君のセックスについて語れ


※注意:映画のネタバレ、ラストバレあります。


数日前のid:kmizusawaさんのエントリが、目からウロコ的にとても面白かったので、リンクさせていただく。
kmizusawaの日記ー私のセクシュアリティ


セクシュアリティをあれこれ語るとき、まず基本の基本として、「自分自身のセクシュアリティを顧みる」ということが忘れられがちだよなあと思ったのだ。


セクシュアリティについて、責任もって語れるのは、結局自分のことだけだろう。もちろん、自分のセクシュアリティが「分からない」という立場もある。「分からない」というのも一つの自己表明だ。
各人が自分のセクシュアリティはこうだ、と自覚するっていうのは、まず自身のセクシュアリティを認識して引き受けるということでもあるし、セクシュアリティをめぐる言説に対して、自分の立ち位置、ポジショナリティを明確にするってことでもある。


自分の立ち位置を認識していれば、他人のセクシュアリティに対する自分の感情や意見がどこから出てきているかが分かる。
「同性愛は不自然だと思う」
と言うのは単に自分が同性への性的感情が自然だって人間じゃないからだろうし、
トランスジェンダーの人たちって性別にこだわるよね」
と思うのは、性別違和のある体をもって、人間を性別で分ける視線の中で生きる経験がないからだろう。


それぞれが各人の"自然""現実"なのであって、それが想像し難いのは、たまたま自分がそのポジションにいないから、だ。自分自身のきわめて限定されたポジショナリティを忘れてものを考える,語っていると、現行社会でより強く有利なポジションの集団が他のポジションの集団を抑圧するという構造に鈍感になる。


なんだか当たり前すぎて書いていて恥ずかしいけれど、現にこの世界ではそんな鈍感さが容易に許されているし、僕自身たえず自分自身の鈍感さに思い当たる。
そもそも、クィアというのは、性的少数者の中でゲイ、男性同性愛者が覇権的ポジションを独占し、他のマイノリティを抑圧してきたことに対する批判から生まれてきた概念だ。覇権的なゲイというポジションはまた、「ゲイとはこうだ」というこれも限られた1つ(ないし一部)のポジションの限定性に無自覚になることで、そのポジションから外れるゲイを抑圧してきた。
こうした抑圧の再生産から抜け出すとりあえずのささやかな一歩が、まず個人が自分のポジショナリティを自覚して引き受ける、ことなんだろうと思う。
そして、ひとりひとりが自分を語ってみれば、たぶん、セクシュアリティは人によって随分違う、ということが、おのずと明らかになるはずだ。


もう一つ、自分のセクシュアリティについて語る、ということについて、僕がいいと思うことがあって、それは個人のセックス語りはだいたい他の人間にはつまらない、ということだ。行き過ぎた自分語りは人の迷惑である、とわきまえていれば、性はああだこうだの議論は
「自分はこうである」
「あっそう」
「自分はこうである」
「へえそう」
で終わって、簡潔でよさそうだ。
それを忘れて"普通"を僭称したり、「いい」「悪い」「これが正しい」と"価値判断"を持ち込むと、たかが自分の狭い都合で人様の領域を侵害するような非礼を働くことになって、話をこじらせる。


大して面白くも珍しくもない自分語りに、時々「あ、私もそう」という人がいるかもしれないし、「こういう人っているんだな」と頷くこともあるかもしれない。セクシュアリティについての語りは、それ以上でも以下でもない。


だったら楽そうだなと思うのだけれど、しかし、世の中は、あまりそうはなっていないようだ。


セクシュアリティというのは人間にとって、引き受け切ることができないほどに、過重なものなのだろうか。


そういうことを考えているうちに、この映画を思い出す。



愛についてのキンゼイ・レポート [DVD]

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邦題がなんで「『愛』について」なのよ、とはid: tummygirlさんが突っ込んでいるが、原題は「セックスについて語ろうLet's Talk about Sex」である。


僕にとっては、ピーター・サースガードのハダカがあんまり抱き心地良さそうで、思い出すたびに腕がウズウズしてくる映画である。


僕はアルフレッド・キンゼイという性科学者についても、かなり批判も多いその業績の評価(同時代または現代の)についても、ほとんど知らない。よって、科学者の伝記映画として、キンゼイ・レポートの価値を判断する手がかりとして、この映画がどれほど妥当なのか、分からない(キンゼイにかなり甘いと思うが)。
しかし、キンゼイの仕事を英雄的に描くことで、監督ビル・コンドン(『フランケンシュタイン』を撮ったゲイの映画監督ジェームズ・ホエールの伝記映画『ゴッド・アンド・モンスター』(1998)(IMDb)の監督)が言いたかったことは、はっきりしていると思う。
僕も、伝記的な正確さや時代考証といったことより、この映画の「いま」に対するメッセージを受け止めた。


