ヘテロノーマティヴィティ:en.Wikipedia(revision of 10 September 2008)


僕はこのブログでときどき「ヘテロノーマティヴィティ(異性愛規範性)」「ヘテロノーマティヴ(異性愛規範的)」という言葉を使う。
クィア・セオリーのキー概念のひとつだ。
なぜこの社会では同性愛に対する偏見や差別が再生産され続けるんだろう?という謎は、ゲイの僕にとっては生活にダイレクトに関わる「日々の問題」なのだけれど、この目の前の現実を理解するために、「ヘテロノーマティヴ」という考えかたは、かなり分かりやすい手がかりになっていると思う。


しかし、これは考えかた、分析概念だから、いつ、誰が提唱して、どのように使われて、どんな問題点があるのか、分かって使わないといけないし、受け取る側にも、分かってもらえないといけない。
でも、ウェブ上で「ヘテロノーマティヴ」または「異性愛規範」というタームが使われることは、まだあまり多くない("ヘテロノーマティヴ""ヘテロノーマティヴィティ""異性愛規範" -Google検索)。「ヘテロノーマティヴィティ」で検索すると、ヒットするのが俺ブログだったりしてたいそうヤバい(エントリタイトルに入っているからか、なんて危険なんだ)。


クィア理論の「異性愛規範」という考えかたについては、デルタGさんのクィア・スタディーズ入門というすばらしい教科書で学ぶことができる。しかし、現代思想ジェンダー学やクィア理論を勉強したこともないパンピーの僕(でも目前の現実を理解する概念は必要)としては、ヘテロノーマティヴィティというタームの使いかた使われかたについて、もっと初歩的に概説したテキストがないかなあと思っていた。
(「ヘテロノーマティヴ」のはてなキーワードを作ってみようかなとも思ったけど、自信がないので止めた。はてなキーワードGoogleヒット率高いしウェブ上ではウェブ辞書的に使われることもままあるので、ちゃんと専門の人に作って欲しい)


で、とりあえず読むのがウィキペディアというのが、かなりダメっぷりを示しているのだが。


en.Wikipedia"Heteronormativity"の項目は、2002年12月29日(当時のバージョン)から、2008年9月10日(9月26日現在)までちまちまと修正が続いている。今でも要注釈タグ、要議論タグ、要コピーエディティング(文法文体チェック)タグまでついていて、かなり不完全。
読んでみると、よく書けている部分もあるのだが、ソースなさすぎだったり、事例が適切なのかなあと首をひねるような解説だったりする部分も多い。とくに第6節あたりは要注釈タグがバシバシついていて、ちょっとダメ感が漂う。
しかし、ウィキペディアのようなメジャーなウェブ辞典でこうした用語がどのように書かれているか、というのも、言葉の使われかた、解釈のされかたを知るうえで、興味深い指標かもしれない。
じゃあ黙って読んでろ、という感じだが、頭悪い→日本語に訳してみないと理解できない→めんどくさい→ちゃんと読み終わらない→じゃあブログに載せよう→やる気になるがいつものパターンなので、またヘタ日本語だけど載せておく。おかしい、と思った点などあったら、指摘してください。
(それにしても相変わらずトンデモ機械翻訳なみにヘンな日本語。意味不明なところはまた直します。あときっと誤訳はたくさんあるよ!)

Heteronormativity – revision of 10 September 2008 - Wikipedia, the free encyclopedia



Homonormativityの項目がこの記事と合併されるべきとの示唆があります。(discussion

この記事は多数の論争点があります。記事の改良を助けるか、discussionにて論点を議論してください。

    • 立証のためにさらなる参考文献・資料を必要としています(タグ−2008年7月)
    • 文法・文体・一貫性・トーン・スペルの修整を必要としています(タグ−2007年6月)


