ヘテロノーマティヴィティ:en.Wikipedia(revision of 10 September 2008)


僕はこのブログでときどき「ヘテロノーマティヴィティ(異性愛規範性)」「ヘテロノーマティヴ(異性愛規範的)」という言葉を使う。
クィア・セオリーのキー概念のひとつだ。
なぜこの社会では同性愛に対する偏見や差別が再生産され続けるんだろう?という謎は、ゲイの僕にとっては生活にダイレクトに関わる「日々の問題」なのだけれど、この目の前の現実を理解するために、「ヘテロノーマティヴ」という考えかたは、かなり分かりやすい手がかりになっていると思う。


しかし、これは考えかた、分析概念だから、いつ、誰が提唱して、どのように使われて、どんな問題点があるのか、分かって使わないといけないし、受け取る側にも、分かってもらえないといけない。
でも、ウェブ上で「ヘテロノーマティヴ」または「異性愛規範」というタームが使われることは、まだあまり多くない("ヘテロノーマティヴ""ヘテロノーマティヴィティ""異性愛規範" -Google検索)。「ヘテロノーマティヴィティ」で検索すると、ヒットするのが俺ブログだったりしてたいそうヤバい(エントリタイトルに入っているからか、なんて危険なんだ)。


クィア理論の「異性愛規範」という考えかたについては、デルタGさんのクィア・スタディーズ入門というすばらしい教科書で学ぶことができる。しかし、現代思想ジェンダー学やクィア理論を勉強したこともないパンピーの僕(でも目前の現実を理解する概念は必要)としては、ヘテロノーマティヴィティというタームの使いかた使われかたについて、もっと初歩的に概説したテキストがないかなあと思っていた。
(「ヘテロノーマティヴ」のはてなキーワードを作ってみようかなとも思ったけど、自信がないので止めた。はてなキーワードGoogleヒット率高いしウェブ上ではウェブ辞書的に使われることもままあるので、ちゃんと専門の人に作って欲しい)


で、とりあえず読むのがウィキペディアというのが、かなりダメっぷりを示しているのだが。


en.Wikipedia"Heteronormativity"の項目は、2002年12月29日(当時のバージョン)から、2008年9月10日(9月26日現在)までちまちまと修正が続いている。今でも要注釈タグ、要議論タグ、要コピーエディティング(文法文体チェック)タグまでついていて、かなり不完全。
読んでみると、よく書けている部分もあるのだが、ソースなさすぎだったり、事例が適切なのかなあと首をひねるような解説だったりする部分も多い。とくに第6節あたりは要注釈タグがバシバシついていて、ちょっとダメ感が漂う。
しかし、ウィキペディアのようなメジャーなウェブ辞典でこうした用語がどのように書かれているか、というのも、言葉の使われかた、解釈のされかたを知るうえで、興味深い指標かもしれない。
じゃあ黙って読んでろ、という感じだが、頭悪い→日本語に訳してみないと理解できない→めんどくさい→ちゃんと読み終わらない→じゃあブログに載せよう→やる気になるがいつものパターンなので、またヘタ日本語だけど載せておく。おかしい、と思った点などあったら、指摘してください。
(それにしても相変わらずトンデモ機械翻訳なみにヘンな日本語。意味不明なところはまた直します。あときっと誤訳はたくさんあるよ!)

Heteronormativity – revision of 10 September 2008 - Wikipedia, the free encyclopedia



Homonormativityの項目がこの記事と合併されるべきとの示唆があります。(discussion

この記事は多数の論争点があります。記事の改良を助けるか、discussionにて論点を議論してください。

    • 立証のためにさらなる参考文献・資料を必要としています(タグ−2008年7月)
    • 文法・文体・一貫性・トーン・スペルの修整を必要としています(タグ−2007年6月)


ヘテロノーマティヴィティとは、非へテロ的ライフスタイルの周縁化と、異性愛heterosexualityを正常な性的指向sexual orientationと見なす思考を説明する用語である。例えば、人間は男女という2つの明確に区別された相補的なカテゴリーに分けられる、性的な関係や婚姻関係は異性間のみで行われるのが正常である、それぞれの性別sexは生活の上で特定の役割を持つという考えなどが{、ヘテロノーマティヴィティに}含まれる。すなわち、すべての人間の中で、身体的な性別、性自認gender identity、性役割gender rolesは、あらゆる男性または女性の文化的規範cultural normsと一直線に並行しているべき{と見なすのが、ヘテロノーマティヴィティ}なのである。


この用語が表す規範normsとは、公然のもの、ひそかに隠されたもの、暗黙のものいずれでもありうる。ヘテロノーマティヴィティを見分け、批判する人は、ヘテロノーマティヴィティは、ある種のセクシュアリティジェンダースティグマを捺すことによって言説を捻じ曲げ、一定の種類の自己表現をより困難にしてしまうとする。ヘテロノーマティヴィティは、人が社会で出会う人間はみな異性愛者と想定されるという考えを示唆している。それが人々が互いを眼差す「正常」な方法だからだ。ヘテロノーマティヴと見なされない人間は、同性愛者、バイセクシュアル、インターセックストランスジェンダーの人々、そしてポリアモリストのような、複数のパートナーと結婚している人々である。


論文"Charting a Path Through the 'Desert of Nothing'"において、著者Karen LovaasとMercilee M. Jenkinsは、ヘテロノーマティヴィティが支配的な世界を、「例えばヘテロノーマティヴィティは、2つの性別が存在し、ゆえに2つのジェンダーが存在すると当然の如くに決めてかかる」と描いている(注1)。

ヘテロノーマティヴィティは、どっちつかずの中間的なジェンダーはどんなものでも存在の余地はなく、それぞれのジェンダーは固定的にその輪郭がはっきりと定められているのだということを示唆する。「ヘテロノーマティヴィティは、ゆえに、ジェンダーに関するアイデンティティと機会をめぐるあらゆる議論は、厳格にこの二分法に基づいて組み立てられることを求め、ジェンダー化された行為者は、その人自身が行うアイデンティフィケーションとは関わりなく、「女性」か「男性」のどちらかのラベルを貼られねばならないと強制する(Lovaas and Jenkins 98)」 (注2)。

(注1)(注2)Lovaas, Karen, and Mercilee M. Jenkins, "Charting a Path through the 'Desert of Nothing'", Sexualities and Communication in Everyday Life: A Reader, Sage Publications Inc., 2006(isbn:9781412914437).


目次
1.語の起源
2.ヘテロノーマティヴィティの有益な側面
3.ヘテロノーマティヴィティと家父長制
4.現代のヘテロノーマティヴな核家族
5.現代のヘテロノーマティヴィティ
6.ヘテロノーマティヴィティの社会・政治的徴候
6−1.インターセックス
6−2.ゲイ・レズビアンバイセクシュアル
6−3.トランスジェンダー
7.ヘテロノーマティヴィティの概念に関する議論
8.参考文献
8−1.文献目録
9.関連項目
10.関連文献

1.語の起源


この用語は、1991年、Michael Warnerにより、クィア理論の最初の主要な著作の1つにおいて作り出された(注3)。ゲイル・ルービンGayle Rubinの「性別/ジェンダーシステムsex/gender system」の概念と、アドリエンヌ・リッチAdrienne Richの強制的異性愛compulsory heterosexualityの概念に、その起源を持つ(注4)。Samuel A. Chambersは、一連の論文の中でヘテロノーマティヴィティをより明瞭に理論化しようと試み、異性愛が社会の中で規範的normativeと見なされるとき、どんな期待、要求、制限が生み出されるかを暴く概念として、ヘテロノーマティヴィティを捉えることを提唱した(注5)(注6)。
(注3)Warner, Michael, "Introduction: Fear of a Queer Planet", Social Text 29 (1991), pp. 3-17.

(注4)Adrienne Rich, "Compulsory Heterosexuality and Lesbian Existence", Signs: Journal of Women in Culture and Society 5(1980), pp. 631-60.

(注5)Samuel A. Chambers, "Telepistemology of the Closet; Or, the Queer Politics of Six Feet Under", Journal
of American Culture
26.1(2003), pp. 24-41.

(注6)Samuel A. Chambers, "Revisiting the Closet: Reading Sexuality in Six Feet Under", in McCabe and Akass (eds.), Reading Six Feet Under, IB Taurus, 2005(isbn:1850438099).


