三橋順子『女装と日本人』(講談社現代新書、2008年)

  
三橋順子氏の近刊、『女装と日本人』を読んだ。
  


女装と日本人 (講談社現代新書)

女装と日本人 (講談社現代新書)

    
日本のトランスジェンダー、同性愛者、両性愛者、インターセックス半陰陽)など性的少数者についての主な(というか、僕のように勉強熱心でない人間が手に取るほど有名な、というていどの意味だが)本は、たいてい現在を論じている。過去の歴史についての関心は、どちらかというと薄い。たとえば「日本の同性愛の歴史」に興味を持つ人(同性愛者・異性愛者問わず)は、中世の稚児や近世の衆道といった事例をあれこれよく知っていて(こういうことについては文献も少なくない、しかし、「男性」同性愛文化ばかりだが)、「日本は歴史的に同性愛が盛んだった」といったことを言うかもしれない。だがほんの20年前、1980年代にレズビアン、ゲイがどう生きていたか、ほんとうに知っている人がいるだろうか。
  
最新の理論やムーヴメントを取り入れつつ、ジェンダーセクシュアリティの問題を論じる優れた論者は多いが、日本の性的少数者が辿ってきた歴史を史料を渉猟し聞き取りなどのフィールドワークを重ねて再構成する、労の多いコアな歴史研究は多くない。それに、「トランスジェンダー」「同性愛者」「両性愛者」という分類が、相当に問題のある精神医学の概念から発生したのは近代以降、当事者が尊厳をもって自らを語るアイデンティティとなったのはごく最近のことだ。時代ごとの当事者コミュニティとネットワークは基本的にアンダーグラウンドだったから、情報は残らず世代間断絶は大きい。『ゲイの考古学』の著者伏見憲明さんの言葉を引用すれば、「はたして「私たち」はいったいどこからやってきたのだろうか」を、僕らはほとんど分かっていないのだ。
  
三橋順子さんは、生まれもった男性の身体的性別(セックス)とは逆の、女性の社会的性別(ジェンダー)をまとって生きるMtFトランスジェンダーについて、そういう貴重な歴史研究を続けてきた人だ。

  
戦後日本女装・同性愛研究 (中央大学社会科学研究所研究叢書)

戦後日本女装・同性愛研究 (中央大学社会科学研究所研究叢書)

  
たとえば、三橋さんが共同研究者として参加しているこの↑本は、戦後の有名な女装家の聞き取り調査と膨大な文字史料データに基づき、戦後日本のトランスジェンダー文化史、および同性愛表象史を再構成したものだ。「異性装/性転換」や「同性愛」が戦後日本でどのように表象されたかをインタビューとメディア言説から分析し、トランスジェンダーおよび同性愛者がその表象をどのように内面化し、また抗いながらアイデンティティを構築していったのか、現代の性的少数者の表象と主体が立ち上がってゆく過程を明らかにしている。
  
哲学・理論先行傾向にある性的少数者研究に対して、データと実証を重視し、性的少数者の「アイデンティティ」を実体的なものと捉えず、社会関係の中で「アイデンティティがいかに形成されるか」を中心に据えた研究方法は、まさに必要とされていたものだろう。MtFトランスジェンダー史が中心であり、FtMおよび同性愛(ゲイ、レズビアン)表象の研究は補足的なのだが、歴史的に混同され、また実際時代によっては未分化でもあった男性同性愛・MtFトランスジェンダー(女装)の男性(生まれたときの身体的性別としての)性的少数者の戦後史を、トランスジェンダーの側から差異を的確に説明しつつ再構成してくれているから、日本近代男性同性愛史の本としても読める。僕(ゲイ)のような読者には、まさに「「私たち」はどこから来たのか」を辿る興奮があって、むちゃくちゃ面白い(第II部第5章の1960-80年代のレズビアン表象研究も、とても興味深い)。
  