ヘテロノーマティヴィティとは、非へテロ的ライフスタイルの周縁化と、異性愛heterosexualityを正常な性的指向sexual orientationと見なす思考を説明する用語である。例えば、人間は男女という2つの明確に区別された相補的なカテゴリーに分けられる、性的な関係や婚姻関係は異性間のみで行われるのが正常である、それぞれの性別sexは生活の上で特定の役割を持つという考えなどが{、ヘテロノーマティヴィティに}含まれる。すなわち、すべての人間の中で、身体的な性別、性自認gender identity、性役割gender rolesは、あらゆる男性または女性の文化的規範cultural normsと一直線に並行しているべき{と見なすのが、ヘテロノーマティヴィティ}なのである。


この用語が表す規範normsとは、公然のもの、ひそかに隠されたもの、暗黙のものいずれでもありうる。ヘテロノーマティヴィティを見分け、批判する人は、ヘテロノーマティヴィティは、ある種のセクシュアリティジェンダースティグマを捺すことによって言説を捻じ曲げ、一定の種類の自己表現をより困難にしてしまうとする。ヘテロノーマティヴィティは、人が社会で出会う人間はみな異性愛者と想定されるという考えを示唆している。それが人々が互いを眼差す「正常」な方法だからだ。ヘテロノーマティヴと見なされない人間は、同性愛者、バイセクシュアル、インターセックストランスジェンダーの人々、そしてポリアモリストのような、複数のパートナーと結婚している人々である。


論文"Charting a Path Through the 'Desert of Nothing'"において、著者Karen LovaasとMercilee M. Jenkinsは、ヘテロノーマティヴィティが支配的な世界を、「例えばヘテロノーマティヴィティは、2つの性別が存在し、ゆえに2つのジェンダーが存在すると当然の如くに決めてかかる」と描いている(注1)。

ヘテロノーマティヴィティは、どっちつかずの中間的なジェンダーはどんなものでも存在の余地はなく、それぞれのジェンダーは固定的にその輪郭がはっきりと定められているのだということを示唆する。「ヘテロノーマティヴィティは、ゆえに、ジェンダーに関するアイデンティティと機会をめぐるあらゆる議論は、厳格にこの二分法に基づいて組み立てられることを求め、ジェンダー化された行為者は、その人自身が行うアイデンティフィケーションとは関わりなく、「女性」か「男性」のどちらかのラベルを貼られねばならないと強制する(Lovaas and Jenkins 98)」 (注2)。

(注1)(注2)Lovaas, Karen, and Mercilee M. Jenkins, "Charting a Path through the 'Desert of Nothing'", Sexualities and Communication in Everyday Life: A Reader, Sage Publications Inc., 2006(isbn:9781412914437).


目次
1.語の起源
2.ヘテロノーマティヴィティの有益な側面
3.ヘテロノーマティヴィティと家父長制
4.現代のヘテロノーマティヴな核家族
5.現代のヘテロノーマティヴィティ
6.ヘテロノーマティヴィティの社会・政治的徴候
6−1.インターセックス
6−2.ゲイ・レズビアンバイセクシュアル
6−3.トランスジェンダー
7.ヘテロノーマティヴィティの概念に関する議論
8.参考文献
8−1.文献目録
9.関連項目
10.関連文献

1.語の起源


この用語は、1991年、Michael Warnerにより、クィア理論の最初の主要な著作の1つにおいて作り出された(注3)。ゲイル・ルービンGayle Rubinの「性別/ジェンダーシステムsex/gender system」の概念と、アドリエンヌ・リッチAdrienne Richの強制的異性愛compulsory heterosexualityの概念に、その起源を持つ(注4)。Samuel A. Chambersは、一連の論文の中でヘテロノーマティヴィティをより明瞭に理論化しようと試み、異性愛が社会の中で規範的normativeと見なされるとき、どんな期待、要求、制限が生み出されるかを暴く概念として、ヘテロノーマティヴィティを捉えることを提唱した(注5)(注6)。
(注3)Warner, Michael, "Introduction: Fear of a Queer Planet", Social Text 29 (1991), pp. 3-17.

(注4)Adrienne Rich, "Compulsory Heterosexuality and Lesbian Existence", Signs: Journal of Women in Culture and Society 5(1980), pp. 631-60.

(注5)Samuel A. Chambers, "Telepistemology of the Closet; Or, the Queer Politics of Six Feet Under", Journal
of American Culture
26.1(2003), pp. 24-41.

