女性に安心なゲイ??


りょうた:映画に登場して、印象に残っているゲイについて、思い出すままに書いてみよう、としていたんですね。
りょうきち:そんなのもう世界中の人が忘れてるよ
りょうた:エエ、俺も忘れてました。
りょうきち:だいたい、ワールドワイドウェブでヘタを打つことになりかねないんじゃないの、物忘れと思い込みが同等に激しい男が。
りょうた:あやしいところは調べて裏取ったりするけど、基本的に記憶だけで書こうと思ったの。俺の印象が一番大事だからさ。でも、記憶が曖昧過ぎて、なんだか気になって、とうとう観直してしまった映画がありました。それほど好きな映画ってわけじゃなかったのに、わざわざ。
りょうきち:架空のゲイ1名のために、わざわざTSUTAYAに行ったのか。で、何の映画?
りょうた:ベルトルッチの『シャンドライの恋』(1998)。


シャンドライの恋(1998)?-?goo?映画


りょういち:ああ、あれね。しかし、いい映画だったのかな。絶賛も酷評も見た気がするけど。
りょうた:ずいぶん昔に観たんだけど、視姦映画という記憶しか残ってなくて。
りょうきち:視姦映画
りょうた:ローマに1人暮らすピアニストのキンスキーの邸宅で、住み込み家政婦として働くアフリカ某国出身の医学生シャンドライが、とにかく視姦されまくってる。まあおもに彼女に懸想するキンスキーの視線なんだけど、カメラが観客の視線も誘導してるっていうか、シャンドライが映るシーンはこれすべて、窃視か視姦としか思えない。
りょうきち:『シャンドライの恋』なんて邦題になっているけど、原題はBesieged(包囲されて)だっけ。政治犯で投獄された高潔な夫を持つ女が、自分のためにすべてを投げ出す別の男への愛に追いつめられるように囚われてゆく、という、まあ、ただのメロドラマとは少し違う雰囲気のあるストーリーだよね。
りょうた:とにかくシャンドライが性的な視線につきまとわれ、包囲され、逃げ場を失い、陥落=キンスキーのベッドに転がり込んでフィニッシュ、というプロセスが、なめまわすような粘着視姦映像で記録される、という…しかも、ヒロインのシャンドライがアフリカ人という、原作にないオリジナル設定が加えられているから、視姦の視線にオリエンタリズム的色まで滲んで、気が滅入るったらない。
りょうきち:ベルトルッチって、『ラスト・エンペラー』(1987)とか『シェルタリング・スカイ』(1990)とか『リトル・ブッダ』(1993)とか、東洋を撮ることに執着があるみたいだけど、アフリカやアジアにエキゾチシズムとエロしか求めない始末におえない極悪オリエンタリストなのか、あるいは観客の中に潜むそうしたオリエントへの視姦をえぐり出そうとするオリエンタリズム批判者なのか、よく分からんよな。
りょうた:まあ、そんな凄い変態映画みたいな印象だったんですね。ところが、観直してみると、それほどでもなかった。
りょうきち:やっぱりまた思い込みか・・・
りょうた:いや、それでも冒頭のあたりはかなり凄くて、そのあたりの印象が強烈だったらしい。でも、キンスキーがシャンドライの夫のために財産を手放し始めるあたりから、関係が変わってくるの。
りょうきち:キンスキーが獄中のシャンドライの夫を救出する資金を得るために隠れて家の財産を売り始める、家事をしているシャンドライが、雇い主の家の家具調度がどんどん減っていくのに気づく、そのあたりか。
りょうた:シャンドライもキンスキーを観察し始めるわけだから。一方的視姦じゃなくなる。また、シャンドライがキンスキーに惚れ始めてくると、もう和姦(?)みたいなもんじゃない?そうなると結局、後半はただのメロドラマになっちゃって、正直つまらんかった。