『女装と日本人』は、こうした三橋さんの研究蓄積を、前近代から現代にいたる日本女装文化通史として分かり易くまとめ、女装という視点から日本社会の性別意識の特徴について三橋流ジェンダー論を展開したもの、といえるだろう。と、えらそうなことを言ってしまったが、僕には全部初めて知ることばかりで、教科書のように勉強しながら面白く読んだ。
  
トランスジェンダーは、ゲイにとっては「よく知らない隣人」だ。異性愛中心主義と性別二元制の社会のなかでのマイノリティとしての共通性はあるが、マイノリティ性は全然異なり、実は相互に対してはマジョリティであったりする。少なくともシスジェンダー(性別越境していない)のゲイは、トランスジェンダーに対する社会的抑圧をほとんど理解できない、しばしば積極的に抑圧に加担することさえある。
トランスジェンダーについて考えるとは,僕にとって,自分のシスジェンダー性について考え、自分がその人たちにとってどんな隣人であるかを考えることだと思う。そんなことを考えながら、感想を書いてみようと思う。
  

「双性原理」から抑圧へ

  
とはいえこの本は、MtFトランスジェンダーのマイノリティ史、というわけではない。この本のテーマは、「女装と日本人との関わり」「女装の日本史、性別越境の日本文化論」[pp. 5-6.]だ。
  
著者の関心は、日本社会の性別越境に対する関心の強さや嫌悪感のなさに注目するところから始まる。「(1)日本人は、性別越境の芸能に強い嗜好がある/(2)異性装者に対して,少なくとも個人レベルでは、比較的寛容/(3)そうした文化や意識は世界の中でかなり特異/(4)そのことにほとんどの日本人が気づいていない」[p.22.序章「日本人は女装好き?」]。この「日本人は女装好き」という心性にはどんな歴史的背景があるのか、第一部「歴史編」(1-4章)で古代〜近代の日本女装文化史を概観する。
  
第二部「現代編」(5-6章)では、著者三橋さんのライフヒストリーを辿りつつ、東京新宿の女装コミュニティをおもな事例に、女装者と女装者を愛好する男性からなる現代日本の女装文化を紹介する(第5章)。そして、女装者から見た場合、性別表現(「女をする」ということ)とはそもそも何なのか?というジェンダー論を展開する(第6章)。
  
終章は、世界に広がる女装・異性装文化へ視野を広げ、そうした地域文化に根ざす多様な女装文化が西洋的なジェンダー認識の世界化の中で変容させられたことを指摘する。そして、性的少数者に不寛容でトランスジェンダー文化が育たなかった西洋社会とトランスジェンダー文化が盛んな日本社会の相違を、宗教文化の違いに求める。そして、性別越境に関心を持ち双性性に魅力を見いだす日本人のメンタリティに、多様な性が共存する社会を作る可能性を見いだすーのが、結論と言ってよいと思う。
  
一、二部の内容を,もう少し詳しく見てみよう。
  
第一部「歴史編」で著者は、まず古代の女装英雄ヤマトタケルや女装の巫人、中世の女装巫人持者(ぢしゃ)などを取り上げ、日本に「性別越境者(トランスジェンダー)や半陰陽者(インターセックス)にある種の「神聖」を見る」[p. 43.]心性「双性原理」があったことを指摘する。中世の寺院で僧侶の性愛の対象として神聖視されていた女装の稚児、女性器のある稚児としての男装の白拍子は、異性装でトランスジェンダリングした者に特別な双性の魅力を感じる文化の発達を示していた(第1章「古代〜中世社会の女装」)。
  
この文化は、近世、男女ともに歌舞伎の女形をもてはやし、その下位にいる女装の陰間を買う(陰間は女性も買った)、「男色」「女色」に大きな区別を見ず性別越境者の性的魅力を楽しむ大衆レベルの性愛文化を成熟させる(第2章「近世社会の女装」)。そのような文化のなかで、日常的に女装して暮らす市井の女装者も、存在を許容されていたのである[pp. 117-23.第2章「とりかえ児育と市中の女装者]。
  
