談社現代新書)。明らかに差別性を持った言葉であるにもかかわらず、テレビ業界では放送禁止用語ではありません。当事者が自称するならともかく、他称として使うこと、ましてメディアが「おかま」という差別性のある呼称を広めることは、大いに問題があると思います。最近では、業界隠語である「(おかま協同)組合の方たち」とか、「おネエMANS」と言い換えていますが、基本認識に代わりはありません。
  
三橋順子「テレビの中の性的マイノリティ」p. 22. 強調引用者
  
おすぎとはるな愛の差異が曖昧になるのは、一般市民には「『同性愛』と『トランスジェンダー』の違いが分からない」からではない。メディアがそう扱っているから、一般市民もそう思い込むのである。
その背景にあるのは、「異性愛者の男らしい男」から逸脱した人間を社会的に貶めてきた、男性至上主義の差別意識である。表面的には「好意的」に見えても、テレビが発信する基本の意識は前世紀から変わっていないわけだ。
テレビによる性的少数者のこの乱暴な混同を、三橋さんは民族に例える。

 少数派の中の際を無視して、多数派の基準から外れた者を一緒くたにして済ますような考え方が、いかに横暴かは、民族問題に置き換えてみるとよくわかります。たとえば、もし米国で「東アジアの人たちは,皆似ているように見えるから,日本人も、中国人も、韓国人もみな同類で一緒くたにしてかまわない」と言われたら、多くの日本人、中国人,韓国人は怒るでしょう。それは、民族のアイデンティティを踏みにじる考え方だからです。
 それと、まったく同じで、おすぎさんにはゲイとしての、はるなさんには、MtF (Male to Female)トランスジェンダーであるニューハーフとしてのアイデンティティがあるわけで、それらは尊重されるべきものだと思います。
  
pp. 22-23.
  
ヘテロセクシュアル」「レズビアン」「ゲイ」「バイセクシュアル」「トランスジェンダー」「シスジェンダー(非トランスジェンダー)」というカテゴリーも、べつに絶対的なものではない。「おすぎ」「はるな愛」という「個人」のパフォーマンスを楽しんでいるんだから、「属性」がどう違うかなんて、どうでもいいじゃないか、そう言う人もいるだろう。
だが、「シスジェンダー異性愛男性=女を愛する男らしい男」をスタンダードにして、その基準から外れる「それ以外」を、「おかま」という差別的に用いられつづけてきた言葉や、または耳障りのいい穏当な言葉に言い換えていようが、まるで変わっていない認識(「おかま」をやたら放送禁止用語にするよりも、はるかに始末が悪い)で乱雑にひとくくりにしている。そんな認識が、まずゲイやMtFトランスジェンダーを見る前提になっている。それが問題なのだ。
そういう認識を再生産しているテレビメディアは、どんなに性的少数者タレントを「好意的に」扱っていようが、その責任を問われるべきなのだと思う。
  

メディアが気にする「性同一性障害

さて、三橋さんは今度は、はるな愛椿姫彩菜に対するメディアの扱いの比較に移る。
同じMtFトランスジェンダーであるのに、はるなに対しては「男性であること」がネタにされ、つっこまれるのに、椿姫にはまず「突っ込み」がない。それがテレビ業界のお約束になっている。なぜなのか。
  
三橋さんは、この違いを、「性同一障害という「看板」を表に出しているかどうかが影響している」という。


 [戸籍の性別を変更している椿姫と、戸籍の性別は男性のままのはるなは]扱いが違うのも当然だろう、と思う方も多いかと思います。しかし、生まれ持った性別(男性)に対する違和感に,子ども時代から悩み・苦しみ、そこから抜け出すために女性になることに懸命の努力をしたという点で,二人に大きな差異はないのです。二人の違いは、はるなさんがアイデンティティを形成した時代(90年前後)には性同一障害という概念はまだ一般化されておらず,椿姫さんの時代には、性同一性障害という概念が広く流布していたということだけなのです。
  
 はるなさんの性別が、まるで偽女のように扱われ、椿姫さんの性別移行は同情的に扱われるというメディアの取扱いの差に,違和感を抱いてしまうのは私だけでしょうか。先ほど指摘したような、横暴ともいえる大雑把なカテゴリー認識を基本にもつテレビメディアが、「性同一性障害」という精神疾患が関わってくると、逆に妙に神経質になるのも、どこか滑稽です。
  
p. 23.
  