Cathy J. Cohenは、ヘテロノーマティヴィティを、「異性愛異性愛関係を、社会の中で根本的かつ『自然な』ものとして正当化し特権化する」諸慣習・諸制度と定義づける(注7)。彼女の研究は、人種、ジェンダー、階級的抑圧と交差し、それらと不可分なかたちでより広い権力構造に取り込まれているセクシュアリティの重要性を強調する。Cohenは、福祉を受けているシングルマザー(特に有色人種の女性の)や、セックスワーカーの例を挙げ、彼女らは異性愛者heterosexualであるかもしれないが、しかし異性愛規範的heteronormativeではなく、ゆえに「正常で、道徳的で、国家の支援に価する」もの、正当化しうるものとして認められていない、とする(注8)。
(注7)Cathy J. Cohen, "Punks, bulldaggers, and welfare queen: The radical potential of queer politics?", in E. Patrick Johnson and Mae G. Henderson, (eds.), Black Queer Studies, Duke UP, 2005(isbn:0822336189), p.24.

(注8)Cathy J. Cohen, "Punks, bulldaggers, and welfare queen: The radical potential of queer politics?", in E. Patrick Johnson and Mae G. Henderson, (eds.), Black Queer Studies, Duke UP, 2005(isbn:0822336189), p.26


ヘテロノーマティヴィティ{の概念}は、性別、性自認性役割セクシュアリティの伝統的な規範と、それらの制度が社会的にどう関与するかを究明し、批評するなかで用いられてきた。それは、社会的な行動と性自認を直接的に人間の外性器に関連づける、二項対立的分類のシステムを、よく説明している。言い換えれば、男性であることと女性であることの厳密に定義された概念があるがゆえに、男性と女性それぞれに対し、同じように期待される振る舞いというものが存在するのである。


もともと非異性愛者がどのような規範と格闘しているかを説明するために考えだされた用語であるが、すぐにジェンダーの議論とトランスジェンダーの議論にも取り入れられた。ポストモダン主義、フェミニズムの議論においても、しばしば用いられる。この概念を用いる人は、セクシュアリティに二項対立的な考えを抱く人々に、明白な例外?両方の性別の性的特徴を備える、ウシの世界におけるフリーマーチンから、インターセックスの人間まで?が現れたときどんな困難が引き起こされるかを、絶えず指摘する。このような例外は性別もジェンダーも、二者択一の公理に換言しうる概念ではないということの、率直な証拠として持ち出されるのである。


ヘテロノーマティヴ社会では、1人の人間の性自認は男性か女性かの二者択一になっているゆえに、人が性役割と性的アイデンティティを選ぶことは不可能である、と考えられている。また、2つのジェンダーに対し、社会によって定められた規範の1つは、個人は異性のパートナーに対してのみ、欲望を抱き表現すべきであると要求されることだ。E.セジウィックEve Sedgwickの研究では、例えば、このヘテロノーマティヴな組み合わせは、性的指向を人間がセックスをするために選ぶ人の性別とジェンダーに基づいて排他的に限定し、人がセックスをめぐって持つであろうその他の嗜好を無視していると考えられている(注9)。
(注9)E.K.セジウィック『クローゼットの認識論』(isbn:479175722X)

2.ヘテロノーマティヴィティの有益な側面


多くのクィア理論家の見解にもかかわらず、ある人々は、ヘテロノーマティヴィティは社会に有用であると考える。『National Review』の寄稿者Maggie Gallagherは、クィア理論においてヘテロノーマティヴと考えられている社会構造は、子どもを育てるためには最良のものだと論じている(注10)。カナダの倫理学者Margaret Somervilleは、この視点に同意している。彼女は、結婚や家族関係に関する非ヘテロノーマティヴな見解は、親であることをその生物学的な基盤から切り離すため、不自然であろうと考えている(注11)。
(注10)October 20, 2005 - The Volokh Conspiracy

(注11)Margaret Somerville - In Conversation.......: Presented by The Bob Hawke Prime Ministerial Centre at UniSA. In association with Melbourne University Press - 21 May 2007 - The Bob Hawke Prime Ministerial Centre

3.ヘテロノーマティヴィティと家父長制


ヘテロノーマティヴィティは、しばしば強い家父長制への連想を伴う(時には混同されることすらある)。しかし、家父長制システムは、必ずしもジェンダーの二分法的システムに限定されるわけではない。家父長制は単に、男性ジェンダーを、人数の多寡は問わず他のすべての上に特権化しているのである。
それでも、ヘテロノーマティヴィティはしばしば、家父長制社会を支える柱の1つと見なされる。男性の伝統的役割は、ヘテロノーマティヴな道徳観、規則、さらには人間を外見的な性別や、彼ら彼女らがその社会で正常と見なされる性役割への適応を拒否するかどうかによって弁別する法規によって、強化され維持される。したがって、フェミニズムは、ヘテロノーマティヴィティと、それが女性に適用してきた古い慣習との格闘に関係していると見なすことができるのである。

4.現代のヘテロノーマティヴな核家族


こんにち見られる家族構成はしばしば、1950年代に典型的であった構成とは、著しく変化している。ある人々は、私たちの世界が絶えず変化していること、メディアの内外で人々がどのように核家族の規範の外部にある異なるタイプの家族とともに暮らし、経験しているかということをもって、ヘテロノーマティヴィティは過去の用語だと論じるかもしれない。Amy Benferは、論文「槍玉に挙げられた核家族(The Nuclear Family Takes a Hit)」で、私たちの現代社会がどのようにして過去から変化し始めているかを詳述している。「あらゆるものが変化した。過去30年間で、離婚率、シングル親、同棲の率は、急速に上昇した(Benfer)」(注12)。現代家族は、離婚や別居によってシングルの親を戴くようになった家族、結婚せずに子どもを持つ家族、同性の両親を持つ家族を擁している。家族の変容にともない、夫婦とは、厳格に子どもを持つために関係を結んでいる男性または女性である必要はなくなっている。人工授精、代理母、養子縁組などの進展により、多くの家族が、子どもを持つためのヘテロノーマティヴな男性と女性の生物学的結合によって形成される必要がなくなっている。これにより、ヘテロノーマティヴィティと家族の意味は、将来さらに変化するだろう。より多くの異性愛者が結婚の中でともに暮らすことを拒むか、そうすることができなくなり、より多くの同性愛者が結婚する権利のために戦うにつれて、「ヘテロノーマティヴな家族」と私たちが考えるものの中に、徹底的な変化が起こるかもしれない。
(注12)Benfer, Amy, “The Nuclear Family Takes a Hit”- June 7, 2001 - Salon.com

5.現代のヘテロノーマティヴィティ


現代のヘテロノーマティヴ社会において、女性が同等の男性と一緒に働きに出ることは、よりやりやすくなっている。女性にとって、男性と結婚し、彼と子どもをもうけ、育児のためにしばらく仕事を休むことは、当たり前のことである。ヘテロノーマティヴな男性は、今日の社会で、いまだにほとんどの金を稼いでいるが、子どもの世話を手伝う時間も増えている。男性と女性役割のあいだにあるギャップは減少し始めているが、それぞれのジェンダーにより当たり前となっていることの間には、いまだにいくらかの隔絶がある。


ヘテロノーマティヴィティのような基準が設けられていると、人間は「正常」という考えが自身の現実と異なるとき、孤独を感じるようになる。ヘテロノーマティヴな考えに同化しないかぎり、人間は自分の地位を危ういと感じるだろう。ゲイ男性やレズビアン女性が他の人間と関係を持つと、社会は通常、彼または彼女を恋人loverかライフパートナーlife partnerと呼び、ボーイフレンドやガールフレンド、夫や妻とすら呼ばない。すべての人間が異性愛者ではないと理解されている社会でも、非異性愛者に対しどうするのが適切かを見分けることは、いまだに難しい。アメリカ社会において、男性が男性の友人のことをボーイフレンドだと言うのは不自然なことである。人にゲイと思われる恐れがあるからである。女性にとっては、女性の友人を、彼女がレズビアンであるという含みなしにガールフレンドと呼ぶことは、より自然にできるのだが。ある人々は、依然として非異性愛者のライフスタイルを快く感じていない。ある人々は、異性愛者が動かす社会で、非異性愛者が苦しんでいる困難を理解し始めている。世界の絶え間ない変化によって、社会はヘテロノーマティヴではない生き方により敏感になってきており、異性愛者ではない人間がこの社会で生きることがどれほど辛いことでありえるかを、理解している。それは非常に痛みに満ちたものになることもあり、何らかの憎悪犯罪や、どこにも属し得ないという切迫した感情へとつながるかもしれない。Yolanda Dreyerは、この苦痛を次のように示す。「異性愛主義Heterosexismは、偏見、差別、いやがらせ、暴力につながる。それは恐怖と嫌悪によって引き起こされる(Dreyer 5)」(注13)アメリカの主流のメディアは、最近になって、異性愛者たちとは直接関係ないエンターテイメントを作成してきている。2005年の映画『ブロークバック・マウンテン』は、ヘテロノーマティヴな文化では定型的ではない愛を分かち合った。ステレオタイプの女性的なゲイ男性の物語ではなく、互いに愛し合ったが、体面を保つためにそれを秘密にしておかねばならないと感じた2人の男の物語である。Boxofficemojo.comは、『ブロークバック・マウンテン』は「2005年の最も印象的なbox office作品」の最高のものだったと宣言している。サイトの著者Brandon Grayが、「単に時の映画であるという以上に、この映画は、記録的なライブアクションムービーの劇場平均の最高点を稼いだあとも反響があった(Gray)」(注14)。

(注13)Dreyer,Yolanda. “Hegemony and the Internalisation of Homophobia Caused by Heteronormativity”>(PDF), Hervormde Teologiese Studies, Vol. 63, No. 1 (2007), pp. 1-18.