(注6)Samuel A. Chambers, "Revisiting the Closet: Reading Sexuality in Six Feet Under", in McCabe and Akass (eds.), Reading Six Feet Under, IB Taurus, 2005(isbn:1850438099).


Cathy J. Cohenは、ヘテロノーマティヴィティを、「異性愛異性愛関係を、社会の中で根本的かつ『自然な』ものとして正当化し特権化する」諸慣習・諸制度と定義づける(注7)。彼女の研究は、人種、ジェンダー、階級的抑圧と交差し、それらと不可分なかたちでより広い権力構造に取り込まれているセクシュアリティの重要性を強調する。Cohenは、福祉を受けているシングルマザー(特に有色人種の女性の)や、セックスワーカーの例を挙げ、彼女らは異性愛者heterosexualであるかもしれないが、しかし異性愛規範的heteronormativeではなく、ゆえに「正常で、道徳的で、国家の支援に価する」もの、正当化しうるものとして認められていない、とする(注8)。
(注7)Cathy J. Cohen, "Punks, bulldaggers, and welfare queen: The radical potential of queer politics?", in E. Patrick Johnson and Mae G. Henderson, (eds.), Black Queer Studies, Duke UP, 2005(isbn:0822336189), p.24.

(注8)Cathy J. Cohen, "Punks, bulldaggers, and welfare queen: The radical potential of queer politics?", in E. Patrick Johnson and Mae G. Henderson, (eds.), Black Queer Studies, Duke UP, 2005(isbn:0822336189), p.26


ヘテロノーマティヴィティ{の概念}は、性別、性自認性役割セクシュアリティの伝統的な規範と、それらの制度が社会的にどう関与するかを究明し、批評するなかで用いられてきた。それは、社会的な行動と性自認を直接的に人間の外性器に関連づける、二項対立的分類のシステムを、よく説明している。言い換えれば、男性であることと女性であることの厳密に定義された概念があるがゆえに、男性と女性それぞれに対し、同じように期待される振る舞いというものが存在するのである。


もともと非異性愛者がどのような規範と格闘しているかを説明するために考えだされた用語であるが、すぐにジェンダーの議論とトランスジェンダーの議論にも取り入れられた。ポストモダン主義、フェミニズムの議論においても、しばしば用いられる。この概念を用いる人は、セクシュアリティに二項対立的な考えを抱く人々に、明白な例外?両方の性別の性的特徴を備える、ウシの世界におけるフリーマーチンから、インターセックスの人間まで?が現れたときどんな困難が引き起こされるかを、絶えず指摘する。このような例外は性別もジェンダーも、二者択一の公理に換言しうる概念ではないということの、率直な証拠として持ち出されるのである。


ヘテロノーマティヴ社会では、1人の人間の性自認は男性か女性かの二者択一になっているゆえに、人が性役割と性的アイデンティティを選ぶことは不可能である、と考えられている。また、2つのジェンダーに対し、社会によって定められた規範の1つは、個人は異性のパートナーに対してのみ、欲望を抱き表現すべきであると要求されることだ。E.セジウィックEve Sedgwickの研究では、例えば、このヘテロノーマティヴな組み合わせは、性的指向を人間がセックスをするために選ぶ人の性別とジェンダーに基づいて排他的に限定し、人がセックスをめぐって持つであろうその他の嗜好を無視していると考えられている(注9)。
(注9)E.K.セジウィック『クローゼットの認識論』(isbn:479175722X)

2.ヘテロノーマティヴィティの有益な側面


多くのクィア理論家の見解にもかかわらず、ある人々は、ヘテロノーマティヴィティは社会に有用であると考える。『National Review』の寄稿者Maggie Gallagherは、クィア理論においてヘテロノーマティヴと考えられている社会構造は、子どもを育てるためには最良のものだと論じている(注10)。カナダの倫理学者Margaret Somervilleは、この視点に同意している。彼女は、結婚や家族関係に関する非ヘテロノーマティヴな見解は、親であることをその生物学的な基盤から切り離すため、不自然であろうと考えている(注11)。
(注10)October 20, 2005 - The Volokh Conspiracy