ここで大切な点は、これまでの漠とした一般認識では「日本の(男性)同性愛文化」の例証とされてきた寺院の稚児愛が、実は異性愛を擬態した「疑似ヘテロセクシュアル」であって男ー男の同性愛ではなかった、という指摘だ[pp. 52-69. 第1章「女装の稚児」]。神聖な憧れの対象だった中世の稚児や近世の歌舞伎文化周辺の女装の陰間の存在を、三橋さんは男性同性愛文化ではなく、MtFトランスジェンダー文化の中で捉えてゆく(だから同じ「男色文化」でも、男ー男の性愛に欲望する武士文化の衆道や薩摩文化の美少年愛好は、同列にならない)。異性装者への欲望が「男性同性愛文化」では理解し切れない広がりを持っていたことは、女性も陰間を買っていたことから分かる[p.109-10.]。「男色=同性愛文化」という固定観念に囚われていては(ゲイの僕などは、すぐそうなりがちなのだけれど)目に入らない、「異性愛/同性愛」の二項対立的概念がその存在を抹消してきたといえるトランスジェンダー文化の重要性はたぶん一般には認識されておらず、大切な指摘だろう。
  
しかし、このような女装文化に対する社会の扱いは、明治以降、ジェンダーセクシュアリティの制度が近代化されてゆくなかで変容してゆく。戸籍による「性別」の画定、異性装や鶏姦(アナル・セックス)の非合法化、精神医学の「変態性欲」言説の流布による異性装/同性愛の「病理」化。歌舞伎の女装文化も女形の芸の芸術性に限定されたものになり、女装文化はアングラ化を強いられる(第3章「近代社会と女装」)。
  
抑圧のなかで、女装者たちがどこに居場所を見いだし、どのように女装を続け、新しいファンクション(女装クラブや医学的トランスジェンダリング)も導入しつつ、現代まで続く女装文化を生きてきたかを、3章と4章(「戦後社会と女装」)は丁寧に追ってゆく。
これまで遠くから描かれてきた「女装者」たちは、よりリアルに顔が見えるようになってゆき、「女装文化」を必要とした、「女装文化」という器の中に居場所を見いだした、現代で言うところのトランスジェンダーたちの姿が立ち現れてくる。そしてそれは、第5章の著者自身のライフヒストリーとつながってゆく。
  
ここで、第一部第4章の後半あたりから第二部にかけて、叙述に一種の「視点の変化」が起きてくることに注意したい。つまり、第一部とくに1-3章で語られていたのは「稚児」「女形」「陰間」「女装芸者」という女装文化の<様式>であり、史料の性質から、女装をしない人間の視点からの女装文化が語られていた。今でいうと「○○(MtFタレント)って女より女らしい!」「両性具有ってカッコいいよね」「知りあいにトランスジェンダーがいるけどいい人だよ」とか言っているシスジェンダーの視点である。
しかし、4章の途中から、女装文化の実践者、トランスジェンダーの視点になる。シスジェンダーが評価しようがしまいが関わりなく、女装を必要とし、生きた人たちだ。もちろん両者に関連がないわけではないが、齟齬はあるだろう。その齟齬は、さまざまな偏見を被る少数者の場合非常に大きく、その人たちの社会的地位に影響を及ぼすものとなることに、注意したい。
    
5章「現代日本の女装社会」は、著者のライフヒストリーを辿りながら、女装コミュニティ(東京・新宿)のジェンダーセクシュアリティ文化が紹介される。もちろん、三橋さんのライフヒストリーMtFトランスジェンダーの一例でしかないだろうけれど、女性として装うことを必要とする人びとのためのコミュニティが、どのような機能を持って日本のMtFトランスジェンダー文化を支えてきたのか、その一面を見ることが出来る。男性同性愛者としては、MtFトランスジェンダー・カルチャー/風俗とゲイカルチャー/風俗の違いをMtFの側からとても明快に説明しているのが、興味深くもありがたかった。両者を思いっきり混同している人は、必読である(僕には勉強になった。なにしろMtFや女装コミュニティのことを何も知らないから、完璧に混同してかかる人から違いを説明しろと言われても、ただ「違う、ぜんぜん別物」としか言えなかったのだ)。
  