「おかま」という差別的な用語や同様の差別的な概念を垂れ流すことにはいたってアバウトなのに、それが性同一性障害という「疾患名」となると、いきなり神経質になる。このメディアの体質を、三橋さんは「滑稽」というが、僕もそう思う。
  

アンバランスな可視化による、性的少数者の「不可視化」の問題

  
そして、三橋さんは、このようなテレビメディアの性的少数者の「表しかたの問題」から、別の問題に移る。それは、テレビメディアが行っている性的少数者の露出のアンバランスさが、多くの現実の性的少数者の存在を見えなくしている問題だ。
  


 実は、テレビメディアでの性的マイノリティの取扱いには、今まで述べてきたような可視化されていること以外に大きな問題があります。それは、不可視化の問題です。たとえば、「女らしいゲイ」はしばしばテレビに登場するのに、「男らしいゲイ」はほとんど可視化されません。実は、多数派の異性愛男性の次に多いのは、男性として男性が好きな「男らしいゲイ」なのにもかかわらずです。テレビメディアが作り出した「ゲイは(すべて)女っぽい」という謝った認識は、「男らしいゲイ」の不可視化と表裏一体なのです。
 また、トランスジェンダーでは、MtFのメディア露出に比べて、FtM(Female to Male)は極端に少ないという現象が見られます。
  
p. 23.
  
この「テレビメディアによる性的少数者の不可視化」の深刻な例として、三橋さんは、レズビアンの徹底した不在を上げる。

 さらに深刻だと思うのは、レズビアンの徹底した不可視化です。ゲイ・タレントがこれだけ増えたにもかかわらず、レズビアン・タレントは皆無です。今や,男性芸能人がゲイであることを疑われることは、必ずしも致命的ではありませんが、レズビアン疑惑は女性タレントとして命取りになりかねません。そこには、すべての女性は男性の性愛対象であるべき、という規範があるように思います。
  
p. 23.
  
ここは、部分的にどうかな?と思わないでもなかった。男性芸能人がゲイと思われることがそんなに致命的ではないかどうか。それが許されるのは、まだお笑いタレントや、「男らしさ」を外れた三枚目にかぎるだろう。女性の性的関心の対象になるタイプの「二枚目」系タレントで、ゲイであることが分かっているタレントはたくさんいるのだけれど、それについてはひたすら沈黙が守られている。
しかし、レズビアンがタレントとして可視化する余地が絶無であるのは、間違いない。最近、グラビア・アイドルの一ノ瀬文香レズビアンであることをカミングアウトし、男性向けメディアの露骨な性的関心に晒されもするなかで、しっかりプライドのある発言を行っているようだ。こうした人の存在がどんな突破口を開くのか期待されるが、テレビメディアが追従し再生産する社会の集合意識のなかに、男性の性愛対象であることを拒むレズビアンの居場所が存在を認められていないのは確かだろう。
  

 テレビメディアが視聴者に迎合する大衆メディアである限り,多様な性の有り様の実態を、そのまま反映した番組作りは,無理なのかもしれません。しかし、セクシュアルマイノリティに対する誤った認識が増幅されないために、せめてもう少し、認識の歪みを正してほしいと、MtFトランスジェンダーの一人として切に願っています。
  
p. 23.
  
分かり易く、おだやかで、しかし抉るべき問題はガッツリと抉った、すばらしい文章でした。
惜しむらくは、週刊誌という、新聞よりマイナーで、消えるのが早いメディアに掲載されたこと。
皆さん、急いで書店に走って読んでください。