りょうきち:身もフタもないね。
りょうた:だいたい、気味悪いよ。ダメ男は自虐的に財産を売り払い続け、女は「男が隠れてアタシのためにすべてを投げ出してる!」と「愛されエクスタシー」に酔い、ジリジリとオーガズムが盛り上がる。かなり鬱陶しいです。シャンドライの夫を救うなら、シャンドライと一緒にやるべきじゃないか。シャンドライがバカにされてるみたいじゃない?シャンドライもそれを喜ぶなっつーの重荷じゃねーのかよ。男に貢がれるのがそんなに嬉しいか。だいたいキンスキーはアフリカ系キリスト教会に行って自己犠牲を決意する、キリスト教精神からの覚悟だったわけで、それに見返りを求めるなってーの。
りょうきち:そうとうイラだったね、こりゃ(笑)。
りょうた:キンスキーのシャンドライに対する献身には、「ヨーロッパのアフリカに対する謝罪」という問題が潜んでいるというか、ダブって見えざるをえないと思うのね。召使いの(つまり隷属した)女のシャンドライにキンスキーが性交を迫り、シャンドライが「なら夫を救って!」と絶叫する。キンスキーのクラッシックと、シャンドライの好きなアフリカ系ポップスが相容れない。夢のシーンは、気が滅入るよね。故郷の町で、夫を投獄した独裁者のポスターをシャンドライが必死で破ってゆく、でも、キンスキーに似たポスターは破れなくて、彼女のキンスキーへの屈服が始まっていることに気づく。
でも、その問題と組むつもりなら、簡単に片付けるな、と思う。男が惚れた女のために黙って全財産投げ出すとか、ちょっと曲をアレンジするとか、それにほだされた女がベッドでマスターベーションするとか、そんなのでチャラにされちゃったら、困るよ。
立場の違いと対立も征服される屈辱も配偶者への誠意も押し流してしまう、不条理なほどの愛と欲望を語るなら、そうすればいいと思う。でも結局、キンスキーの「献身・自己犠牲」やシャンドライの「そんな男に惹かれる恋心」が美化、正当化されちゃってて、つまらないメロドラマになっちゃってる。男を計る尺度は「金と誠意」しかないのかこの世の中。
りょうきち:知るか(笑)。で、肝心のゲイはどうなったの?というか、なんでわざわざこの映画のゲイをチェックしようと思ったわけ?
りょうた:あ、そうそう、それが本題でしたね。
りょうきち:ベルトルッチ映画の同性愛表現というと…
りょうた:『暗殺の森』(1971)ですね、なんといっても。
りょうきち:あ〜、やりきれなかったね、あれは。
りょうた:少年時の同性による性的暴行のトラウマが引き起こす悲劇で、レイプ、小児性愛の問題とも絡まり合った、同性愛のみの話じゃないけれど。傷から癒されない主人公が「強い完璧な男」であろうとファシズムにのめり込んでゆくところに、ホモフォビアのいびつさがかなり過酷に描かれていて、印象的でした。
りょうきち:他には?『ラスト・エンペラー』の、川島芳子と皇后婉容の同性愛シーンがあるか。
りょうた:あー、ありゃひどい。
りょうきち:夫が関東軍の傀儡に利用されるのにひとり疑問を感じていた婉容を、川島芳子が阿片とセックスで籠絡していた、という。史実で川島芳子が婉容に足なめプレイをしていたのかもしれんししていてもどうでもいいわけだが、「女性同性愛=退廃」「レズビアニズムはキモチイイからノンケ女性も心ならずも溺れてしまう」という通俗イメージそのまんまだったな。
りょうた:レズビアンをノンケ女性の誘惑者、レイパーとして描いて、その行為を覗き見して楽しむという、腹の立つパターンだったですね。
りょうきち:こう見るとベルトルッチ、数は少ないがそれなりに同性愛描写をしてきている作家なわけで、『シャンドライの恋』はそのワン・オブ・ゼムなわけだ。で、どんな同性愛者が出てきたっけ、あの映画には?