(注14)Gray, Brandon, “‘Brokeback Mountain’ most impressive of Tepid 2005”, Box Office Mojo, LLC. 25 February 2006.

6.ヘテロノーマティヴィティの社会・政治的徴候


ヘテロノーマティヴィティという概念を例示するものとしてしばしば指摘されるものは、歴史的にも、現代社会においても、数多くある。例えば、E-harmonyデート・サイトやValtrex性器ヘルペス薬のアメリカのコマーシャルは、異性愛のカップルのみを大々的に扱っている。

インターセックス

インターセックスは、男性か女性かはっきりしない生物学的特長を持つ。そのような症状が発見された場合、インターセックスはほぼ常に、生後間もないうちに、1つのジェンダーをあてがわれる。曖昧ではない男性または女性の身体を作るため、しばしば手術(通常、外性器の部分的な改造を含む)が、当人ではなくその両親の同意のもとに行われる。子どもは、それから通常、決定されたジェンダーの一員として育てられ教育されるが、そのジェンダーがその子らの一生の性自認や、そのままになっているなんらかの性的特徴(例えば遺伝子や内性器)に一致するかどうかは分からない。


こうした干渉を蒙った人々には、彼ら彼女らがインフォームド・コンセントを与えることが出来る年齢で相談を受けていれば、これらの外科手術的、社会的な干渉を拒むことができたと、異議を訴える人がいる。


ジェンダー理論家は、インターセックスのジェンダー決定は、生物学的な現実が、実のところ性別・ジェンダーの二分法を維持するために否定されているという、ヘテロノーマティヴィティの明白な事例だと論じている。[要引用]

ゲイ、レズビアン、バイセクシュアル

レズビアン、ゲイ、バイセクシュアルとしての行動は、一般的に、多くの社会において、社会的にも法的にも承認されていない。多くの人が、これは、それ{同性愛行為}が性的関係は第一に再生産の手段のために存在しているというヘテロノーマティヴな立場に挑戦しているからだ、と論じている。セックスが公の視線から少なくとも消滅するほどに抑制されえない場合{?}、ゲイ男性が本当の「男性」ではなく、強く女性的要素を持つ(逆もしかり)、または非異性愛的なパートナー関係には、常に「男性的」(能動的)、「女性的」(受動的)なパートナーが存在するという認識は、助長されると言われる。これはある場合には、同性愛者を{そのように行動するように}その気にさせるほどにまでなり(1960年代、70年代の欧米)、(1980年代、90年代の南アフリカでは)彼ら彼女らの性別・ジェンダーを「固定」するために性転換手術を受けることを強いられまでした。[要引用]

トランスジェンダー

トランスジェンダーは、しばしば性再判定の治療を求め、ゆえに曖昧ではない女性または男性の身体のみが存在するという前提をかき乱す。彼ら彼女らは自身の身体とつながった性自認を発達させない。実のところ、ある人々は、単純に男性または女性という性自認を決して持たないのである。しばしば、彼ら彼女らは、自身にあてがわれた性役割に従って行動しない。ある社会では、トランスジェンダー的な行動は、厳罰に値する犯罪と見なされている。サウジアラビア(注15)やその他多くの国が、そうである。しかし、トランスジェンダーは非西洋諸国では受け入れられないというステレオタイプ{な見かた}は、完全には正確ではない。−キューバとイランの政府は、現在はトランスの人々の異性愛主義的なモデルの枠内での性別適合手術に資金を投じている(すなわち、その性自認で異性愛者となる人々のみ)。一方、合衆国のトランスの人々は、ジェンダーに関わる手術への医療保険の適用をめぐって戦い続けている。他の国では、検事や陪審が、殺害や暴行を行った人々の取り調べや訴追、有罪宣告を拒否するとき、トランスジェンダーに対するある種の暴力が、暗黙のうちに是認されている(現在、北米の一部地域とヨーロッパにおいて(注16) (注17))。他の社会では、トランスジェンダー的な行動は、病院への収容が十分に正当化される精神医学上の病気であると考えられてきた。
(注15)Saudis Arrest 5 Pakistani TGs - Posted Sept 28 1998 - From All Over: GenderNews

(注16)Remembering Our Dead

(注17)SPLCenter.org: 'Disposable People'


トランスジェンダーがジェンダーに関わる医療処置を受ける可能性に制限をかけることは、ヘテロノーマティヴィティに負っている( Transsexualismの項目を見よ)。これらの制限を伴う医学界では、患者はトランスセクシュアル的行動を抑圧し、彼ら彼女らの生まれつきの性別の規範に順応する(社会的な烙印や、暴力を避けるために必要である)か、性別適合手術とホルモン治療の資格を得るため「新しい」性別の規範に厳格に従うという選択肢を持つ−もし何らかの治療がとにかく提供されるのであればだが。[要引用]これらの規範には、服装や癖、職業選択、趣味の選択、友人 (異性愛が必須) のジェンダーが含まれるかもしれない。[要引用](例えば、トランスの女性は「男らしい」仕事をより「女らしい」ものと取り替えることが期待されるだろう−例えば、弁護士の代わりに秘所になるなど)。曖昧な、あるいは「オルタナティヴな」ジェンダーになろうとする試みは、支持されず許されないと思われる。[要引用]一部の医学界は、特に1990年代以降、より行き届いた実践を行うようになっているが、多くはまだそうなっていない。[要引用]


多くの政府や公的機関も、人間を問題のある方法で「男性」「女性」ジェンダーに分類するヘテロノーマティヴなシステムを持っていることが批判されてきている。[要引用]さまざまに異なる領域で、性器やDNA、ホルモン・レベル(一部の公的スポーツ団体を含む)、生まれた時の性別(すなわち個人のジェンダーは公的には決して変更不可能である)などのさまざまに異なるジェンダーの定義が用いられている。[要引用]性別適合手術はしばしば、法的なジェンダー変更の必要条件となっており、インターセックスやトランスジェンダーの人々にとってさえ、可能な選択肢は「男性」「女性」のみである。[要引用]ほとんどの政府が異性婚のみを認めているため、公的なジェンダー変更は、子どもの養育権や相続、医療の意思決定など、関連する権利や特権に影響を及ぼしうる。[要引用]

7.ヘテロノーマティヴィティの概念をめぐる論争


「ヘテロノーマティヴ」というラベルに対する抵抗は、ある構造をヘテロノーマティヴだと描くことが、規範的normative な構造は本質的に悪であるということを言外に示唆しているのだと思われているところから来るのであろう。ヘテロノーマティヴィティの概念に関する最もよく見られる批判の一つは、それが政治的な正しさを求める意思の表れに基づいている、というものだ。その一例が、2005年3月11日付FOXニュースのScott Norvellによる論説記事に付された注釈である。この論説の一部は、女優Jada Pinkett Smithがハーバード大学で行ったコメントをめぐる論争に関するものであり、その論争を「政治的に正しいバカバカしさnuttiness」と表現していた(注18)。このような批評は、このように慎重に選ばれた言葉づかいや用語を用いることは一種の言論抑圧であり、重要な概念を明瞭に表現することが知的エリートの言論に課された政治的に正しい規制によって妨げられていると言外にほのめかしている。[要引用]しかし、この批評は、現在の社会構造がヘテロノーマティヴであると表現する人々[誰か?]は、性別・ジェンダーは自然に二項対立的である基本的な前提を切り崩そうとしているという考えを代表している。[要引用]批評家たちのもう一つの関心事は、ヘテロノーマティヴィティへの批判が、自然法や特定の宗教概念への訴えかけなど、ヘテロノーマティヴな社会構造のいかなる弁護をも実際的な意味のないものにしてしまうということである。[要引用]そのような人々は、実際に、ヘテロノーマティヴな構造からの逸脱(例えばLGBTI−レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダー、インターセックス)を、異常、病的、反道徳的と見なしているのかもしれない。[要引用]ゆえに、社会構造がヘテロノーマティヴだと描写され批評されるとき、それは構造そのものに対する批判としてのみならず、その基礎をなす、構造の正常性normalityと妥当性appropriatenessを正当化する宗教的・哲学的弁明も批判されていると見なされるようだ。[要引用] ヘテロノーマティヴな姿勢を身につけた人々の、ヘテロノーマティヴな経験を離れた個人や集団に対する対応は、寛容、憐憫、敬遠から、これらの集団の人々に正常さnormalcyを獲得させるため思いやりのある、あるいは強制的、あるいは暴力的な方法で支援しようとする試みまで、さまざまである。Jada Pinkett Smithの演説のように、ヘテロノーマティヴィティという思考をさらに社会的言説の目立つ場へと引き込んだ出来事は、必ずしもそのような扱いを代表しているわけではない。Pinkett Smith氏のコメントは、かならずしもホモフォビックではなく、LGBTIの人々に対する積極的な批評を示してはいなかった。しかし、彼女のコメントは、正常な関係とは男女の間に生じる関係のみであるという前提を作り出すヘテロノーマティヴなものであった。彼女のコメントをヘテロノーマティヴであると語った批評家たちは、「私たちの立場は、あのコメントはホモフォビックではないが、その内容は男女関係に特殊なものだった、というものだ」と語っていた(注19)。

