子どものサバイバル


地下生活の恐怖ーspongey


うわああ・・・。
「一生地下で暮らすキャンディーズ」のために恐怖したspongeyさんの気持ちは、僕もすごく分かる気がする。
僕も子どものころ、似たような記憶がある。
なんだったのか忘れたが(←って、憶えてねえじゃん)、TVだったと思うが、美人のタレントがその美しさのためにあれやこれや努力や工夫をしている、なんでも体も改造したらしく、「頭を外すことができる」と言ったのに、たしか幼稚園児だった僕は愕然とした。


実際には、彼女が身につけたアクセサリーの「ここが外れてこうなる」みたいな話をしていたんじゃないかと思うが、僕が想像したのは、言うまでもなく、そのあまりに人工的に美しい美人の首がクルクルと回ってスポッと外れる姿だった。
美しくなるための人体加工の恐ろしさ、それを平気で褒めそやしている周囲の大人たちの冷酷さに、僕は自分が生きてゆかなければならない恐ろしい世界の深淵をかいま見たような気がした。


いや、これはもちろんキャンディーズの地下生活と同じ「勘違い」で、ただの笑い話なんだけれど。


恥ずかしいけど、「○○は子ども心におかしいと思っていた」「大人がこう言っててもぜーんぜん信じなかった」ということを言える人に、僕は嫉妬してしまう。僕は、大人の言うことは何でも信じてしまう子どもだった。


たとえば、僕が育った家はわりとスパルタンで、「誰の金で以下略」「誰に食わせて以下」「気に食わないなら出て行け!出て行って死ね!」という決め台詞がバンバン飛び出すステキ家庭だった。最後のやつは特に効果てきめんで、「ああ反抗して家を出たりしたら僕は瞬時に死ぬんだ」と僕はもの凄くリアルに信じていた。父のうるさい説教から逃げ出す自分を想像したりすると、次のコマでは道ばたに横死してひらーと枯れ葉が上に散っている自分が見え、海が見える丘の上にぽつんと立つ苔むした無縁仏の自分の墓までがまざまざと思い浮かぶのだ。
妙にあざやかに記憶に残っているのだが、小学校3年か4年のころだったと思うけれど、そんなふうにとーちゃんが厳しいよという泣き言を、一度だけ友人に漏らした。すると友人は、「じゃあ家出すればいいじゃん!」と怒ったように言った。僕は、そんな選択肢を友人が当然のように口にすることに驚愕した。だって、家出したら死ぬんだよ!死んじゃうんだよ!


まあ、「死ね!」は極端な(いささかズレた)例かもしれないけれど。
「子どもの考え」には、そういうところがあるんじゃないか。


「子どもはなんでも信じてしまうから」
信じることの内容にもよるだろうけれど、別にこどもはいつもただ「なんでも信じる」わけじゃない。
恐ろしい、と思うのだ。キャンディーズが一生地下に閉じ込められるなんて、頭が外れるなんて、ひどい、そんなのおかしい、こわい。
でも同時に、どんなに怖くても、ひどいと思っても、それが世の中なのだから、仕方がない。がまんして受け入れなければならない。そう思って、信じるんじゃないだろうか。
子どもにとって、外から突きつけられた不条理と、自分の恐怖のどちらに理がある?と言えば、それは不条理のほうに決まってる。だって、たとえ不条理でも、自分にそれを覆すことのできる力があるというのか。


それはサバイバル術なのだ。漠然とでも、無意識でも、子どもは自分が弱くて、生殺与奪権を他人に握られていることを知っている。だから、どんな不条理に遭遇しても、適応の道を選ぶ。世の中にはきれいな女の人の頭が取れてしまうようなこともあって、それはとても恐ろしいけれど、そう言われているんだから、大人や兄やTVがそう言っているんだから、仕方ないんだ。子ども時代というのは、そんな憂鬱の連続だったような気が、僕はする。


「子どものほうが時として大人より残酷で保守的だ」
と聞いたことがあるし、僕もそう思うことがある。
でも、子どもは生きてゆくためにこそ、貪婪に保守的な考えを学び、一生懸命残酷さを心に植え付けようとしているとも、言えるんじゃないか。
「大きくなったらお嫁さんになりたい(女の子)」「男みたい女はヘン」「おかまは気持ち悪い」「ほーむれすのこじきは汚い」と子どもが言ったとする。そう言うときの子どもの心境はいまでは分からないが、そう思えたほうが現在の世の中、生きやすいことはたしかだ。


実際には、お嫁さんはつまらなそうと思ってもいいし、「おんな」が「おとこ」みたいでも少しもヘンじゃないし、おかまは気持ち悪くないし、兄貴の学生服や親父の背広だってえらい汚い。
だが、
「ぼくもだいすきなA ちゃん(男の友人)といっしょにくらしたいからかりやざきさんみたいなおかまになりたい」とか「わたしはほんがすきだからいちにちじゅう図書館でほんをよめるほーむれすがうらやましいな」
と言ったら、どんな制裁を受けるか分からない。少なくとも、教育的指導は入るだろう。これは「勘違い」ではない。十分ありえる発想であり言論であり現実なのに。


子どもがごはんを食べて平穏無事に生きてゆくためには、言論の自由や思想の自由は極めて限られている。子どもの世界は、そんな恐怖と諦めに満ちているような気がする。


子どもが必死のサバイバルで身につけるものが、ときにものすごく保守的で残酷なものになるということに、大人は驚愕したほうがいいんだろう。



 わたしがこんな想像をしてるとは知らないおにいの答えは「キャンディーズ解散でも特に何も変わらないでしょ」程度の意味だったでしょうが、わたしにとっては「世間の決まりごとは異様だけど、決まり事だから問題にもならず、諦めるしかないんだ」という恐怖の念を抱かせるものでした。
 キャンディーズと聞くと、そのときの衝撃が甦ってきます。3人ともいまも地上で楽しく暮らしてらっしゃるようでヨカッタ。  
 わたし、いまは別の「異様な決まりごと」のせいでツライ思いをしてますが、これも勘違いであって欲しい、、、


spongey