りょうた:ああ、それそれ。この映画えらく登場人物が少ないんですが、その少ない登場人物の1人がゲイなわけです。シャンドライのクラスメイトの医学生アウグスティンですね。キンスキーは英国人、シャンドライはアフリカ某国の移民ですが、アウグスティンは名前からして地元のイタリア人ですか。他の人間は背景みたいなもんで、実質登場人物はこの3人しかいないと言っていいかも。
りょうきち:俳優はクラウディ・アンタマリア。1974年ローマ生、『シャドライ』の時は24歳か。



from Europe Cinema Festival
IMDb - Claudio Santamaria
Claudio Santamaria
オフィシャルサイト:
Il sito ufficiale di CLAUDIO SANTAMARIA


りょうた:なかなかのイケメンですが、映画ではややアホの気のいい男、という演出でした。移民生活のプレッシャーに耐える健気なシャンドライが、このアウグスティンに対してはかなり暴君です。まさしく「女性が安心してつき合える気さくなゲイ友」と申しましょうか。
りょうきち:映画やドラマで、レズビアン・ゲイがノンケの「陽気な友人・よき相談役」の役回りをふられている、というステレオタイプだね。
りょうた:が、しかしですよ。この男がね、実は、思いもよらぬドンデン返しを起こす伏兵だったーと、僕は思ってたわけです、曖昧な記憶で。
りょうきち:曖昧な記憶で。ドンデン返し??って、ナニよ。
りょうた:つまりですね、この男、やたらシャンドライが好きでベタベタくっつき回るんですが、じつはゲイのふりをしたノンケであったと。
りょうきち:はあ????
りょうきち:いやね、シャンドライとアウグスティンの間で、「ゲイのくせに!」「君となら寝れる」というやり取りがあんですね。ところで、「女性を安心させるためにゲイのふりをして近づくノンケ」って、ホントに実在するんですかね?俺は都市伝説かなと思ってたんですが、昔、一緒に飲んでたオネエさんにそう言ったら「イヤー結構いるって!」と断言されたことがあって。でも俺は遭遇したことないんだけど、どーなんだろう。
りょうきち:知るか。そういう男は、ふつうゲイには用ないだろが。
りょうた:おお至言
りょうきち:で、なんでアウグスティンが、そんな回りくどい役じゃなきゃならないわけよ?
りょうた:いや、それがけっこう、この映画のキーポイントだったのではないかと思ったのです!
りょうきち:どういう?!
りょうた:つまりですね。シャンドライにとって、キンスキーとの生活は視姦ワールドです。この映画は、イタリアのアフリカ人亡命女性留学生の生活のリアリティを描くなんてことはたぶん放棄していて、たとえばいても良さそうな女性の友人や同郷の相談相手なんてのは全然出てきません。登場人物はほぼシャンドライにキンスキー、アウグスティンの3人だけ。そしてアウグスティンは、「性的視線でシャンドライを見ない」「ゲイ」であるという点で、シャンドライにとってキンスキーと対照をなす存在なのです。アウグスティンとの関係は,シャンドライにとって、嘔吐させるほど圧迫感のある視姦からの安全圏、解放区になっている。じっさい、ゲイのアウグスティンにノンケ女性のシャンドライは、かなり気さくに気ままに振る舞います。が!しかし!思わぬ伏兵が!
りょうきち:伏兵が!?
りょうた:解放区、安全圏だと思っていたアウグスティンが、実は「ゲイのふりをしたノンケ」で、シャンドライに懸想していたのです!ガーーーーーン!!!
りょうきち:・・・・・・・。
りょうた:シャンドライの世界が足元からガラガラと!この世は100%視姦ワールド!逃げ場ナッシング!というわけで恐怖のどん底に突き落とされるシャンドライ!という、つまり、かなり手の込んだ視姦ホラー映画だったのではないか、と。
りょうきち:視姦ホラー
りょうた:だから、けっこ〜〜変わった映画かな、という印象が残っていたわけですね。
りょうきち:で…実際は、どうだったんだよ、観直して。
りょうた:あー、残念ながら、違いました。そんなドンデン返しはなかった。なんか、最後までいい人でしたよアウグスティン。ちょっと空気読めないだけで。
りょうきち:曖昧な記憶にもほどがある(怒)
りょうた:「君となら寝れる」というセリフがゲイらしからん、という思い込みがあったんですが、まあ、「シャンドライは性的に魅力的な女性」ということを説明する材料だったようで。ま、ゲイでも女を口説かざるを得ない彼のイタリアのDNAが言わせたんでしょうな。