(注18)Heteronormative Harassment, No Ladies Allowed - March 11, 2005 - FOXNews.com

(注19)Pinkett Smith’s Remarks Debated: BGLTSA calls comments “heteronormative,” pledges to work with Foundation - March 02, 2005 - News - The Harvard Crimson


参考文献

  • Lovaas, Karen, and Mercilee M. Jenkins, "Charting a Path through the 'Desert of Nothing'", Sexualities and Communication in Everyday Life: A Reader, Sage Publications Inc., 2006(isbn:9781412914437).

関連文献

  • Judith Butler, Bodies That Matter: On the Discursive Limits of "Sex",Routledge, 1993(isbn:0415903661).
    • 最終章(Critically Queer)邦訳:ジュディス・バトラー/クレァ・マリィ訳・解題「批評的にクィア」『現代思想』25(6)(総特集 レズビアン/ゲイ・スタディーズ)(isbn:4791710177), 1997, pp.159-177.

Sou Sotheavy「クメール・ルージュ、HIV、そして私:あるサバイバルとリーダーシップのストーリー」国際エイズ会議@メキシコ・シティ


クメール・ルージュ裁判におけるトランスセクシュアル被害者の告発−*minx* [macska dot org in exile]


ブクマコメント回答1:トランスセクシュアルの人に対する表記−*minx* [macska dot org in exile]


ブクマコメント回答2:「比べるもののないような悪」を比較対象とすることについて−*minx* [macska dot org in exile]


現在、カンボジアで国連のバックアップにより行われている、ポル・ポト政権下のさまざまな犯罪を裁く法廷(クメール・ルージュ裁判)に、1人のMtFトランスセクシュアルが告訴状を提出した。ポル・ポト体制下のトランスジェンダートランスセクシュアルに対する組織的迫害を明るみに出そうとする告発である。


僕はこの告訴のことを、告訴を辛辣に批判する山形浩生さんの日記に対するid:macskaさんの批判エントリを通して知った。詳しくは、上掲の3リンクと山形さんの元記事をぜひ精読していただきたい。


macskaさんの言葉につけ加えることは何もない。ポル・ポト政権期の大虐殺について、それが現在のカンボジア社会に残している傷痕について、知ろうとしたことも考えようとしたこともない僕に言いうるのは、macskaさんのエントリのコメント欄に書かせていただいたことぐらいでしかない。


ただ1つ、山形さんの元記事の次の言葉に引っかかった。これについて、補足的に述べさせてもらいたい。



Obviously, some irresponsible NGOs wanted to score brownie points, so they planted the whole idea into this poor man/woman, who will probably not get anything but further ridicule and humiliation. "My voice will be heard after 30 years," this person was alledged to have said. Well, I hope that made you happy. Now the whole world knows that KR commited GENDER CRIMES. Wow. Who would've thunk.


http://cruel.org/other/rumors2008_2.html#item2008090701


山形さんは、この告訴について、「どこかの無責任なNGOの点数稼ぎのために『気の毒な』トランスセクシュアルが利用された」というふうに推測しておられる。


しかし、今回告訴したSou Sotheavyさんは、(僕の大勘違いでなければ、当エントリ後半の翻訳資料から分かるように)プノンペントランスジェンダーセックスワーカーのためのNGO「Network Men Women Development Cambodia」を率いるアクティヴィストである。
トランスセクシュアルセックスワーカーとしての経験に基づき、2000年からセックスワーカーのコミュニティの指導者として活躍しているという。2006年に出たカンボジアセックスワーカーの暴力被害とHIV感染に関する調査研究レポートでも、研究者として名を連ねている。


VIOLENCE AND EXPOSURE TO HIV AMONG SEX WORKERS IN PHNOM PENH,CAMBODIA (PDF)


−って、こんなのはちゃっちゃとネットで調べただけの情報なので、Souさんがどんな人で彼女のNGOがどんなコンセプトのもとにどんな活動をしているのか、僕は何も知らない。
だが少なくとも、「無責任なNGO」に「そっくり(告訴の)アイディアを植え付け」られた「気の毒な」人というのとは、違うのではないか*1


Souさんは、8月3−8日にメキシコ・シティで開催された国際エイズ会議にも参加している。


今年の第17回国際エイズ会議は、従来からのエイズ感染予防・治療の問題のみならず、HIV感染者、エイズ患者、エイズ罹患のハイリスク・グループとされるセックスワーカー、MSM(male sexes male=ゲイ、バイセクシュアル男性など、男性と性交渉を持つ男性の総称)に対する差別の阻止と人権の擁護が、初めて本格的に中心的論題として取り上げられた画期的な会議だった。


Souさんは、国内紛争を生き延び、優れたコミュニティ指導者になった1当事者として、自らの経験を語る(言うまでもなく、彼女のような人材を必要とする国・地域は数多いのだ)。それがクメール・ルージュHIV、そして私:あるサバイバルとリーダーシップのストーリー」というセッションだ。国際エイズ会議のサイト(これがデカいのだ)に、そのアブストラクトがある。


The Khmer Rouge, HIV and me: a story of survival and leadership - XVII International AIDS Conference: 3-8 Auguest 2008 Mexico City


これを見ると、Souさんの今回の訴訟の背景もよく分かる。
短いものなので必要ないかもしれないが、この問題に関する一連のブログ・エントリを読む人が誤解しないよう、(またヘタな日本語だが)訳出しておく。


むろん、Souさんがカンボジアトランスジェンダーセックスワーカー人権活動家としてどういった評価を受けている人か、その活動方法や今回の告訴がカンボジア社会で戦略的に適切かどうかといったことは、また別問題だ。僕がチェックした情報はほんのわずかで、そういうことは分からない。それは現代のカンボジア社会をよく知る人の評価を待ちたい。


けれど、少なくともこれは言っても間違いではない、と思う。ポル・ポト時代のトランスジェンダートランスセクシュアル迫害は、無数の悲劇の1つでしかないかもしれない。しかし、まぎれもなくその1つである。


迫害され命を奪われた多くの人びとと同様、トランスジェンダーであるがゆえに生命や尊厳を奪われねばならなかった人びとがいたことが真摯に受け止められ、その名誉が回復されることは、いま生きているトランスジェンダートランスセクシュアルの人びとの尊厳の保障(ひいては、カンボジアエイズ問題の未来)につながってゆく−それが、Souさんが起こした行動の持つ意義なのだろうと、僕は想像している。


クメール・ルージュHIV、そして私:あるサバイバルとリーダーシップのストーリー」


S. Sou Network Men Women Development Cambodia, Phnom Penh, Cambodia
S. Sim Asia Pacific Networkof Sex Workers, Phnom Penh, Cambodia
C. Overs Asia Pacific Network of Sex Workers, Bangkok, Thailand

問題提起:

カンボジアポル・ポト体制期、何百万もの人びとが飢餓、病気、殺戮、強制労働キャンプで亡くなった。トランスジェンダー、ゲイ、レズビアン、そしてセックスワーカーは特に標的にされ、ほとんど生き残らなかった。現在、カンボジアでその同じ人びとは、再び大量死に直面している。今度は、HIVによって。

解説:

Sou Sotheavyは、クメール・ルージュを生き残った、69歳のトランスジェンダーカンボジアセックスワーカーだ。2000年以降、彼女はプノンペンHIV問題に関わるセックスワーカー・コミュニティの指導者であり、反倫理的な医療訴訟に抗するキャンペーンでも成功を収めている。
Sotheavyは、映画の抜粋を見せる。この映画は、「反道徳的振る舞い」を理由に彼女が受けた虐待とそれからの逃亡を追うとともに、1975年のプノンペン強制疎開で迫害され殺害されたトランスジェンダーたちの多くの事例を思い起こすものだ。この映画は、the Asia Pacific Network of Sex Workersにより、今年のクメール・ルージュ裁判(ECCC)における、トランスジェンダーセックスワーカーに対して行われたクメール・ルージュの犯罪についてのSotheavyの証言をサポートするために作成された。これは、ジェノサイドに関する国際法廷において、LGBTに対して行われた暴力が取り上げられる最初の訴訟となるだろう。彼女は「ゼロ年」からPLHA(People Living with HIV/AIDS=エイズとともに生きる人びと)・セックスワーカートランスジェンダーのための人権活動家としての現在の役割にいたる自身の個人史を語り、HIVエイズとの闘いをめぐる自身の動機と識見を分かちあってくれるだろう。

学ぶポイント:

衝突を生き延びてきた人びとは、自覚性、決断力、自己抑制力、戦略的思考、そして鋭い正義感などの資質を持っている。それゆえに、彼ら彼女らはHIVに取り組むコミュニティの理想的な指導者となっている。

次なるステップへ:

私たちは、Sotheavyの経験を学び、紛争が終結して国が正常化したとき、彼女に学んだものを活かして必要とされる性的少数者コミュニティの指導者たちを評価し育成してゆくことができるだろう。これは、類似の情勢にあり、それゆえHIV活動における指導者を育成する類似の潜在的可能性が存在するビルマアフガニスタンイラクに適用可能だ。

*1:むろん、Souさんがアクティヴィストだからといって、今回の告訴が他のNGOなどに「利用されているものだ」という解釈や評価はありうる。だがそれには、そう解釈するだけの具体的なソースと分析の提示が必要だと思う。

子どものサバイバル


地下生活の恐怖ーspongey


うわああ・・・。
「一生地下で暮らすキャンディーズ」のために恐怖したspongeyさんの気持ちは、僕もすごく分かる気がする。
僕も子どものころ、似たような記憶がある。
なんだったのか忘れたが(←って、憶えてねえじゃん)、TVだったと思うが、美人のタレントがその美しさのためにあれやこれや努力や工夫をしている、なんでも体も改造したらしく、「頭を外すことができる」と言ったのに、たしか幼稚園児だった僕は愕然とした。


実際には、彼女が身につけたアクセサリーの「ここが外れてこうなる」みたいな話をしていたんじゃないかと思うが、僕が想像したのは、言うまでもなく、そのあまりに人工的に美しい美人の首がクルクルと回ってスポッと外れる姿だった。
美しくなるための人体加工の恐ろしさ、それを平気で褒めそやしている周囲の大人たちの冷酷さに、僕は自分が生きてゆかなければならない恐ろしい世界の深淵をかいま見たような気がした。


いや、これはもちろんキャンディーズの地下生活と同じ「勘違い」で、ただの笑い話なんだけれど。


恥ずかしいけど、「○○は子ども心におかしいと思っていた」「大人がこう言っててもぜーんぜん信じなかった」ということを言える人に、僕は嫉妬してしまう。僕は、大人の言うことは何でも信じてしまう子どもだった。


たとえば、僕が育った家はわりとスパルタンで、「誰の金で以下略」「誰に食わせて以下」「気に食わないなら出て行け!出て行って死ね!」という決め台詞がバンバン飛び出すステキ家庭だった。最後のやつは特に効果てきめんで、「ああ反抗して家を出たりしたら僕は瞬時に死ぬんだ」と僕はもの凄くリアルに信じていた。父のうるさい説教から逃げ出す自分を想像したりすると、次のコマでは道ばたに横死してひらーと枯れ葉が上に散っている自分が見え、海が見える丘の上にぽつんと立つ苔むした無縁仏の自分の墓までがまざまざと思い浮かぶのだ。
妙にあざやかに記憶に残っているのだが、小学校3年か4年のころだったと思うけれど、そんなふうにとーちゃんが厳しいよという泣き言を、一度だけ友人に漏らした。すると友人は、「じゃあ家出すればいいじゃん!」と怒ったように言った。僕は、そんな選択肢を友人が当然のように口にすることに驚愕した。だって、家出したら死ぬんだよ!死んじゃうんだよ!


まあ、「死ね!」は極端な(いささかズレた)例かもしれないけれど。
「子どもの考え」には、そういうところがあるんじゃないか。


「子どもはなんでも信じてしまうから」
信じることの内容にもよるだろうけれど、別にこどもはいつもただ「なんでも信じる」わけじゃない。
恐ろしい、と思うのだ。キャンディーズが一生地下に閉じ込められるなんて、頭が外れるなんて、ひどい、そんなのおかしい、こわい。
でも同時に、どんなに怖くても、ひどいと思っても、それが世の中なのだから、仕方がない。がまんして受け入れなければならない。そう思って、信じるんじゃないだろうか。
子どもにとって、外から突きつけられた不条理と、自分の恐怖のどちらに理がある?と言えば、それは不条理のほうに決まってる。だって、たとえ不条理でも、自分にそれを覆すことのできる力があるというのか。


それはサバイバル術なのだ。漠然とでも、無意識でも、子どもは自分が弱くて、生殺与奪権を他人に握られていることを知っている。だから、どんな不条理に遭遇しても、適応の道を選ぶ。世の中にはきれいな女の人の頭が取れてしまうようなこともあって、それはとても恐ろしいけれど、そう言われているんだから、大人や兄やTVがそう言っているんだから、仕方ないんだ。子ども時代というのは、そんな憂鬱の連続だったような気が、僕はする。


「子どものほうが時として大人より残酷で保守的だ」
と聞いたことがあるし、僕もそう思うことがある。
でも、子どもは生きてゆくためにこそ、貪婪に保守的な考えを学び、一生懸命残酷さを心に植え付けようとしているとも、言えるんじゃないか。
「大きくなったらお嫁さんになりたい(女の子)」「男みたい女はヘン」「おかまは気持ち悪い」「ほーむれすのこじきは汚い」と子どもが言ったとする。そう言うときの子どもの心境はいまでは分からないが、そう思えたほうが現在の世の中、生きやすいことはたしかだ。


実際には、お嫁さんはつまらなそうと思ってもいいし、「おんな」が「おとこ」みたいでも少しもヘンじゃないし、おかまは気持ち悪くないし、兄貴の学生服や親父の背広だってえらい汚い。
だが、
「ぼくもだいすきなA ちゃん(男の友人)といっしょにくらしたいからかりやざきさんみたいなおかまになりたい」とか「わたしはほんがすきだからいちにちじゅう図書館でほんをよめるほーむれすがうらやましいな」
と言ったら、どんな制裁を受けるか分からない。少なくとも、教育的指導は入るだろう。これは「勘違い」ではない。十分ありえる発想であり言論であり現実なのに。


子どもがごはんを食べて平穏無事に生きてゆくためには、言論の自由や思想の自由は極めて限られている。子どもの世界は、そんな恐怖と諦めに満ちているような気がする。


子どもが必死のサバイバルで身につけるものが、ときにものすごく保守的で残酷なものになるということに、大人は驚愕したほうがいいんだろう。



 わたしがこんな想像をしてるとは知らないおにいの答えは「キャンディーズ解散でも特に何も変わらないでしょ」程度の意味だったでしょうが、わたしにとっては「世間の決まりごとは異様だけど、決まり事だから問題にもならず、諦めるしかないんだ」という恐怖の念を抱かせるものでした。
 キャンディーズと聞くと、そのときの衝撃が甦ってきます。3人ともいまも地上で楽しく暮らしてらっしゃるようでヨカッタ。  
 わたし、いまは別の「異様な決まりごと」のせいでツライ思いをしてますが、これも勘違いであって欲しい、、、


spongey

ジョグジャカルタ原則のいろんな翻訳をさがしてみる


「性的指向と性自認の問題に対する国際人権法の適用に関するジョグジャカルタ原則」


2006年11月、インドネシアジョグジャカルタで29人の国際人権法専門家により編纂された性的少数者の人権保障指針ジョグジャカルタ原則ですが。
約1年9ヶ月たった現在、じわじわと国際的人権運動の場で知名度を上げつつ、自己アピールしています。


それに関して、いろいろ調べてみたいことはあるんですが(で、なかなか時間がないのですが)。ここではちょっと未完の小ネタプロジェクトにトライしてみます。
ジョグジャカルタ原則の翻訳はいくつあってどこで手に入るか?です。
って、単に僕がちゃんと把握していないから数えてみよう、ってだけなんですが。


ジョグジャカルタ原則は、公式には英語・仏語・スペイン語・ロシア語・アラビア語・中国語の6カ国語で発表されてるわけですが。


各地のLGBT団体や人権組織で、そのほかの言語にも翻訳されているんですね。


しかし、まだあんまり見つけてません。そもそも読めないんで、見つけようにも限界ありまくりなんですが。
イントロダクションと目次だけならいろんな言葉に訳されているんですが、全訳は、まだそれほど多くない。でも、あることはある。