(注11)Margaret Somerville - In Conversation.......: Presented by The Bob Hawke Prime Ministerial Centre at UniSA. In association with Melbourne University Press - 21 May 2007 - The Bob Hawke Prime Ministerial Centre

3.ヘテロノーマティヴィティと家父長制


ヘテロノーマティヴィティは、しばしば強い家父長制への連想を伴う(時には混同されることすらある)。しかし、家父長制システムは、必ずしもジェンダーの二分法的システムに限定されるわけではない。家父長制は単に、男性ジェンダーを、人数の多寡は問わず他のすべての上に特権化しているのである。
それでも、ヘテロノーマティヴィティはしばしば、家父長制社会を支える柱の1つと見なされる。男性の伝統的役割は、ヘテロノーマティヴな道徳観、規則、さらには人間を外見的な性別や、彼ら彼女らがその社会で正常と見なされる性役割への適応を拒否するかどうかによって弁別する法規によって、強化され維持される。したがって、フェミニズムは、ヘテロノーマティヴィティと、それが女性に適用してきた古い慣習との格闘に関係していると見なすことができるのである。

4.現代のヘテロノーマティヴな核家族


こんにち見られる家族構成はしばしば、1950年代に典型的であった構成とは、著しく変化している。ある人々は、私たちの世界が絶えず変化していること、メディアの内外で人々がどのように核家族の規範の外部にある異なるタイプの家族とともに暮らし、経験しているかということをもって、ヘテロノーマティヴィティは過去の用語だと論じるかもしれない。Amy Benferは、論文「槍玉に挙げられた核家族(The Nuclear Family Takes a Hit)」で、私たちの現代社会がどのようにして過去から変化し始めているかを詳述している。「あらゆるものが変化した。過去30年間で、離婚率、シングル親、同棲の率は、急速に上昇した(Benfer)」(注12)。現代家族は、離婚や別居によってシングルの親を戴くようになった家族、結婚せずに子どもを持つ家族、同性の両親を持つ家族を擁している。家族の変容にともない、夫婦とは、厳格に子どもを持つために関係を結んでいる男性または女性である必要はなくなっている。人工授精、代理母、養子縁組などの進展により、多くの家族が、子どもを持つためのヘテロノーマティヴな男性と女性の生物学的結合によって形成される必要がなくなっている。これにより、ヘテロノーマティヴィティと家族の意味は、将来さらに変化するだろう。より多くの異性愛者が結婚の中でともに暮らすことを拒むか、そうすることができなくなり、より多くの同性愛者が結婚する権利のために戦うにつれて、「ヘテロノーマティヴな家族」と私たちが考えるものの中に、徹底的な変化が起こるかもしれない。
(注12)Benfer, Amy, “The Nuclear Family Takes a Hit”- June 7, 2001 - Salon.com

5.現代のヘテロノーマティヴィティ


現代のヘテロノーマティヴ社会において、女性が同等の男性と一緒に働きに出ることは、よりやりやすくなっている。女性にとって、男性と結婚し、彼と子どもをもうけ、育児のためにしばらく仕事を休むことは、当たり前のことである。ヘテロノーマティヴな男性は、今日の社会で、いまだにほとんどの金を稼いでいるが、子どもの世話を手伝う時間も増えている。男性と女性役割のあいだにあるギャップは減少し始めているが、それぞれのジェンダーにより当たり前となっていることの間には、いまだにいくらかの隔絶がある。