りょうきち:なにそのイタリア人に対する偏見。
りょうた:ま、思い違いとか思い込みとか、いろいろ反省しているわけです。だから1人で語る勇気がなくて、キミにお越しいただいたわけで。
りょうきち:・・・・(怒)(怒)(怒)
りょうた:まあその、『シャンドライの恋』のゲイ・イメージは、ちょっと自分でも整理しときたかったとゆうかー
りょうきち:ていうかアレだな、その記憶違いって、かなりオマエのルサンチマンがこもった記憶違いだよな。
りょうた:あ、やっぱり分かりましたか。
りょうきち:「女性を性的に見ない、安全で優しいゲイ」みたいなイメージが。
りょうた:ええまあ、大嫌いですから。
りょうきち: やっぱり。
りょうた:この社会では女性は子どもの頃から性的に身を守らざるをえないし、さまざまな場で「女性に向けられる視線」に常にストレスを感じている。視線との戦いは嘔吐もこみあげる戦場なんだと思う。それは女性の言葉を聞いていると伝わってくるし、『シャンドライの恋』を「視姦映画」だなと思いながら観ていたとき、思い出していたのはそういうことだったんだと思うのね。でもさ。
りょうきち:「性的関心」の有無だけでそう単純にゲイを「女性に優しいイキモノ」扱いされても困る、と(笑)。
りょうた:まず、これは男性のベルトルッチが作った映画だから、別に女性の視点というわけじゃない点に,気をつけなければいけないけど。現に、幻想なんだからさ、それ。「女性に性的関心のないゲイは女嫌いだ」という真逆のステレオタイプも同じだけれどね。僕は個人的には、たいていのゲイは、「男でしかない」と思う。性的指向が多数派の規範を外れていようと、「男」としての教育しか受けていないんだから。男の立ち位置でしかものが見れない人間がほとんどじゃないか。ジェンダーの差異を「性欲」に短絡して、結果,レズビアンやゲイの同性愛者に「性的関心がないから」ジェンダーを解脱したかのような役回りを期待するのは、間違いだよ。この社会のあらゆる規範は、レズビアンやゲイも深く内面化しているんだから。男の立ち位置を相対化できている人は、その人がそういう訓練を自分で積んできた、というだけ。ゲイだから、じゃない。
りょうきち:まあ、あまり難しく考えないところで、親しくつき合っているゲイとノンケ女性ってのも、もちろん多いけどね。
りょうた:そりゃ、男と女だろうが同性愛者とノンケだろうが、仲良くなれる人間は仲良くなれる楽しさに気づいているってだけじゃない?「男と女は友達になれない」ってのが、余計な思い込みなんだから。ついでに言ってしまうと、親しいゲイの友人がいることを「ゲイは男と女の感性を持っていて〜」なんて説明する人が、俺は好きじゃない。なんでゲイのことを「ノンケとは違う精神構造を持つ生き物」みたいに言うわけ?ゲイなんて会ったこともないと思っている人の思い込みならともかく、目の前にいる友人をさ。
りょうきち:たしかに、「女性の良き相談相手」みたいな役割をゲイに期待しているらしき人を見ると、なんとも違和感を感じるな。Yahoo!知恵袋あなたの友達が「ゲイ」だったらどうしますか? 避けますか?の肯定的な回答とか、ゲイが答える恋愛相談・美容・人生相談とか…むしろこの人たちは、心から善意で言っているだけに、なおさら。
りょうた:あとね、「女性に安全なゲイ」というのは、ゲイをステレオタイプ化しているだけじゃない。ここでなによりステレオタイプ化されているのは、ノンケ男だと思うのね。ノンケ男は女性を性的にしか見ていない、という。
りょうきち:そういうもろもろが投影されての、誤読だったわけだ(笑)。
りょうた:ときどきヘンな映画を作っているベルトルッチだから、そういうヘンな映画かなと思いこんだんだけど。いやね、この映画は女性をbesiegeする性的視線をあるていど可視化していると思うし、それは興味深いと思うし、ゲイのキャラクターを配したのも、たぶんその意図だと思う。僕としては、「ジロジロ見やがってウゼー」「ゲロ吐いちゃうよ最悪!」とぶちまけられる同性の友達のほうが良かったと思うけどね。ステレオタイプのゲイのキャラクターに、できることなんて何もないよたぶん。でも視線の描き方も中途半端というか、結局それを肯定・正当化しちゃってるから、なにも変わってない、という気がするんだよね。女性の嘔吐感にせよ、ゲイのイメージにせよ。
りょうきち:ならいっそ、視姦ホラーであった方が(笑)。
りょうた:良かったんだけどねえ。なにをしたい人なのか結局いまだに分からんです、ベルトルッチって。