たとえば、インディアナ大学の動物学教授のキンゼイが、タマバチの研究で辿り着いた結論は、


「相違こそが生命の基本原理である。
違うことが現実で、そこに目を向けさえすれば一目瞭然である」


だ。*1


また、キンゼイ・レポートの前段階の調査は、シカゴの同性愛者へのインタビューから始まるのだが、そこで彼は、ゲイの子どもに対する家族や共同体による残酷なヘイト・クライムに耳を傾ける。そして、「今の時代同性愛は認められていないが、いつか変わる」と言う。


詳しいストーリーは省くが、メソジストの抑圧的な父親の下で成長し、父の反対を押し切って生物学の道に進み、タマバチの研究に研究者人生を捧げてきたアルフレッド・キンゼイ。
セックスについての無知ゆえに、人生とライフワークのパートナーとなる妻マックとの性行為が上手く行かなかった経験を持つ彼は、大学の学生たちがセックスについてあまりに無知であることを知り、人間の性行動の調査を開始する。
いくつかの調査を経たのち、ロックフェラー財団の資金援助を得て、北米全域にわたる性歴調査が始まる。


ここからが、ジャ○プ的ノリというか『プロ○ェクトX』っぽいというか、この映画でワクワクしてしまうところだ。
インタビューの方法を,徹底的に練る。インフォーマントたちに自分の性歴を隠さずに語らせ、正確なデータを引き出すためだ。
インフォーマントとの距離、口調、秘密を厳守すること、質問に使う語彙(大卒者と無学では使う語彙が異なる)・・・これが本当に妥当な調査方法なのか分からないが、示唆する所は面白い。
つまり、セックスについて語る、という行為が、いかに幾重にも妨げられているか、ということだ。
これは1940-50年代の保守的なアメリカだから、という話ではない。「いま」の話でもあるだろう。
男性のセックス語り、女性のセックス語り、ノンケの,ゲイの,レズビアンの、バイの、老人の、若者の、既婚者の、独身者の、モテる(?)人間の、モテない人間の…
たいていのセックス語りには、何かを隠し、何かを誇示するためのポーズがまとわりついている。
たとえば、最初にリンクしたkmizusawaさんのエントリのような、淡々と率直に語る、という語りも、時として何かを隠す、体裁を繕うポーズでありえる(kmizusawaさんがそうだというのではない、念のため)。
こうした隠蔽の裏を掻くように、キンゼイ・チームは北米大陸を駆け回ってデータを取りまくってゆく。


しかし、セックスの語りをタブーとする抑圧の裏を掻くといっても、キンゼイの調査は、タマバチを人間に置き換えたのとあまり変わらない。
映画の導入のタマバチ研究と本題の人間研究のオーバーラップは、キンゼイの科学者としての誠実さだけではなく、マニアックさ、冷酷さを示唆している。
セックスを解放するとかいったことより、セックスからいっさいの意味や価値を剥ぎ取ることに近い。
そんな冷酷さに、身近な人間はボロボロにされる。
セックスはタブー視してはならない。それは分かるが、セックスから派生する恋愛感情や嫉妬や独占欲をそう簡単にコントロールできる人間ばかりが集まっているわけではない。
自分を振り回すセックスに、人間はどれほど意味を与えたがり,安心したがっていることだろう。
(キンゼイにしても、マックが助手のマーティンと寝ている間、悔しそうに階下を徘徊しているのだが。)


自分の膨大な性歴を緻密に記録している男がインタビューを申し込む。
近親相姦、獣姦、関係した相手は9000人以上、うち数百人は思春期前の少年少女という男は、キンゼイの思想を実践している、と言う。つまり「やりたいことをやる」。
が、キンゼイの基準は、「人を傷つけたり、強制してはいけない」というところにしかない。男の顔に失望が浮かぶ。
この男がグロテスクに見えるのは、たぶん、その倫理性の問題のためだけではない。また別のかたちでの、セックスの意味への執着。彼もまた、必死で自分のセックスに意味を与えたがり、価値を認めてもらいたがっていたのだ。


