4月12日NHK教育「一期一会」を視た


随分前の話になってしまったけれど。
ゲイリーマンのカミングアウト的思考さんが紹介されていた、4月12日NHK教育「一期一会:キミにききたい!」(4月15日(火)再放送)を視た。


一期一会:キミにききたい!



一般公募で選ばれた若者“イチゴくん”が、正反対の考えを持つ若者“イチエ”さんの「現場」を訪問。お互いに異なるライフスタイルや異文化を肌で感じることで、2人の若者がどう変化していくのか、価値観の壁を乗り越えられるのかを追う“出会い旅”の番組です。


化粧をしない女の子の話@女子大生モデルの生き方


今回の“イチゴさん”大貫由佳は、社会人2年目を迎えた会社員。普段から化粧をせず、会社にもすっぴんで通っている。化粧をしない自分はヘンなのか、同世代の女の子に話を聞きたいと番組に応募した。
由佳と相対する“イチエさん”は、ギャルに人気のファッション誌でモデルを務める現役女子大生の椿姫彩菜性同一性障害を抱えて生まれた彩菜は、せっかく女の子に生まれたのだから化粧を楽しまなければもったいない、と考えている。
「化粧」をめぐる一期一会。化粧をしないイチゴさんの考えにどんな変化が生まれるのか・・・。


内容は、だいたい以下のような感じだった。
(記憶があっという間にウロオボエ化しつつあるので、誤りもあるかもしれない。)


イチゴさんは、IT関連会社に勤める社会人2年生。
22歳になるまで、化粧をしたことがない。
化粧より、漫画やゲーセンが好きなオタクである。
しかし、周囲の化粧をしている女性たちは気になるし、自分も化粧してみたくもある。
自分のように化粧をしないのはおかしいのか、
化粧の上手な女性に会って話をしたいと番組に応募。


そしてイチゴさんと「対極にある」相手として、性同一性障害であり、現在女子大生モデルとして活躍するイチエさんが選ばれる。


イチゴさんの部屋をイチエさんが訪問する。
イチゴさんは、
「自分はオタクだから」
と化粧してこなかった理由を説明し、
女の子的なものに抵抗がある、と化粧を躊躇うが、同時に化粧に憧れているらしき心情を、イチエさんに語る。
イチゴさんは、化粧をする生活を指して「女の子の世界」と呼び、「キラキラした女の子の世界」に入れない、と言う。


対してイチエさんはイチゴさんに、性同一性障害の自分がどれほどメイクをしたかったかを語る。
中学生の頃からメイクをはじめたが、家族に隠れてしなければならなかったこと。
「私はスタートラインがマイナスだった」と言うイチエさんは、せっかく女の子に生まれたなら化粧をしなければ勿体ないと言い、
イチゴさんに化粧をしてやる。


イチゴさんはイチエさんのことを、
「(性同一性障害のイチエさんはあんなにきれいに化粧しているのに、)マイナスでもない自分は…」と感想を述べる。


イチエさんは、イチゴさんについて、
「昔の自分に似ている」
と感想を述べる。


別の日、
イチゴさんとイチエさんは、
今度は大学時代のイチエさんを支えてくれた友人を交え、
再び会う。
友人は、大学時代のイチエさんが、性同一性障害に対する周囲の視線や無理解に苦しめられ、自己否定に陥っていたことを語る。
イチエさんは、
「イチゴさんが自分のことを『オタクだ、オタクだ』というのがキライだった。
昔の(自己否定的な)自分を見ているようで」
と言う。
頷くイチゴさん。
イチエさんは家を出てニューハーフクラブで資金を稼ぎ、性別適合手術を受けた。
性同一性障害であることも明かしてモデル・デビューしたとき、多くの共感メッセージが寄せられた。
性別適合手術を家族に反対され、戸籍を抜いて実行したという話に、
「勇気がある」
と感じ入るイチゴさん。


別の日。
イチゴさんは化粧をして、渋谷へイチエさんに会いにゆく。
イチエさんはイチゴさんに「女の子の楽しみ」を楽しんでもらう。
行き付けの美容院、ネイルサロン、ブティックなど。
「(女の子の世界の)扉が開いた」
「入っていいんだなと思った」
と嬉しそうなイチゴさん。


イチゴさんは、自分が化粧をしなかった理由を、さらに過去へ遡って語る。
イチゴさんは小学校のときいじめに会い、クラスで孤立させられた。
そのときから、「皆の中には入ってはいけないのだ」と思う気持が、高校生の頃まで続いた。
そんな気持ちのために、化粧をする(「女の子の世界」へ入る)ことができなかったのだ、と、少し涙を見せて語るイチゴさん。
イチゴさんを励ますイチエさん。


