佐藤雅樹「少女マンガとホモフォビア」


id:nodadaさんが、1990年代前半に起きた「やおい論争」について触れたマンガ評論家藤本由香里さんのエッセイをレビューしておられる。


腐男子じゃないけど、ゲイじゃないーコラム『HONEYの蜜×蜜日記』、藤本由香里さんのやおい論争。



 藤本さんはね、まずはこう言うのです。このやおい論争における、表象暴力系の問題について「自分の好きな表現が一定の人を傷つけてしまう可能性があることを表現者は自覚し、そして自分の表現に責任を持ちつづけるしかない(ただし、気にしすぎると表現が出来なくなるのも事実だ)」と仰ってるんです。それはその通りだなと思います。そして、次には「ただ一ついえることは、生身の人間に自分のファンタジーを押し付けてはいけないということ!」と議論を展開していくんですね。
(中略)
 さて、藤本さんはこの議論では「何がファンタジーで何がリアルなのか」ということをゲンミツに触れていませんが、私見では
 腐女子或いはボーイズラブ=ファンタジー
 ゲイ=リアル
という具合に対置しているように読めます。そして「やおいとゲイは別。」と言う…。つまり、腐というファンタジーはリアル(ゲイ)とはかけ離れた存在・形象であり 二つは隔離されなければならない、という主張です。


nodadaさんは、以前にも、BLで描かれる「空想の『ホモ』」と「現実のゲイ」を別物とする言説に疑問を呈するエントリを書いておられた。
腐男子じゃないけど、ゲイじゃないー腐業界における「ホモ」の再盗用とかなんとか。


僕も、BLにはまったくの門外漢ながら、やおいやBLで「ファンタジー(BL・やおい)/リアル(現実のゲイ・男性同性愛)」を分けるというセンシティヴな言説について、アメリカのゲイサイトでの同種の議論に絡めてこのエントリで触れたことがあるが、日本におけるこうした言説の起源は「やおい論争」に遡るということなのだろうか。


やおい論争」については、やおい・BL研究家の小泉蜜さんのサイトがよく参照されているらしい。


蜜の厨房ー正しいボーイズラブ講座特別番外編


小泉蜜さんのまとめと分析は非常に優れていて、この論争が手に入りにくいミニコミ誌で行われたことを考えると、第一のソースとして盛んに参照されるのも当然である。当然なのだが、小泉さんのサイトばかりが情報源にされることは、ある偏向ももたらしていないか、と感じる*1


というのも、小泉蜜さんのサイトには、ゲイとしての立場から「やおい論争」を仕掛けた佐藤雅樹さんが『クィアスタディーズ96』に寄稿したエッセイ「少女マンガとホモフォビア)が収録されていないのである。


クィア・スタディーズ (’96)

クィア・スタディーズ (’96)


やおい論争」に言及しているブログやサイトを見ると、佐藤さんがゲイの立場からやおいを激しく批判し、「やおいホモフォビアだ」と決めつけたかのように取られている。

Google検索結果ーやおい 佐藤雅樹


だが、このエッセイを読むと、佐藤さんが言いたかったことは大分違うのではないかということが分かる。


最近盛んになっているBL研究で論考を発表されているクィア批評研究者石田仁さんが授業で扱っておられるが*2、このエッセイはどれほど読まれているのだろうか。少なくとも、「やおい論争」で佐藤さんが何を言いたかったのかを知るためには、読まれるべきだと思う。これは刊行された本だから誰でも読める(そもそも僕は、「やおい論争」というものがあったことを最初にこの本で知った)。


ここでは、「やおい論争」に関する佐藤さんの最終的な主張を示していると思われる一部を引用したい。


2点ほど注意。


(1)引用の最後の方で、「少女マンガ」と出てくる(そもそも、タイトルが「少女マンガとホモフォビア」)けれど、佐藤さんは少年愛を扱った「少女マンガ」をやおいの母体と考えている。1996年に書かれたエッセイだから、やおいやBLのイメージは現在と比べ当然かなり古いだろう。