男性の婚外交渉や自慰を取り上げた男性版レポートは革新的ともてはやされたが、女性の自慰や性欲を取り上げた女性版は、激しいバッシングを受ける。時はマッカーシズムの反動時代、財団の支援も打ち切られる。
疲労に健康を蝕まれてゆくキンゼイに、しかしセックスの語りは奔流のように押し寄せ続ける。
性は多様すぎ、その泥沼のような多様性の中で、ひとりひとりの人間は孤独に苦しんでいる。誰にも言えない、自分はおかしいのか。包皮に穴をあける快感を理解しようと、彼はペニスに針を突き刺す(観察対象との距離を失っている、マズい状態だが)。切りがない、受け止め切れないのだ。苦痛を訴えてくる人々に何もしてやれないことが、彼を打ちのめす。


基本的に泣かせ映画だが、初老のレズビアンのインタビューの場面で、僕はボロ泣きしてしまった。
子育ても終え、働きに出た職場の同僚に恋し、自分がレズビアンだと知った。誰にも相談できない苦しみから酒へ逃れ、夫と子どもに捨てられ、家庭を失った。
このとき観客の心は、出発点のシカゴに戻る。13歳で父親に焼きごてを押されたゲイの少年のところへ。
社会は変わっていない、そう呟くキンゼイに、彼女は言う。いいえ、ずっとよくなりました。
あなたの本のお陰で。自分と同じ人は大勢いるのだと知ることができた。今は友人とおつき合いしています。疲れ切ったキンゼイの手を、労るように握る。あなたに命を救われました。



あなたは「愛」については一言も語っていない。
助手の質問に、キンゼイは答える。
「愛」は測定不可能だ。科学的に分析できない。それは問題だと近頃思う。


でもそれは、だから「愛」が素晴らしいとか偉大だとか「愛」は「セックス」を越えたところにあるとか人間やっぱり愛よ!とか言うのでは、ないと思う。
計測不可能なものは計測不可能と、誠意のある科学者は言う、それだけだ。
にもかかわらず「愛」や「セックス」に意味を与え価値で縛ろうとしてきたことが、たぶん、同時に抑圧も生み出したのだろう。


正常だとか異常だとか自然だとか不自然だとか障がいだとか健常だとか、すばらしいとかくだらないとかうつくしいとかみにくいとか、すばらしいけどみにくいとかみにくいけどすばらしいとか。
意味や解釈や価値の体系を与え、安心したいと思おうが思うまいが、それに成功しようがしまいが、そんな人間の意志にかかわりなしに、多様なセクシュアリティが人間の中には存在し続けている。


たとえば、森の中に立つ千年の樹齢の樹のように。


ある東アフリカの種族は、木はできそこないの人間で、動くことが出来ないのを悲しんでいると考えていたそうだ。
森の中で、老いたキンゼイはマックに語る。
でも、私は不機嫌な木を見たことがないが。木は自分が木であることに満足しているじゃないか?


それがただそこに存在することに敬意を払い、そのあるがままのすべてを諾うために。
また歩き出すキンゼイの姿を、マックの微笑が抱きしめるように包みこむ。

追記:ゲイ映画としての『キンゼイ』


せっかくなので、『キンゼイ』のゲイ映画としての側面について追記してみる。
ゴッド・アンド・モンスター』や『ドリームガールズ』(2006)を撮った監督ビル・コンドンはオープンリー・ゲイなわけだが、『キンゼイ』もセクシュアリティの多様性の主張やゲイ・レズビアン・イシューの提起だけでなく、ゲイが観て楽しいゲイ映画的要素があると思う。


まず、みもふたもないが、出せばノンケが喜ぶであろうセクシーな美女が出てこない。


この映画は、性的な女性、つまりセクシーな美貌の若い女性を、たぶんわざと出していないと思う。マック役のローラ・リニーはセックスアピールを消すような役作りをしているし(これが最高にいいキャラなのだが)、インディアナ大学の女子学生や助手たちの妻も、どちらかというとモッサリした女の人ばかり。インタビューや性行動の調査に登場するのは、おばあさんのマスターベーション実験に代表されるように、中年以上の女性ばかりが印象に残る。


セックスというと真っ先に関心の標的にされるセクシュアルな存在としての女性を消し、映画の中の性を消費されるものにしないという狙いがあるのだろうと思う。が、


性的な男は、バッチリ出てくる。


キンゼイの調査は1940-50年代の米国白人男女の性行動を明るみに出したわけだが、よく考えてみるとこの映画、異性愛男性のリアクションをほとんど描いていない。婚外交渉で見せる男のエゴイズムとか、描かれているものはあるのだが、大して掘り下げていない。男性の性的な描写は、どっちかというと、単に監督の好みじゃないのか。ビル・コンドン、脇が甘い。
キンゼイ少年のマスターベーション場面は色っぽいし、3人の助手のうち、イケメン&セックスの達人(らしき)ポメロイがクリス・オドネル、キンゼイと妻マックの両方と関係を持つバイセクシュアルのマーティンがピーター・サースガードである。女性にない色気を3倍ぐらい補ってあまりある。