第6章「日本社会の性別認識」は、「女性」として生活する三橋さんの性別が、周囲にどう認識されてきたかを、ケーススタディ的に語る。結論を大ざっぱにまとめれば、頭で考え口で言うほど人間の感覚は「生得的身体性別しか認められない」という性別二元論に縛られていない、ジェンダーはその場その場で様々な要因とともに決定するものだ、というところだろうか。トランスジェンダーについてあくまで観念的に、「体が男(女)の人間を女(男)と思えと言われても無理に決まっている」という意味の主張をする人(三橋さん流にいえば「染色体とセックスしているような頭の固い人」)がときどきいるが、ジェンダーをあまりに観念的に、固定的なものとして考えすぎている。ジェンダーは「する」ものなのだ。
  
しかし、これは僕の考えだが、自分の身体に読み込まれるさまざまな「性別」に、ジェンダー認識がいかに多様で機会的なものかを読み出す三橋さんの分析は「おもしろい」のだが、シスジェンダー(非トランスジェンダー)が性自認の性別を当然のごとく認知されていることを空気のように意識せずにすむ特権を有しているのに対し、トランスジェンダーはシスジェンダーがどう見るかという「性他認」をたえず意識しつつサヴァイヴしなければならない、という現在のありようには、やはり僕は疑問を感じる。「男」「女」という社会的性別を否定するところまで行かずとも、「男、女にはそれぞれ多数のシスジェンダーと少数のトランスジェンダーがいるもの/どちらでもない無性の人もいるもの」という事実が、きちんと認識されるべきだと思う。
  

けれど「女装好きの社会」は、その人びとに暮らし易いのだろうか

  
さて、ダラダラと内容を語ってきたけれど、この本の全体の結論は、「日本には西洋キリスト教社会に比べ、性別越境に寛容な心性・文化があった」ということだろうと思う。興味深い話ずくめの歴史の旅が終わったあと、恐らく読者は、そういうメッセージを受け取ると思う。
  
もちろん、その結論には首肯できる。だが、疑問も感じた。ちょっとその疑問を、うまく言えるか分からないが、自分なりにまとめてみたい。といっても疑問というのは簡単で、ほんとうに日本は「性別越境に寛容な」社会なんだろうか?ということだ。
  
そう思う理由は、ひとつには、この本はあくまでMtFトランスジェンダーの文化史であり、FtMトランスジェンダーについては、触れられていないからだ。
いや、「日本女装史」の本なんだから当たり前だし、この本には中世芸能の白拍子、近世の男装の芸者(辰巳芸者)、市井にもいた男装者など、FtMの人びとも、けっこう取り上げられている。しかし、FtM文化や女が男装者を愛する「女色文化」の存在も同程度に印象づけられないと、「性別越境の文化があった」とは言えないのではないかという疑問がわく。
これは、MtFや女性的ゲイのタレントがメディアに露出し、それがしばしば「性的少数者への寛容」「多様性の受容」の指標のように語られる一方、FtMレズビアンバイセクシュアル女性の存在が不可視化されるという不均衡への疑問にも通じる。
  
この本が示すさまざまな事例から、むしろ強烈に印象づけられ、気になってしまうのは、「男性が女性へ性別越境することに、なぜ人はここまで関心を掻き立てられてきたのか」ということだ。推測だけれど、これはやはり男性優位社会の現象ではないか。
たとえば論文「「性転換」の社会史(1)」のなかで、三橋さんはこう言っている。
  