どこで、何語に、どのように訳されてるかというのは、ジョグジャカルタ原則がどうやって広まってゆくのかという一端を示していて、興味深いです。


とりあえず見つけたものだけでリンク集を作って、また発見したら、追加していきたいと思います。
1つ1つの翻訳の出来や、翻訳した団体・組織の意図の是非などについて、突っ込んで論じる能力は僕にはないので、その点はご了承のほどを。
語学の勉強とかにも使えるかも(?)。よろしかったらどうぞ(笑)。

インドネシア語 PRINSIP-PRINSIP YOGYAKARTA


2006年に設立されたインドネシアのLGBTI団体、Arus Pelangi: Indonesian Federation of Lesbian, Gay, Bisexual, Transgender & Intersexが翻訳を出しています。


PDFがダウンロードできますが、登録が必要です。
とりあえずHTMLバージョンで、どんなものか見ることが出来ます(って、僕は全然読めませんが。そういえばマレー語系の言葉では複数形は語を繰り返すんだったなあとか、そのぐらい)。


PRINSIP-PRINSIP YOGYAKARTA(HTMLバージョン)
  

タイ語

  
2008年11月29日、タイのバンコク第1回National Human Rights Day for Sexual Diversityが開催されました(紹介エントリ)。
このイベントで、タイの国立人権委員会National Human Rights Commission of Thailandにより翻訳されたタイ語バージョンが配布されたそうです。

ドイツ語 Die Yogyakarta-Prinzipien


Deutsche Ausgabe der Yogyakarta-Prinzipien erschienen - Hirschfeld-Eddy-Stiftung


Hirschfeld-Eddy-Stiftung: Stiftung f?r die Menschenrechte von Lesben, Schwulen, Bisexuellen und Transgender(The Hirschfeld-Eddy Foundation for the Human Rights of Lesbians, Gays, Bisexuals and Transgender People)は、国連協議資格NGO(2006年から)であるthe Lesbian and Gay Federation in Germany (LSVD)によって、2007年6月にベルリンで設立されたわりと新しいLGBT人権基金です。
組織名は同性愛者解放運動の先駆者の1人マグヌス・ヒルシェフェルト(1868-1935)と、シエラレオネLGBT団体the Sierra Leone Lesbian and Gay Association (SLLGA)の創始者でオープンリー・レズビアン・アクティヴィストのファンヤン・エディFannyann Eddy (1974-2004殺害)に由来しているんですね。
その設立経緯からして、ジョグジャカルタ原則に力を入れているのは、さもありなんです。


このドイツ語訳はオンラインで公開されてるんじゃなくて、ファウンデーションにメールかメールフォームで予約して入手できるようです(上掲リンク参照)。
  
  

日本語

  
セクシュアリティと法の専門家であり、日本でのジョグジャカルタ原則の紹介者でもある谷口洋幸さんが、日本語訳を発表しています。
  
ジョグジャカルタ原則(性的指向および性別自認に関連する国際人権法の適用に関する原則)」『法とセクシュアリティ』2(2007.9), pp. 121-132.
参考:性的マイノリティと法研究会−機関紙『法とセクシュアリティ』
  
学術誌なんですよね・・・。オンラインで発表されてたら、誰でもいつでも参照できるのに。
ゲイジャパンニュースが翻訳を発表するって言ってたはずなのに。オンライン版の発表、やっぱり考えませんか?ねえ!
  
※2010年1月24日追記
追記が大変遅くなってしまいましたが、じつは、2009年10月に、ウィキペディアに「ジョグジャカルタ原則」の項目ができたんですよ!
執筆者であるLilykittyさんにご教示いただきました(ありがとうございました。レスが遅れて、申し訳ありません!)。
ジョグジャカルタ原則—ウィキペディア
  
この項目には、各原則の内容も簡潔な要約で紹介されています。
日本語ウェブ環境で簡単にアクセスできるジョグジャカルタ原則の紹介として、とても役に立ちそうです。

ネパール語 (ネパール語でなんて呼ぶんだろう・・・)


ネパールのLGBT団体、the Blue Diamond Societyネパール語訳、2007年8月11日にネパール国連人権高等弁務官事務所(OHCHR)カトマンズ支局長を招待して公布式を行いました(関連エントリ)。国際的な人権基準を積極的に活用してゆこうとする姿勢がすごいですね。こうした努力が2007年12月のLGBT権利保障のための法整備の最高裁命令につながったのだろうと思いますが。


BDSのサイトにいちおうリンクはあるんですが、つながっていないので、いまのところオンラインでは見れなさそうです。
(なんでもネットでラクに見ようという根性がそもそも間違っているんだけど)

ペルシア語 (も、文字が読めない・・・)


اصول جوگ‌جاكارتا: اصول مربوط به شمول قوانين بين‌المللى حقوق بشر، در زمينه‌ى تمايل جنسى و هويت جنسيتى - بنیاد برومند


ワシントンに拠点を置くイラン人権団体The Abdorrahman Boroumand Foundation for the promotion of human rights and democracy in Iran (ABF)が、今年の国際反ホモフォビアの日(5月17日)に、ジョグジャカルタ原則のペルシア語訳を発表しました。


ABFは、現在のイランの人権侵害問題を扱うNGOですが(団体名は、1991年に処刑された法律家アブドルラフマン・ボルーマンドAbdorrahman Boroumand氏に由来するそうです)、その一環としてイランの性的少数者人権迫害にも注目し、ジョグジャカルタ原則のペルシア語訳に着手したわけですね。詳細は↓参照。


Addressing Homophobia in Iran - The Abdorrahman Boroumand Foundation

ポルトガル語 Principios de Yogyakarta


ジョグジャカルタ原則の普及活動にいつも前向きだった国は、ブラジルです。
2007年8月にLGBT団体・各種人権団体が一緒になって4都市でジョグジャカルタ原則公布式を開催したんですが(関連エントリ)、原則のポルトガル語訳も出されました。


Sexuality Policy Watchの↓以下のページに、ポルトガル語版(PDF)をダウンロードできるリンクがあります。


Principios de Yogyakarta - Sexuality Policy Watch
  

ルーマニア語 a Principiilor de la Yogyakarta

  
(2009年5月28日追記)
  
ルーマニアのLGBT人権組織Accept Romaniaが、ルーマニア語版を作ったそうです。
ブカレストで5月18−24日に開催された2009年Gay Festの一環として、22日、公布式が行われたとのこと。
Romania: Romanian version of the Yogyakarta Principles launched in Bucharest
- IGLHRC

  
Gay Festのプログラムから(ルーマニア語読める人〜)


Principiile de la Yogyakarta
  
În 2006, un grup de experţi în domeniul drepturilor omului s-au întâlnit la Yogyakarta (Indonezia) pentru a realiza un document care să sintetizeze principiile internaţionale privind drepturile omului pentru persoanele LGBT. Acest document a fost intitulat Principiile de la Yogyakarta şi este un ghid universal care conţine standarde legale internaţionale obligatorii pentru toate statele care au semnat şi ratificat documentele respective.
Principiile fac referire la obligaţiile de bază privind drepturile omului şi sunt însoţite de recomandări de implementare pentru autorităţi. Recomandările sunt adresate şi altor instituţii/organizaţii care influenţează respectarea drepturilor omului: ONGuri, mass media, sistemul Naţiunilor Unite privind drepturile omului.
Mai multe detalii despre acest document şi versiunile sale în alte limbi le găsiţi la www.yogyakartaprinciples.org
Asociaţia ACCEPT şi-a propus promovarea acestui document în România şi popularizarea lui în rândul principalilor actori privind apărarea drepturilor omului. În acest sens organizează în cadrul Gayfest 2009 lansarea publicaţiei în limba română şi organizarea unei dezbateri pe tema drepturilor persoanelor LGBT ca drepturi ale omului.
Evenimentul este realizat în parteneriat cu Consiliul Naţional pentru Combaterea Discriminării.
La eveniment participă, ca invitaţi speciali, membri ai Parlamentului European: Michael Cashman (Marea Britanie), Helene Goudin (Suedia), Michel Teychenne (Franţa); Boris Dittrich (director al programului pentru LGBT al Human Rights Watch, fost parlamentar în Parlamentul Olandei).
Participanţi: reprezentanţi ai organizaţiilor neguvernamentale din România care lucrează în domeniul drepturilor omului şi non-discriminării, reprezentanţi ai instituţiilor guvernamentale şi membri ai parlamentului, membri ai comunităţii LGBT din România.
Documentul a fost tradus şi editat în limba română de Adrian Coman, Iustina Ionescu, Romaniţa Iordache şi Mona Nicoară.
Îi mulţumim domnului Adrian Coman pentru implicarea sa în realizarea acestui eveniment!
Intrarea se face pe bază de invitaţie. Cei interesaţi să participe ne pot contacta la tel 021 252 90 00.
  