マーティン役のピーター・サースガードが、いいのである。マーティンはノンケ寄りのバイで、結局は妻を愛する夫になるのだが、男に反応する何気ない場面を、とてもきめ細かく演じている。
たとえば、マーティンがキンゼイと出会うシーン、雨の中をまったく違う方向に走っていた2人が、一瞬のアイコンタクトで、もう接近しているのが分かる。あるいは、シカゴのゲイバーで、インタビューにかかろうと張り切っているキンゼイの傍らで、一人まったり場に馴染んでいる場面とか(笑)。
モーテルのラブシーンは言うまでもないが、マックとマーティンのベッドシーンもいい。女性の体に夢中になっているノンケっぽさがあまり感じられなくて、感情移入を妨げない。マックを通してマーティンを抱いているような気にもなれる。


そういう楽しい(?)シーンは別として、この映画は本筋でも、ゲイ映画と読めなくないふしがある。
むろん、中心的人物としてゲイは出てこない。キンゼイやマーティンはバイだが、基本的に異性愛のストーリーだ。
この映画のレビューはいろいろあるけれど、映画公開当時森岡正博さんが朝日新聞大阪版に書かれたエッセイが、ご本人のサイトに掲載されている。
『朝日新聞』大阪版・2005年9月1日夕刊:性的少数者に救いー性科学と性道徳考える資料:映画「愛についてのキンゼイレポート」


一部引用させていただく。



 ところが、キンゼイと若い研究者たちは、不思議な逸脱の道に入っていく。彼らの調査によって、婚前性交や婚外性交が多数行なわれていることが判明した。(中略)われわれも不倫や乱交をして何が悪いのだろうか、と彼らは考えた。そしてそれを仲間内で実践しはじめるのだ。
 (中略)キンゼイがこのような方向に走った原因のひとつは、異様に道徳的だった彼の父親への反発心がある。


これを読んだとき、僕は
「えっ、そうか、あれ、逸脱、不倫、乱交だったのか」
と思ってしまった。
もちろん「逸脱」とは1940年代標準での逸脱なわけだが、この映画をほぼ現代にシンクロさせて観ていた僕には、キンゼイ周辺の人間関係は「逸脱」というほどのこともなく普通にありえる気がしていたのである。


こんなことを書くと、これを読んだノンケさんに「ホラやっぱりゲイは乱交がフツーなんでしょホラホラホラホラ」とか言われるかもしれないけれど、パートナー同士が貞操を厳守しなければならない、みたいな規制がそこまで拘束力を持てるのは、ノンケぐらいではないかと思う。


マーティンと浮気したキンゼイと彼を責めるマックの、パートナー関係にある者は浮気をしてはいけないのか?という口論は、僕の感覚では、限りなくゲイの問題に近い。誰でも浮気をしたい時はあるんじゃないか?それを無理に抑える理由は何だ?恋愛の熱は弱まるし浮気の欲望もある、じゃあパートナーのために守るべきものって何?セックスなのか?


これは、人によって答えが違うだろう。
そういえば、このエントリの冒頭でリンクさせていただいたkmizusawaさんのエントリのブックマークで、「一度に複数好きになるとか一度に複数と付き合おうとするとかいうことにあまり抵抗や嫌悪感がない」というポリガマスなスタンスを支持している人が複数いたことを、面白く感じた。
僕もたしかに人様の関係には「抵抗や嫌悪感」はないが、しかし自分でやるかというと、無理である。彼の心に他の男が入ってしまうのがただ怖いから、要するに独占欲と嫉妬心が強いのである。
なぜそんな感情に振り回されるのか、というのは分からない。たぶんポメロイの言う通り、僕が「弱い人間だから」だろう。


結局のところ弱い人間が、愛やセックスという不確かな、コントロールし難いものから生まれた関係を、生きていくってどういうことだろう。これはもちろんノンケにも変わらない問題だろうけど、コンドンは、キンゼイとマックの夫婦関係、助手たちの人間関係を通して、ゲイのパートナーシップのことを模索していたのかも、と、僕は思っていたりする。

*1:この発想が、たぶんキンゼイの遺伝子を共有する抑圧的な父親への恨みとも無関係ではないことは、「親を恨んでいる人には朗報だ」という講義中のジョークからうかがわれるが。