 男性が圧倒的な社会的優位性をもっていた当時の社会において、女性から男性への転換と男性から女性への転換は等価ではない。男女の社会的格差の投影として、女性から男性への転換は社会的地位の上昇であるのに対し、男性から女性への転換は社会的下降という側面をもつ。両者はけっして対称ではないのである。ジョルゲンセン[引用者注:1950年代はじめに日本のメディアで盛んに話題にされたアメリカの「性転換女性」]の「性転換」は、「わざわざ」劣位である女性に転換するという点で、社会に与えた驚きは現在よりもはるかに大きなものがあったろう。
 一方、容姿に大きな価値が与えられる女性への転換は、見られる対象になるということであり、・・・男性読者の興味の対象として、男性から女性への「性転換」は、女性から男性への転換よりもはるかに大きな報道価値をもっていたのである。
  
三橋順子「「性転換」の社会史(1)」『戦後日本女性・同性愛研究』pp. 403-4.
  
つまり、日本社会のトランスジェンダーへの関心とは、むしろ強固な男性中心的ジェンダー制度を絶えず参照したうえで、刺激されているものに過ぎないのではないか。たしかに否定的言説が席巻するということは少ないだろうが、あくまでジェンダー制度を参照したうえでのその「特殊性」をこそ消費し、「興味の対象」になりえないものは存在自体を黙殺する。そういう身勝手な「寛容」ではないか。
  
こうした性別越境への認識は、ほんとうに日本社会は性別越境する人びとを認めているのか、具体的に言えば「対等な居場所」を認めているかという疑問につながるだろう。
  
終章で著者は、世界に遍在する「女装文化」でトランスジェンダーが果たしていた職能は、「宗教的職能」「芸能的職能」「飲食接客的職能」「性的サービス的職能(セックスワーク)」「男女の仲介者的職能」であるとする[pp.328-32.]。性別越境者がその双性的特性を持って果たしていた役割であるが、言い換えれば、トランスジェンダートランスジェンダーとして生きることができる場所が、他に存在しなかった、ということにならないだろうか。実をいうと、僕は本書を読んで、「日本人がオネエやニューハーフタレントのような男→女系芸能人はさかんに消費するのに、身近なトランスジェンダーレズビアンに対する想像力がからっきし働かないのは、もしかしたらこういう女装芸能者好きの伝統が強固すぎるからじゃなかろうか」と思ってしまったのである。
  
実はこれが、前段で述べた、「齟齬」の問題に絡んでくる。「女装(トランスジェンダー)文化」が非女装者(シスジェンダー)に愛好され消費される伝統があったからといって、それはトランスジェンダーが望むような、生きやすいかたちで、とは言えないのではないか。
トランスジェンダーの「魅力」を「非日常的」と見なす心性は、多くのトランスジェンダー「日常」を不可視化し、「日常」における彼らの居場所を奪うのではないか。現代のトランスジェンダー芸能は素晴らしいショー文化を作り上げたが、いっぽうで会社人のアマチュア女装家の人たちは、厳しい二重生活を耐え抜いてこられた。そして、愚痴めいたことを追加することを許してもらうと、イヤというほど繰り返される「レズビアン=宝塚の男役」「ゲイ=おすぎやピーコのようなオネエタレント」というステレオタイプ・イメージに、頭を抱えさせられている同性者は多い。今日も持続する「芸能を通したトランスジェンダーへの関心」は、しばしば性的少数者には苦痛の原因でもあるのだ。
  
性的少数者が「特殊」であるのは分かる。性別二元制度(生まれたときの性器の外見で性別を男女の2種類にビシッと分け、法的性別として戸籍に記録する、そして社会生活の大部分で、その法的性別の影響を受ける)・異性愛中心制度(男女の異性愛を正式なセクシュアリティとして、結婚や体外受精・養子縁組を含む育児など人間のライフサイクルに関わる諸制度をはじめ、文化やメディア言説、教育などが、異性愛関係のみを前提に組み立てられている)に問題なく適応でき、疑問を感じない多数の人びとにとっては「特殊」に見えて当然かもしれない。しかし、トランスジェンダーや同性愛者がつねに数パーセントの確率で発生するのはあたりまえのことであり、ジェンダーセクシュアリティをめぐる制度や社会的コンセンサスに、男女/異性愛のみではない多様なオプションがあってくれなければ困るのだ。
  