ヘテロノーマティヴィティのような基準が設けられていると、人間は「正常」という考えが自身の現実と異なるとき、孤独を感じるようになる。ヘテロノーマティヴな考えに同化しないかぎり、人間は自分の地位を危ういと感じるだろう。ゲイ男性やレズビアン女性が他の人間と関係を持つと、社会は通常、彼または彼女を恋人loverかライフパートナーlife partnerと呼び、ボーイフレンドやガールフレンド、夫や妻とすら呼ばない。すべての人間が異性愛者ではないと理解されている社会でも、非異性愛者に対しどうするのが適切かを見分けることは、いまだに難しい。アメリカ社会において、男性が男性の友人のことをボーイフレンドだと言うのは不自然なことである。人にゲイと思われる恐れがあるからである。女性にとっては、女性の友人を、彼女がレズビアンであるという含みなしにガールフレンドと呼ぶことは、より自然にできるのだが。ある人々は、依然として非異性愛者のライフスタイルを快く感じていない。ある人々は、異性愛者が動かす社会で、非異性愛者が苦しんでいる困難を理解し始めている。世界の絶え間ない変化によって、社会はヘテロノーマティヴではない生き方により敏感になってきており、異性愛者ではない人間がこの社会で生きることがどれほど辛いことでありえるかを、理解している。それは非常に痛みに満ちたものになることもあり、何らかの憎悪犯罪や、どこにも属し得ないという切迫した感情へとつながるかもしれない。Yolanda Dreyerは、この苦痛を次のように示す。「異性愛主義Heterosexismは、偏見、差別、いやがらせ、暴力につながる。それは恐怖と嫌悪によって引き起こされる(Dreyer 5)」(注13)アメリカの主流のメディアは、最近になって、異性愛者たちとは直接関係ないエンターテイメントを作成してきている。2005年の映画『ブロークバック・マウンテン』は、ヘテロノーマティヴな文化では定型的ではない愛を分かち合った。ステレオタイプの女性的なゲイ男性の物語ではなく、互いに愛し合ったが、体面を保つためにそれを秘密にしておかねばならないと感じた2人の男の物語である。Boxofficemojo.comは、『ブロークバック・マウンテン』は「2005年の最も印象的なbox office作品」の最高のものだったと宣言している。サイトの著者Brandon Grayが、「単に時の映画であるという以上に、この映画は、記録的なライブアクションムービーの劇場平均の最高点を稼いだあとも反響があった(Gray)」(注14)。

(注13)Dreyer,Yolanda. “Hegemony and the Internalisation of Homophobia Caused by Heteronormativity”>(PDF), Hervormde Teologiese Studies, Vol. 63, No. 1 (2007), pp. 1-18.

(注14)Gray, Brandon, “‘Brokeback Mountain’ most impressive of Tepid 2005”, Box Office Mojo, LLC. 25 February 2006.

6.ヘテロノーマティヴィティの社会・政治的徴候


ヘテロノーマティヴィティという概念を例示するものとしてしばしば指摘されるものは、歴史的にも、現代社会においても、数多くある。例えば、E-harmonyデート・サイトやValtrex性器ヘルペス薬のアメリカのコマーシャルは、異性愛のカップルのみを大々的に扱っている。

インターセックス

インターセックスは、男性か女性かはっきりしない生物学的特長を持つ。そのような症状が発見された場合、インターセックスはほぼ常に、生後間もないうちに、1つのジェンダーをあてがわれる。曖昧ではない男性または女性の身体を作るため、しばしば手術(通常、外性器の部分的な改造を含む)が、当人ではなくその両親の同意のもとに行われる。子どもは、それから通常、決定されたジェンダーの一員として育てられ教育されるが、そのジェンダーがその子らの一生の性自認や、そのままになっているなんらかの性的特徴(例えば遺伝子や内性器)に一致するかどうかは分からない。


こうした干渉を蒙った人々には、彼ら彼女らがインフォームド・コンセントを与えることが出来る年齢で相談を受けていれば、これらの外科手術的、社会的な干渉を拒むことができたと、異議を訴える人がいる。


ジェンダー理論家は、インターセックスのジェンダー決定は、生物学的な現実が、実のところ性別・ジェンダーの二分法を維持するために否定されているという、ヘテロノーマティヴィティの明白な事例だと論じている。[要引用]