http://www.gay-fest.ro/fest09programRO.htm

Elvis Costello, "Let Him Dangle"



Well it's hard to imagine it's the times that have changed
When there's a murder in the kitchen that is brutal and strange
If killing anybody is a terrible crime
Why does this bloodthirty chorus come round from time to time
Let Him dangle


時代は変わってしまうもので、想像するのは難しい
台所で殺人が起きたら、ひどすぎるわけわからないと思う
でも人を殺すことが恐ろしい罪なら
どうしてこんな血に飢えたコーラスがたびたびわき起こる
ヤツを吊るせと

(意訳)


Let Him Dangle - Elvis Costello


『Spike』では「Veronica」が好きなのに、この曲が頭を回ってしまう。


Spike (Bonus CD)

Spike (Bonus CD)

「同性愛」をフィルタリング対象にしない〜EMA意見書(案)を支持します(9月1日締切)


カミクズヒロイさんからの情報ですー
2008年8月22日のヒトとナリーカミクズヒロイ


同性愛、宗教などは携帯フィルタリング対象外に〜EMAが意見書案ーInternet Watch


現在、総務省により、「インターネット上での違法・有害情報からの青少年の保護」を目的とした、携帯ネット・アクセスのフィルタリング・サービス普及が進められています。6月に青少年ネット規制法が成立し、多々疑問・議論をはらむ未成年向けネット規制の義務化は、急速に現実化しています。


これに対して、規制そのものへの批判をはじめ、フィルタリング方式や何がフィルタリングされるのかという問題の是非が厳しく議論され、無謀で無意味なフィルタリングの強引な施行が行われないよう、社会からの監視と批判が行われることが必要だと思います。


現在行われているフィルタリング・サービスとはどのようなものか?については、yusukemさんのはてなダイアリー消費日記@はてなをごらん下さい。


フィルタリング普及・義務化の流れのなかで、2007年末、フィルタリング対象を検討し改善を図る第三者機関として有限責任中間法人モバイルコンテンツ審査・運用監視機構(=EMA、代表理事堀部 政男)が設立され*1、アンケート調査などを通してフィルタリング政策の検討を行ってきました。



この結果が、8月21日、青少年向け携帯フィルタリングに関する意見書(案)として発表されました。


携帯電話事業者が提供する「特定分類アクセス制限方式(いわゆるブラックリスト方式)」におけるアクセス制限対象カテゴリー選択基準に関する意見書(案)(PDFファイルが開きます)


性的少数者の立場から、この意見書が画期的な点は、ネットスター社などのフィルタリングサービス会社が作り、いくつかの携帯サービスで青少年向けフィルタリング対象に設定されていた「同性愛」カテゴリをフィルタリング対象から外すこと、カテゴリ自体の撤廃を提案していることです。


これまで、アダルトではない同性愛関連情報サイトも、「同性愛(ゲイ・レズビアントランスジェンダーの生活スタイルに関する各種情報の提供)」としてカテゴリが設けられ、なぜかフィルタリング対象となっていました。
参考:ネットスター社のフィルタリング・カテゴリ一覧


この意見書(案)では、「アクセス制限対象とすべき要件に該当しない」として、4カテゴリ(セキリティ・プロキシ/同性愛/宗教/政治活動・政党)をフィルタリング対象から外すことを提案していますが、「同性愛」カテゴリをフィルタリング対象から外す理由は、次のように説明されています。



 同性愛でも性的な情報を含むサイトはアダルトカテゴリーに分類されており、青少年にとって同性愛自体が有害とは考えられない。性同一性障害については、国内外においてもその理解は進んでおり、同性愛者への差別、青少年の同性愛への偏見を助長することも考えられるためアクセス制限対象カテゴリーとすべきでなく、カテゴリー自体の必要性の有無についても検討が必要と考える。


まったくそのとおり、としか言いようのない提言です。


露骨なアダルトやポルノはできるだけ未成年から遠ざけたい、と誰しも思って当然かもしれません(それが国家主導の規制によって行われるべきであるとも、そういう方法で規制が可能であるとも、僕は思えないのですが)。しかし、男性が女性に、女性が男性に惹かれる異性愛についての情報をフィルタリングしようとは、ほとんどの人が思わないでしょう。そんなことをしたら、恋愛や結婚やそれに関わるライフスタイルの要素の入った映画・ドラマ・小説・漫画など、すべて要規制ということになってしまいます。
それと同じように、同性が同性に惹かれる同性愛が、フィルタリングの必要があるわけありません。


アダルトでもない同性愛情報サイトにまで特定のカテゴリを設け、フィルタリングしようとする現在の政策は、ただ、同性愛者など性的少数者に対する意味のない偏見のあらわれでしかありません。


マイノリティである同性愛者や両性愛者、トランスジェンダー性同一性障害についての情報は,圧倒的に不足しています。子ども達が日常生活で接する性、恋愛、身体の成長についての情報は、異性愛/非トランスジェンダーのものばかりです。
同性愛やトランスジェンダーは、ただ多数派の異性愛と違うというだけの理由で、揶揄や否定の対象になることもたびたびあります。親や学校の教師ですら、性的少数者の子どもの人格を否定するような言葉を、平気で口にするのです。


性的少数者の子どもは、マスメディア、家庭、学校から、自分が誰か、どう生きればいいのかという知識と情報を、ほとんど得ることができない。少しずつ状況は改善されていますが、これが現状です。


インターネットは、そんな子ども達の大きな支えになっています。
多数のサイトが、性的少数者の子どもを励まし、自分たちの性や身体について、正しい知識を得ることができる情報を発信しています。
自分と同じような人間は大勢いるのだと気づき、性的少数者を取り巻く社会や世界の状況を知り、生き方を学ぶ。悩みを打ち明け合い、アドバイスを与え合う。異性愛のみが正しい性だとされ、他の性が間違った性のように敬遠され、沈黙を押しつけられるこの社会で、インターネットは性的少数者の子ども達に、そういう場を可能にしました。


フィルタリングは、そのような可能性を奪う行為です。
学校や家庭で同性愛者やトランスジェンダーの子ども達をきちんと受けとめ、正しい知識を与えることもしていないのに、一方的にインターネットの情報からも切り離そうとする。のちの人生に大きな影響を与える人格形成の時期に、性的少数者に自己否定と孤立を味わえ、と言っているにも等しい政策です。もし総務省の青少年向けインターネット政策が、「子どもの健全な成長」を目的としているのであれば、完全に方法を間違えている、といっていいでしょう。


今回のEMAの意見書(案)は、この問題を、的確にすくいあげています。

アンケートでEMA意見書(案)を支持する意見を送ります


現在、EMAは、この意見書(案)に対する一般の意見を募集しています(9月1日締め切り)。


携帯電話事業者が提供する「特定分類アクセス制限方式(いわゆるブラックリスト方式)」におけるアクセス制限対象カテゴリー選択基準に関する意見書(案)に関するご意見の募集について(PDFファイルが開きます)


「同性愛」カテゴリをフィルタリング対象から外し、カテゴリそのものを廃止するというEMAの意見書に、抵抗や反発を示す人もいるでしょう。
同性愛を否定しようとする主張もあれば、単に現状維持的に、改善に難色を示す意見も、出ると思います。
性的少数者の情報のフィルタリングが根本的に間違っており、フィルタリングしないことがどれほど重要かを訴えて、意見書(案)が打ち出した方針に支持を表明することが、必要だと思います。


締め切りの9月1日まで、あと1週間時間があります。この意見書(案)に賛意を示される人は、ぜひEMAにその旨を訴えるアンケート用紙を送ってみて下さい。


詳細は↑上掲リンク「ご意見の募集について」の説明文を読めば分かりますが、簡単に説明すると、

意見書(案)に対する意見
  • 規定のアンケート用紙(Excelファイル)をダウンロードする
  • アンケート用紙は、意見書(案)の記載事項について、意見を書き込む(意見書(案)の該当ページを記す)形式になっています
  • 個人情報(名前・勤務先・連絡先・E-mailアドレス)の記入欄もありますが、これは任意で、記入する必要はありません
アンケート用紙の送付方法(詳細は「ご意見の募集について」PDFファイル参照)
  • 電子メール(メールの件名は「カテゴリー選択基準意見書(案)に関するご意見」)
  • 郵送
  • FAX

シスジェンダー(非トランスジェンダー)特権チェックリスト


The Transgender Boardsが配布している シスジェンダー(非トランスジェンダー)特権チェックリストThe Cisgender Privilege Checklistを教えてもらいました。