現代のトランスジェンダーの人びとは、芸能・接客・セックスワークの分野にしか自分たちの居場所がないという社会は求めないだろうし、僕もそうなって欲しくはない。しかし、今はなおそういう社会に近い。先日のNHKETV特集「ともに生きるーLGBT」でも、就職に対する若いトランスジェンダーの不安が紹介されていた。
(2010年1月11日追記)
三橋さんも、本書より4年前に出した共著『性の用語集』で、トランスジェンダーに対する就業差別が取り払われるべきことに触れている。

近未来的に、性別越境者の職種を「三業種」[引用者注:接客業・ショービジネス・性風俗]に限定するような社会的枠組み(就労差別)は、なくしていかなければならないと思う。すでにMTFトランスジェンダーの女優、アナウンサー、デザイナー、ファッションモデル、美容師、作家、医師、弁護士、会社社長、大学講師などが現実になっている。性別越境者としての特性を生かし、個人の才能を磨いて、様々な業種にどんどん新出していってほしい。その方が世の中が多様になって、楽しいと思うのは、私だけだろうか。
  
井上章一&関西性欲研究会『性の用語集』, p.195.
性の用語集 (講談社現代新書)

性の用語集 (講談社現代新書)

  
トランスジェンダー芸能者に対する伝統的な好意や関心が、こうした変化や不安の解消の助けになるだろうか?間接的にはなるかもしれない。だがそのためには、もっと別の働きかけが必要だろう。
  
こんなことを考えると、僕は、この本がどう受け取られるかに、少し不安を感じるのだ。
これは本の問題というより読者の問題、内容そのものより、その受け取られ方の問題なのだが、そのメッセージが、「日本人は女装を好み、多様な性を認める文化を持っていた」という<満足感>で止まってしまう危険が、あるのではないか。はっきり言ってしまうと、この本が示す「日本にはトランスジェンダーに寛容な心性がある」という視点が、「このうえトランスジェンダーのためになにもしなくてよい」という<言い抜け>に利用されないかと、心配なのである。
  
杞憂だったら良いけれど、似たような発想で、「宗教的に同性愛を禁じる欧米に比べ、稚児や衆道などの文化があった日本は同性愛に寛容」なのだから文句言うな、というディスコースは、同性愛者としてイヤと言うほど聞かされている。欧米と日本の比較には僕も賛成するのだが、日本社会はすでに欧米的ディスコースをドップリと染み込ませていることは明白だし、また「日本的な同性愛嫌悪」もあるのではないか、と感じている。『女装と日本人』がもしそのような読まれかたをしたら、著者が訴えたいところと真逆の方向に行ってしまうのではないかという気がする。
  

「どこから来たのか」を知ったあと、私たちは「どこへ行くのか」

  
でも、この↑ような分かり易い批判は、この本に対して的外れだろう、とも僕は思う。
というか、著者の三橋さんにとっては、想定の範囲内ではないだろうか。
  
三橋さんが、トランスジェンダーが「性同一性障害」の名に一元化され、医学的正当性のなかに囲い込まれることに反対する立場をとっていることは、この本でも表明されている。だがそこで言われたいのは、たとえば単純な「日本の伝統的女装文化を再評価して」といった復古主義(?)ではないだろう。
  
「「女装者」概念の成立」(『戦後日本女装・同性愛研究』)の最後で、三橋さんは色川奈緒さんの「女だって女装する」(『ユリイカ』28:13)を引用し、そこに「新しい「女装」の可能性」を見いだしている。「女が女装する」とは、「成りたい自分に成る方法、在りたい自分を自己演出するテクニック」のこと。それは実はトランスジェンダーの女装と同じ、共通理解がなりたつものなのである[p. 242.]。
  