ゲイ、レズビアン、バイセクシュアル

レズビアン、ゲイ、バイセクシュアルとしての行動は、一般的に、多くの社会において、社会的にも法的にも承認されていない。多くの人が、これは、それ{同性愛行為}が性的関係は第一に再生産の手段のために存在しているというヘテロノーマティヴな立場に挑戦しているからだ、と論じている。セックスが公の視線から少なくとも消滅するほどに抑制されえない場合{?}、ゲイ男性が本当の「男性」ではなく、強く女性的要素を持つ(逆もしかり)、または非異性愛的なパートナー関係には、常に「男性的」(能動的)、「女性的」(受動的)なパートナーが存在するという認識は、助長されると言われる。これはある場合には、同性愛者を{そのように行動するように}その気にさせるほどにまでなり(1960年代、70年代の欧米)、(1980年代、90年代の南アフリカでは)彼ら彼女らの性別・ジェンダーを「固定」するために性転換手術を受けることを強いられまでした。[要引用]

トランスジェンダー

トランスジェンダーは、しばしば性再判定の治療を求め、ゆえに曖昧ではない女性または男性の身体のみが存在するという前提をかき乱す。彼ら彼女らは自身の身体とつながった性自認を発達させない。実のところ、ある人々は、単純に男性または女性という性自認を決して持たないのである。しばしば、彼ら彼女らは、自身にあてがわれた性役割に従って行動しない。ある社会では、トランスジェンダー的な行動は、厳罰に値する犯罪と見なされている。サウジアラビア(注15)やその他多くの国が、そうである。しかし、トランスジェンダーは非西洋諸国では受け入れられないというステレオタイプ{な見かた}は、完全には正確ではない。−キューバとイランの政府は、現在はトランスの人々の異性愛主義的なモデルの枠内での性別適合手術に資金を投じている(すなわち、その性自認で異性愛者となる人々のみ)。一方、合衆国のトランスの人々は、ジェンダーに関わる手術への医療保険の適用をめぐって戦い続けている。他の国では、検事や陪審が、殺害や暴行を行った人々の取り調べや訴追、有罪宣告を拒否するとき、トランスジェンダーに対するある種の暴力が、暗黙のうちに是認されている(現在、北米の一部地域とヨーロッパにおいて(注16) (注17))。他の社会では、トランスジェンダー的な行動は、病院への収容が十分に正当化される精神医学上の病気であると考えられてきた。
(注15)Saudis Arrest 5 Pakistani TGs - Posted Sept 28 1998 - From All Over: GenderNews

(注16)Remembering Our Dead

(注17)SPLCenter.org: 'Disposable People'


トランスジェンダーがジェンダーに関わる医療処置を受ける可能性に制限をかけることは、ヘテロノーマティヴィティに負っている( Transsexualismの項目を見よ)。これらの制限を伴う医学界では、患者はトランスセクシュアル的行動を抑圧し、彼ら彼女らの生まれつきの性別の規範に順応する(社会的な烙印や、暴力を避けるために必要である)か、性別適合手術とホルモン治療の資格を得るため「新しい」性別の規範に厳格に従うという選択肢を持つ−もし何らかの治療がとにかく提供されるのであればだが。[要引用]これらの規範には、服装や癖、職業選択、趣味の選択、友人 (異性愛が必須) のジェンダーが含まれるかもしれない。[要引用](例えば、トランスの女性は「男らしい」仕事をより「女らしい」ものと取り替えることが期待されるだろう−例えば、弁護士の代わりに秘所になるなど)。曖昧な、あるいは「オルタナティヴな」ジェンダーになろうとする試みは、支持されず許されないと思われる。[要引用]一部の医学界は、特に1990年代以降、より行き届いた実践を行うようになっているが、多くはまだそうなっていない。[要引用]


多くの政府や公的機関も、人間を問題のある方法で「男性」「女性」ジェンダーに分類するヘテロノーマティヴなシステムを持っていることが批判されてきている。[要引用]さまざまに異なる領域で、性器やDNA、ホルモン・レベル(一部の公的スポーツ団体を含む)、生まれた時の性別(すなわち個人のジェンダーは公的には決して変更不可能である)などのさまざまに異なるジェンダーの定義が用いられている。[要引用]性別適合手術はしばしば、法的なジェンダー変更の必要条件となっており、インターセックスやトランスジェンダーの人々にとってさえ、可能な選択肢は「男性」「女性」のみである。[要引用]ほとんどの政府が異性婚のみを認めているため、公的なジェンダー変更は、子どもの養育権や相続、医療の意思決定など、関連する権利や特権に影響を及ぼしうる。[要引用]