イチエさんの撮影現場を見学したイチゴさんは、
イチエさんに別れを告げ、
元気に帰ってゆく。


・・・・・・・


イチゴさんは、化粧に疑問を持っていたというより、実のところ化粧をしたいと望んでいたので、このシリーズの「価値観の壁を乗り越える」というテーマとは、ちょっと違う内容だった(つまり、2人の価値観ははじめから同じだったといえる)。


「女の子らしくしたかったのに、仲間はずれの経験から『自分は皆の中に入ってはいけない人間だ』と思ってできなかった」というイチゴさんの最後の述懐は、イチエさんの「化粧をしたいのに、男の体をしているから、隠れてしなければならなかった」経験と重なり合うことが示唆されているのだろう。


正直、↑こういう部分のストーリーラインがちょっと明瞭すぎ、2人の本音のぶつかり合いのドキュメンタリーというには、制作側が作ったシナリオが影響しすぎなんじゃないかと、邪推しないでもなかった。が、仮にそうでも、2人の意志に反するものじゃあるまい。


女性の化粧や化粧で表現する「女の子らしさ」について、当事者の女性(トランスジェンダーではないネイティヴ女性やMtFトランスジェンダー)がどのような気持ちを持っているのか、僕には分からない。


化粧がしたいのに何かひっかかりのあったらしいイチゴさんが、自分の望む生き方を苦闘のすえにつかみ取って化粧を楽しむイチエさんに触発され、化粧や「女の子の世界」を楽しめるようになったのなら、意義ある一期一会だったのだと思う。


そう思いつつも、僕はこの番組を見ながら、何かが引っかかり続けていた。


イチエさんは自分のことを
「スタートラインがマイナスだった」
と言った。
イチゴさんは、「スタートラインがマイナス」でありながら女の子らしいイチエさんに感嘆し、そのために行動した彼女の勇気を讃えた。


性同一性障害による性と身体の不一致を,当事者がどう捉えるかは、さまざまなのだろうと思う。


僕がひっかかったのは、ネイティヴ女性のイチゴさんが「スタートラインがマイナスなのに(女の子らしくて)」「(性別適合手術のために戸籍離脱をするなんて)勇気がある」と"賞賛"するとき、なぜそんな努力や勇気をイチエさんが強いられなければならないのか、ということが、問われていなかったことだ。


イチゴさんのイチエさんへの賛嘆のまなざしを見ながら、僕は「パスとリード」というトランスジェンダー用語を思い出していた。



パス pass
トランスジェンダーについて、社会的に望みの性別で通用し、もとの性別、あるいはトランスジェンダーであることを他人に悟られないこと。


リード read
 トランスジェンダーについて、もとの性別、あるいはトランスジェンダーであることを他人が見破ること。


Makiko T's Website - ジェンダー・セクシュアリティを理解するための用語集 


性別違和を持つトランスジェンダーの生は、僕には想像できないものだ。ただ、「パス/リード」という用語に僕は、トランスジェンダーが望むジェンダーで生活しようとするとき、それがどれほど他者の視線に侵害されなければならないか、ということを教えられて、驚く。


「でも、トランスセクシュアルの人たちは、受動的に「読まれる」だけの本のようなものではない」。macskaさんは、トランスジェンダー用語としての「リードされる」は、より正確には「ライトされる(write、書き込まれる)」のはずだ、と言う。



例えパスしていなくても、自分にとっての自己認識はこうだと主張しているトランスセクシュアルの人たちに対し、わざとそれとは違った属性を「書き込む」行為の暴力性が、「リード」という言葉ではきちんと示せていないと思う。
(略)
「リードされる」を「ライトされる」と言い換えてみると、本人の意志に反したジェンダーをライトされているのはなにもトランスセクシュアルの人に限った話ではない。性役割分担が政治的・経済的に強要されることだって、特定の「男らしさ」「女らしさ」のあり方が押し付けられることだって、本人の望まないジェンダーが「書き込まれている」ことであると言うことができるし、その暴力性もはっきりと示せる。


macska dot orgー「パス」と「リード」:トランス業界における奇妙な方言について


外面的なジェンダー表現だけによる識別では、イチエさんは完全に「パス」なのだろう。いや、トランスセクシュアルだと明かしているのだから、この場合は「パス」と言わないのかもしれないが、彼女がいかに「女の子らしい」女性であるかは、イチゴさんの賛嘆の視線からも、番組の進行ぶりからも、伝わってくる。