そう、考えてみれば、身体的性別と性自認が一致しているシスジェンダーの僕も男装、それもそうとう複雑な男装をしている。ふだんの仕事の男装、ちょっと硬い人に会うときの男装、信用を得たいときの男装、男に見せたい男装、カジュアルの「僕が好きな」男装。女性の女装が大変だというのはよく言われるが、男の男装も適切な社会性を発揮しようとすると、けっこう複雑なストラテジーを使い分けている。
  
「パス」という難しい課題を抱えるトランスジェンダーと問題のレベルが違うだろうという感じもあるが、シスジェンダーであれトランスジェンダーであれ、ジェンダーはパフォーマティヴに「する」ものであり、外性器や染色体は大した問題ではないという(第6章で三橋さんが指摘している)事実に気づけば、「トランスジェンダージェンダー表現のみが異端視される」という偏見を克服する方向へ進むきっかけをつかめるはず、だと思う。「個人の自由な自己表現・演出としての性別越境(トランスジェンダー)の在り方を再構築することが、2000年代を生きる私たちの課題であるように思う」[三橋「「女装者」概念の成立」p. 243.]という三橋さんのスタンスは、むしろ性別二元論を絶えず越えようとするクィア的実践に近い。
  
そしてこれは、トランスジェンダーの問題というより、はじめから僕を含むマジョリティのシスジェンダーの問題のはずだ。「男」「女」というジェンダーを性器に即して画定するというシスジェンダーの約束事がなければ、「トランスジェンダー」は異化され得ないのだから。
  
だから、この本から僕らが心に留めて忘れてはならないことは、「歴史の事実」ではないか。
江戸には市井で妻子とともに暮らすMtFトランスジェンダーがいたこと。女として育てられ男と結婚したMtFがいたこと。
その結婚が、明治期に入り「戸籍」の制定によって無効とされたこと。
性別二元論/異性愛中心主義に基づいて「正常」と「異常」を振り分ける精神医学が、トランスジェンダーや同性愛に「変態性欲」の烙印を捺したこと。
それは現代でも性的少数者を否定したい人が繰り返す言説であること。
  


 近代における同性愛者・異性装者に対する社会的抑圧・差別の理論的根拠を提供し、「変態」の烙印を捺すことで、大勢の先輩たちを長い間苦しめ続けた精神医学・性科学の所業と加害者性を、現代の同性愛者・異性装者は、けっして忘れるべきではないと思います。
  
第3章「近代社会と女装」p. 159.
  
日本では昔からトランスジェンダーは身近な存在だったんだ、そう思ったら、いま自分のいる場所が「トランスジェンダーが身近な場所」かを考えてみたい。学校の教室、オフィス、公共施設は、トランスジェンダーがいることができる場所か、考えてみたい。そこを男も女もシスジェンダートランスジェンダーもいることができる場にするためには、自分に何が出来るのか、考えてみたい。「「私たち」がどこから来たのか」(ここでの「私たち」は、シスジェンダートランスジェンダーを含む、日本社会の住人すべて)を知ったあとに続くのは、「「私たち」はどこへ行くのか」という問いのはずだ。
  

 世の中にはいろいろな人がいる、いていいのだ、という当たり前のことに改めて気づいたことです。いろいろな人種・民族・国籍、いろいろな出自、いろいろな宗教、いろいろな職業、いろいろな「性」の人がいて、世の中は成り立っている、多様性をもつ社会の大切さ、多様性がもたらす豊かさということです。しかし、残念ながら、この当たり前のことを認めようとしない人たちがまだまだ世の中にはいるのが現実です。
 私は、21世紀の日本の社会が性別越境に寛容だった文化伝統を継承して、多様な「性」をもつ人たちが社会的に差別されずに暮らせる社会の実現を目指すことを心から願っています。
  
「おわりに」p. 367.
  
そのために、「僕」は、なにをするだろうか?