7.ヘテロノーマティヴィティの概念をめぐる論争


「ヘテロノーマティヴ」というラベルに対する抵抗は、ある構造をヘテロノーマティヴだと描くことが、規範的normative な構造は本質的に悪であるということを言外に示唆しているのだと思われているところから来るのであろう。ヘテロノーマティヴィティの概念に関する最もよく見られる批判の一つは、それが政治的な正しさを求める意思の表れに基づいている、というものだ。その一例が、2005年3月11日付FOXニュースのScott Norvellによる論説記事に付された注釈である。この論説の一部は、女優Jada Pinkett Smithがハーバード大学で行ったコメントをめぐる論争に関するものであり、その論争を「政治的に正しいバカバカしさnuttiness」と表現していた(注18)。このような批評は、このように慎重に選ばれた言葉づかいや用語を用いることは一種の言論抑圧であり、重要な概念を明瞭に表現することが知的エリートの言論に課された政治的に正しい規制によって妨げられていると言外にほのめかしている。[要引用]しかし、この批評は、現在の社会構造がヘテロノーマティヴであると表現する人々[誰か?]は、性別・ジェンダーは自然に二項対立的である基本的な前提を切り崩そうとしているという考えを代表している。[要引用]批評家たちのもう一つの関心事は、ヘテロノーマティヴィティへの批判が、自然法や特定の宗教概念への訴えかけなど、ヘテロノーマティヴな社会構造のいかなる弁護をも実際的な意味のないものにしてしまうということである。[要引用]そのような人々は、実際に、ヘテロノーマティヴな構造からの逸脱(例えばLGBTI−レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダー、インターセックス)を、異常、病的、反道徳的と見なしているのかもしれない。[要引用]ゆえに、社会構造がヘテロノーマティヴだと描写され批評されるとき、それは構造そのものに対する批判としてのみならず、その基礎をなす、構造の正常性normalityと妥当性appropriatenessを正当化する宗教的・哲学的弁明も批判されていると見なされるようだ。[要引用] ヘテロノーマティヴな姿勢を身につけた人々の、ヘテロノーマティヴな経験を離れた個人や集団に対する対応は、寛容、憐憫、敬遠から、これらの集団の人々に正常さnormalcyを獲得させるため思いやりのある、あるいは強制的、あるいは暴力的な方法で支援しようとする試みまで、さまざまである。Jada Pinkett Smithの演説のように、ヘテロノーマティヴィティという思考をさらに社会的言説の目立つ場へと引き込んだ出来事は、必ずしもそのような扱いを代表しているわけではない。Pinkett Smith氏のコメントは、かならずしもホモフォビックではなく、LGBTIの人々に対する積極的な批評を示してはいなかった。しかし、彼女のコメントは、正常な関係とは男女の間に生じる関係のみであるという前提を作り出すヘテロノーマティヴなものであった。彼女のコメントをヘテロノーマティヴであると語った批評家たちは、「私たちの立場は、あのコメントはホモフォビックではないが、その内容は男女関係に特殊なものだった、というものだ」と語っていた(注19)。

(注18)Heteronormative Harassment, No Ladies Allowed - March 11, 2005 - FOXNews.com

(注19)Pinkett Smith’s Remarks Debated: BGLTSA calls comments “heteronormative,” pledges to work with Foundation - March 02, 2005 - News - The Harvard Crimson


参考文献

  • Lovaas, Karen, and Mercilee M. Jenkins, "Charting a Path through the 'Desert of Nothing'", Sexualities and Communication in Everyday Life: A Reader, Sage Publications Inc., 2006(isbn:9781412914437).

関連文献

  • Judith Butler, Bodies That Matter: On the Discursive Limits of "Sex",Routledge, 1993(isbn:0415903661).
    • 最終章(Critically Queer)邦訳:ジュディス・バトラー/クレァ・マリィ訳・解題「批評的にクィア」『現代思想』25(6)(総特集 レズビアン/ゲイ・スタディーズ)(isbn:4791710177), 1997, pp.159-177.