だが、イチエさんの完璧な「パス」を見つめる賞賛の"視線"は、同時に、「パス」しない人に望まないジェンダーを暴力的に書き込む"視線"でもあるのではないか。


そもそも、イチゴさんは、なぜ化粧をしない自分を、「ヘン」だと思っていたのか。イチゴさんにそう思わせていたのは何なのか。


そう、この番組では、化粧というジェンダー表現を通して、イチゴさんとイチエさんが"ジェンダーを書き込む視線"に対峙しているということが、消されているのだ。


いや、実際には、"視線"はチラッと出てくる。
性同一性障害に苦しんでいたイチエさんの学生時代の同級生の述懐の中で、イチエさんの周囲の友人たちが「男?女?」と惑う視線を向けていたということが、少し語られる。
が、その視線は追求されることがなく、その視線に苦しめられていたイチエさんが単にネガティブであり、彼女がそのネガティブ状態から脱したことが、立派に賞賛されるだけである。



***********


ところで、僕がこの番組が気になったのは、この番組の設定に、昨今の「オネエブーム」に似通ったものがあるんじゃないか、と感じたからだった。


オネエ言葉と身振りを持つオネエ系のゲイキャラがメディアで消費されるのは今に始まったことではないが、最近のオネエキャラ消費は、おすぎとピーコの時代とかなり違う、と感じている人は、他にもいるんじゃないか、と思う。
そのあたりの傾向がはっきり出ているのが、『オネエMANS』だろう。
日本テレビー超未来型カリスマshow:オネエMANS


『オネエMANS』の「オネエ」は「男なのに男じゃない、女よりも女らしい超未来型人類」だそうだが、ゲイやMtFトランスジェンダーやニューハーフやオネエ言葉のノンセクシュアル的男性を、無知からというよりたぶん確信犯的に一括し、"男でもなく女でもない"または"男であり女"なジェンダー越境者と見る、それが「オネエ」らしい。
らしい、というのは、こうした「オネエ」は僕なんかがゲイ文化の中で知っているオネエとは、随分違うからだ。
もちろんゲイ文化の中のオネエ文化やトランス文化が背景にあるのだが、そこから切り離すか関係を曖昧にぼやかすかして、ノンケの消費対象として再解釈された「キャラ」ないし「新(?)・擬似的ジェンダー」が、今のメディアの「オネエ」じゃないか、と、僕は感じている(違うかもしれないけど)。


アメリカでは「ゲイはファッション・センスが良く生活を楽しんでいる」というステレオタイプを利用して、ゲイの「カリスマ」集団が活躍するリアリティ・ショウ『Queer Eye』がアタリを取ったが*1、そちらで強調されたのがゲイという性的指向のマイノリティだった。
一方、日本の「オネエ」は、むしろセクシュアリティは曖昧にぼかされて(ないしは、そこには口を噤んで)いる。強調されているのは、そのジェンダー表現だ。id: discourさんは、『オネエMANS』を「「同性愛者」であることと「正しいジェンダー」を持っていないこととが混同されていることに乗じた番組」と評している(ジェンダーとメディア・ブログーおネエMANSをみた・楽しんだ。だが、)。「オネエ」の規定は、結局、「男"なのに"男じゃない」という"性別二元論=「正しいジェンダー」からの逸脱"にあるのだろう。


こうした「オネエキャラ」には、たしかに魅力もある。というのは、ジェンダーはパフォーマンスだということを伝えているし、ジェンダーの真面目さを笑っているからだ。トランス文化のことは分からないが、少なくとも、ゲイ文化の中のオネエ、女装・ドラアグ文化は、「女性のパロディ」として発展してきた。


が、昨今の、IKKOさんその他の好感度キャラ的な「オネエ」の"好意的な"受容は、ネタをベタにするような方向に行っている。
「(女ではないのに)努力して『女らしさ』を磨いている」「女よりも女らしい」。
大して深く考えていない軽口のようなものだが、こんな言葉が、わりと真面目に、好意的な表現として言われる。
その典型と言えそうなのが、たとえばこういう記事だ。
Livedoorニュースー【独女通信】おネエに学ぶ、たくましくも麗しき女道


僕が大好きなLGBTミュージック研究サイトQueer Music Experience.の藤嶋貴樹さんは、IKKOさんについてのブログ・エントリで、「昨今のオネエキャラブームというのは本質的には『フェミニズムへのバックラッシュ(反動)の一変形』」と言っている。
ブログ版Queer Music Experience.−「どんだけ〜!の法則」を聴いてみた。


上のLivedoorニュースのコラムを見たとき、まず僕はこの藤嶋さんの言葉を思い出した。
藤嶋さんは具体的に、どういう、とは言っていないので、あくまで僕の考えに過ぎないけれど。もはや女性に負わせることはできない露骨な「女らしさ」の規範が、「女ではない」ことを免罪符におおっぴらに「オネエ」に負わせられ、それが「オネエ」の評価につながっている。
オネエやオカマが「オンナはね〜」とネタをかますのは今に始まったことではないのだが、なんだかネタがベタになってしまっているのだ。