ここで使われている「シスジェンダー」は、「トランスジェンダーではない人」のこと。「シス(cis-)」とは「こちら側の」、「トランス(trans-)」の対義語。
cisgender・シスジェンダー−Anno Job Log


ひとくくりに大ざっぱに「性的少数者」という言葉を僕はよく使いますが、トランスジェンダーと同性愛者・バイセクシュアルは大きく違います。
たとえばトランスジェンダーに対して、シスジェンダーのゲイは完全な強者、マジョリティです。
僕もトランスジェンダーの知人はいるけれど、トランスジェンダー性同一性障害の人たちがこの社会で抱える困難や生き辛さが分かっているとは思えません。


しかし、トランスジェンダー性同一性障害の人の直面する生きづらさが理解できない、というのは、例えば僕が「トランスジェンダー性同一性障害の人たちの困難な境遇を分かっていない」せいでしょうか。
「男」「女」の制度に適応できているシスジェンダーの僕が、自分自身の《恵まれた境遇》について分かっていない、「この世がどれほどトランスジェンダーでない人にばかり都合よくできているか」を自覚できていないせいでも、あるんじゃないか。


この「非トランスジェンダーの特権」については、ひびのまことさんが指摘しています。
「トランスジェンダーではない人」の社会的特権ーThe Non-Trans Privilegeーーばらいろのウェブログ(その2)
  
「非トランスジェンダー特権」についてのひびのまことさんの講演を、akaboshiさんが録画して公表しています。
トランスって?13●トランスジェンダーではない人の社会的特権01●意志に関係なく持っている「特権」を意識せよ - フツーに生きてるGAYの日常
トランスって?14●トランスジェンダーではない人の社会的特権02●「同性愛」と「性同一性障害」の社会での扱われ方 - フツーに生きてるGAYの日常


トランスジェンダーの生き辛さや困難について教えてください」
というまえに、
「非トランスジェンダーはどんな特権を持っているのか?」
をチェックしてみてください。
と、いうのが、この「非トランスジェンダー特権チェックリスト」です。


このエントリの一番下に、訳してみました(またヘンな日本語)。
当然、内容は日本社会向けじゃないですし(貨幣単位からしてね)、ちょっとよく分からない質問もあります。
こういう「特権リスト」は日本語でもあるんじゃないかと思うんですが、どうなんでしょう(ご存知の人は、教えてください)。
あと、作成者が言っている通り、問題が少なすぎますね。一生のライフサイクルから日常の細々とした事柄まで、僕らが気づいていない、当たり前だと思っている「非トランス特権」を具体的に上げていったら、膨大なリストになりそうですが(回答に2、3時間ぐらいかかるような)。誰か作らないだろうか。


やってみました


該当する24問中、YESが19、NOが2、どちらとも言えない・分からないが3。
完全に「非トランス特権」に浴している人間のデータです。

回答問題No
YES193/4/5/6/7/8/9/10/11/12/13/14/15/16/22/24/25/26/27
NO21*1/17*2
該当外418/19/20/21
どちらとも言えない22*3/28
分からない123


やってみると分かりますが、シスジェンダーでも、YES、NOの判断に苦しむ、どっちつかない質問も、結構あると思います(僕はとりあえず、日常的な公私の生活に決定的な影響がありそうかどうかで判断しました)。
いわゆる「女らしい」「男らしい」とされる外見を持っていない人(例えば背が低い男性や背が高い女性)、性的な自信や満足を持てない人、不妊の人(15、16、17、18、20 etc.)、要するに「男女がつがいになって子をなす」異性愛規範の条件から何らかのかたちで外れる人は、程度の差はありますが「非トランスの特権」に浴しているとは言いがたい、と言えそうです。


「男」か「女」かというジェンダーの規範がもたらすさまざまな圧力は、結局、医学的な意味での性別違和を持つ人だけの問題ではないわけですね。


しかし、服装も公共施設の利用もいろいろな書類手続きも問題なく、性別適合手術に莫大な金額を費やす必要もなく、規定されたジェンダーで問題なく生活しそれを楽しみ、トランスジェンダーへの偏見の眼差しに傷つけられることもない人間(僕)は、大きな特権を享受している、と気づかされます。


トランスジェンダー特権チェックリストThe Cisgender Privilege Checklist


「広範囲にわたるシスジェンダー(非トランスジェンダー)の特権リストとしては、ささやかかもしれない。このリストは、特権を有することについて、だいたい1人称で書かれている。No.1は、異性愛者とシスジェンダーの特権の両方について語っている。残りのリストは、シスジェンダーの特権に焦点を当てている。」
このリストを読み、転送して、トランスジェンダーの人びとがしばしばぶつかる、シスジェンダーの人びとが日常を基準にして当然だと思っている困難を、人びとに気づかせてください。


1.自分のアイデンティティを公言したり、相応しくないと見なされるジェンダー的行動や特徴を持っているせいで、家族や友人から追い出されたり、仕事をクビにされたり、自分の家から立ち退きさせられたり、病院で不十分な手当しかうけられなかったり、暴力や性的虐待に苦しめられたり、メディアに愚弄されたり、宗教団体から説教で批判されたりすることは、ないと思う。
2.自分が自分とは違う名前で呼ばれたり、妥当じゃない呼称を使われたりすることはないと確信できる。
3.トイレがちゃんと使えて、使用中でもないのに、「我慢する」という憤りに苦しんだことはない。実のところ、公共施設が性別で区別されていることを、気にしなくてもいい。
4.もし入院したり収容されたりしても、性別で区別された施設で間違った場所に入れられないか、心配しなくてもいい。
5.性別で区別されたサービスを受けようとしたり催しに参加しようとしても、拒絶されることはない。
6.無邪気な子ども時代が、目覚めたら違う性別になっていますようにという絶望的な祈りで乱されるということはなかった。
7.異なる性に生まれたために子ども時代や思春期を失ったことを悲しんだことはない。
8.思春期は一度しか経験しないだろう。
9.恋人になるかもしれない人の態度が、私の性器のために、ほれ込んだ態度からいきなり軽蔑、暴力にさえ変わるかもしれないと心配したことはない。
10.自分の性器について人に訊かれることはないと思う。ましてや勝手に触られたり、見せろと言われたりするなんて、ありえない。
11.ばれることが怖くてきちんと医者に罹らず、自分の健康を危険にさらすことはないだろう。
12.体の一部を締めつけたり挟み込んだりして隠そうと考えたことはない。
13.声を変えようと考えることはないと思う。
14.専門医に病気の診断を受けたとき、医療保険の適用から除外されることはありえない。
15.男として、ほぼ年齢相応に見えるし、体も他の男と同じようなサイズ、型をしている。
16.男として、性器の機能にほぼ満足している。
17.男として、ほぼ間違いなく子供の父親になることが可能だ。
18.女として、ほぼ他の女性と同じようなサイズ、型の体を持っていそうだ。
19.女だから、中年まえに髪がなくなることはないだろう。
20.女だから、ほぼ間違いなく妊娠して子どもを持つことが可能だ。
21.女として、今後の人生ずっとダイレーション(膣拡張作業)*4し続ける必要はない。
22.オーガズムを得ることはほぼ可能だ。
23.退職には5万ドルを費やすか貯めるかしなければならないだろう。
24.1000ドル費やして何ヶ月もセラピストにかかり、すでに分かっていることばかり聴かされている、という自分を想像できない。
25.肉体的に健康だったら、子宮摘出、乳房切除、永久脱毛、抗ホルモン療法、変声手術、顔や性器の適合手術を受けようとは考えない。
26.自殺せずに老年まで生きる道はある。
27.葬儀のとき、家族は私が生前望んでいたのと違う異性装をした写真を飾ったりはしないだろう。
28.見たままのジェンダーで受け入れられるかどうか心配しない。受け入れられなかったらどうなるか、その結果自分の非トランスジェンダーの特権を失うということには気づかない。実のところ、私には自分のシスジェンダー的特権に完全に無自覚でいる特権がある。

*1:すべてに当てはまりはしないけれど、同性愛者だとカムアウトしたときのリスクとしてあります。

*2:ゲイの僕が「子どもの父親になる」には、現代日本では法的にも社会的にも困難が多すぎますね。

*3:侮蔑的なニュアンスで「ホモ」と呼ばれたり、「ゲイは中身は女だ(レズビアンは男だ)」というたぐいのことを執拗に言う人(または同性愛者と性同一性障害を混同する人など)に遭遇したときに、感じないでもありません。でも、自認しない性別を強制される抵抗感とは大きく違うでしょう。

*4:SRS(性別適合手術)で造膣手術を受けたMtFトランスセクシュアルが、拡張器(ダイレーター)を用いて膣を伸展しサイズを維持する作業のこと。MtFのSRSの重要な術後処置。コメントで教えていただきました。ありがとうございました。