これは、別の見かたをすれば、かつてはメディアのオモチャ、ヘタすりゃバケモノ扱いだった「オネエ」に対する昨今の好意的な評価は、彼らの「規範的であろうとする」姿に向かっているのではないか。


「男でもなく女でもない」オネエの規範逸脱性は、古風なほど「女らしさ」という規範を守っていることで、好意的に相殺される。


好意的に見れば見るほど、その"らしさ"が評価される。


結果、ジェンダーの境界を越境・攪乱しているはずの人たちが、「女らしさ」というジェンダーの境界をむしろ強化する旗ふり役にされる、という、おかしな事態になっている。


そして、『一期一会』のイチエさんに対するイチゴさんの感銘も、(少なくとも、この番組の作り方では、)結果として「オネエブーム」とほとんど変わらない線を辿ってしまっていたのではないか、と思う。


結局はバラエティのネタの「オネエ」と、性同一性障害を語っている真面目なドキュメンタリーを一緒にしてはいけないのかもしれない。が、底には似通ったものがある、という気がしたのだ。


つまり、規範からはじき出されてしまう者が、努力して規範に達することに対して、賞賛や好意が向けられる、ということ。
少しも暴力的ではないのだ。好意であり、共感である。でも、そこで異性愛中心主義/性別二元論は批判的に顧みられるどころか、ガッチリと生きている。


異性愛者/トランスジェンダーではないネイティヴの男女」を自明の「規範」として、性的少数者はその「規範」を一生懸命目指すものとして「感心」してもらえる、これは、ジェンダーセクシュアリティが多様なものだとする認識とは、真逆の方向じゃないか、と思う。
そこにはまた、別の不均衡もある。人目を惹くのは"女"になる"男"のみで、FtMトランスジェンダーやブッチ・レズビアンを「男らしさ」を磨くロール・モデルとして評価しようとする向きはない。「女らしさ」を強調すれば都合良く、「男らしさ」を強調すれば都合の悪い事情でもあるのかと思うが、「オネエ」という現象を通してゲイやMtFトランスジェンダーのタレントが消費される一方で、レズビアンFtMの存在は気味悪いほど無視され続けている。



化粧というテーマで対面した2人。
化粧で「女の子らしく」なることを敬遠し、そして化粧をしないことで周囲に引け目を感じてきたイチゴさん、
性同一性障害であったために、「女の子らしく」化粧をできる自分を手に入れるまで、周囲の無理解や偏見に苦しめられなければならなかったイチエさんは、
「女性に強いられ、また女性が深く内面化している『化粧』というジェンダー表現」
を問う2人であったと思う。


イチエさんは、イチゴさんの化粧をしないがゆえに感じるストレス(なぜ「女の子らしさ」を強いられるのか)を、自分が黒いランドセルを背負わなければならなかったストレス(なぜ「男の子の記号」を背負わされるのか)と比べることもできたのではないか。


イチゴさんは、周囲の偏見の視線を跳ね返して自分らしさを手に入れたイチエさんを「勇気がある」と思ったなら、同時に「化粧で女の子らしくしろ」という圧力を跳ね返してきた自分の勇気を思い出すこともできたのではないか。


イチゴさんが、化粧の達人のイチエさんとの出会いを通して、化粧やおしゃれを楽しむようになったこと、『女の子らしい』というジェンダーを"書き込まれる快感"を楽しむようになったのは、もちろんいい。でも同時に、
「化粧をしない女は女を捨てている」
「男/女らしく外見で『パス』できないトランスジェンダーは、奇異の目で見られても仕方がない」
といったジェンダーの"書き込みの暴力"にともに悩まされたという経験も、2人は分かち合えたかもしれないと思う。


この番組が、どれほど制作者のシナリオに縛られているのか、というのが気になるのは、こうした点である。
イチゴさんとイチエさんを出会わせながら、2人がともに経験した痛みや、ジェンダーを「書き込む」暴力と向き合って大勢のイチゴさんやイチエさんがいま抱えている痛みや納得の行かない疑念を、消去してしまっていたように思えたのだ。



「化粧」はそれをしたい人、ひとりひとりのイチゴさん、イチエさんの手にあるべきだと思う。


でも、そう口で言うのは易しい、とも思う。


そしてそれは、とりもなおさず、いろんなイチゴさんやイチエさんを見ている僕自身の目に、どんな暴力が潜んでいるかという問題なのだけれど。

*1:Queer Eye』も、「ゲイはファッショナブル」というステレオタイプを垂れ流し、「面白い・好印象のマイノリティは歓迎する(逆に言えば、マジョリティの好む印象を与えないマイノリティは排除され続ける)」という意識を再生産する番組だったと思うが、ゲイとノンケが協力するという「対話」の側面も描かれていたと思う。毎回のノンケとゲイのハグが印象的だった。