(2)佐藤さんが問題にしている「ホモフォビア(同性愛嫌悪)」は、これはどっちかというと僕の解釈だが、より広く取るべきだと思う。
ホモフォビア」の第一義は「同性愛または同性愛者に対する不合理な恐怖感・嫌悪感・拒絶・偏見」で、精神医学・心理学の見かたを社会分析に援用し、多くの人が無自覚になっている社会の制度的心理的同性愛差別を浮き彫りにしようとする、いわば戦略的な概念だ(異性愛中心主義的社会に「病識」を持たせようとするわけだ)。
しかし、精神医学的な「フォビア」という言葉は、「人間の内面的心理だからどうしようもないではないか」「同性愛者を内面で嫌悪しようが個人の自由だ」という反論も招く。
ホモフォビア」の語が生み出すこのような誤解や問題は、macskaさんが指摘しておられる。
*minx* [macska dot org in exile]−フォビアで苦しむのは、フォビアを抱えている当人の側
また、その狙い撃とうとするところが矮小化され、「ゲイなんて気持悪い!」と露骨に感情的な拒否感を示していなければ「ホモフォビアはない」と思われることも、しばしばあるように思う。
しかし、性的少数者を「『普通』でないゆえに異端視されても仕方がない者」として扱う空気を無批判に受け入れる(たとえば表現物の中で同性愛者をそのように描く)ことも、性的少数者に抑圧的な社会構造の再生産に加担することに変わりない。
クィア批評は、まさにこのような社会構造、異性愛のみを社会の規範的セクシュアリティと見なし、同性愛やさまざまな性的少数者を周縁的なものとして差異化する構造を、「ヘテロノーマティヴィティ(異性愛規範主義)」として批判する方法をとっている(河口和也『クィアスタディーズ』isbn:4000270044)。
佐藤さんの言う「ホモフォビアに無自覚であること」は「ヘテロノーマティヴィティの押しつけに無自覚であること」と言い換えても、いいと思う。


前置きが長くなったが、以下、引用。



佐藤雅樹「少女マンガとホモフォビア」『クィアスタディーズ96』pp.161-169.


pp. 166-167.
 表現に置ける差別を考えるのは難しい。
 作品とは、発表されたときから一人歩きをしてしまうものだからだ。作者に差別的な意図があろうとなかろうと、結果的に誰かをおとしめる価値観に加担してしまうことはある。表現とは,大なり小なり社会的な影響力をもつものだからである。


 (異性愛者の)男が買うポルノグラフィが女性差別表現になってしまうのは、(異性愛者の)男と女の間に社会的な不均衡があるからだ。性の商品化自体が悪いのではなく、社会的な弱者(「男対女」という図式においては「女」)に性の商品化を押しつけてしまうからである。社会的に対等な者同士間で、相手の性を商品化しあうことが差別なのではないはずだ。


 この強制異性愛社会では、同性愛者は異性愛の情報、価値観に完全包囲されている。自分たちに必要な情報さえ、自覚的に求めなければ与えられない。表現物,情報において、あきらかな不均衡があるのである。


 そんな中で、それが同性愛を描いたものだろうがそうでなかろうが、男同士が恋愛しセックスする表現物は、あきらかな混同を生む。「男同士」という型を使ったときからすでに「現実の同性愛者」と切り離しては考えられないのだ。「同性愛」という型を使いながら、「そんなつもりはなかった」などと言うのは、あまりにも愚かで無自覚な話である。


 「『純粋な欲望』としてのセックスではない」という言説もヘンだ。だから性差別なんかではない、と言いたいのだろうが、男と女の欲情のメカニズムが違うのは当たり前だ。ことはポルノかお芸術かの話ではない。「愛」だの「関係性」だのという口実があれば許されるという問題ではないのだ。自分より弱い立場の存在に、ステレオタイプを押しつけることが「差別」なのである。もう一度,自分たちが「男社会」から強制され続けてきたことを思い出したらいい。そして、女たちがポルノを批判してきた言説をふりかえってみればいいのだ。


 ここで、当事者以外が表現の担い手になるのはすべていけないのか、という疑問が残る。どうやったところで、表現物には作者が身を置く社会の価値観が反映されてしまう。他者に対するなんらかのステレオタイプ化は避けられないことなのである。


 では、当事者なら何を表現してもいいか,ステレオタイプから自由なのか、というと、もちろんそんなことは、ない。強烈なホモフォビア(同性愛嫌悪)を抱えていたり、異性愛社会の価値観しか内包していなければ、当事者であっても、社会から押しつけられたステレオタイプに縛られていることだろう。


 問題は「ホモフォビア(同性愛嫌悪)」なのである。このことは作品の「質」とは無関係だ。「いい」といわれる名作にもホモフォビアは隠されているだろうし、同性愛者自身が描いた表現物にもホモフォビアが潜んでいるかもしれない。内なる「ホモフォビア」に無自覚であることこそが、「差別的なるもの」の正体なのだ。


(p. 169.)
 こうした問題は、なにも「少女マンガ」に限ったことではなく、この強制異性愛社会の中では、あらゆる局面で発生している出来事なのだ。「少女マンガ」は、それをもっとも端的な形で表してしまった。
 では、こうした現実にどう対抗したらよいのだろうか。
 まず、同性愛者自身が自分たちに必要な表現物を出していくこと。
 さらに、既成の作品を、糾弾ではなく、「批評」していくことが必要なのだ。「ゲイ」また「クィア」というセクシュアル・マイノリティの視点から。
(中略)
 「いい」作品とはなんだろう。それは、安直な「現実逃避をうながすもの」ではなく、「現実を生きやすくする作品」なのだと思う。

*1:曖昧な記憶で自信が持てないのだが、僕が以前、小泉蜜さんのサイトを拝読したとき、小泉さんはサイト日記で「やおい論争」についてご自分の文章ばかりが孫引きされることに戸惑いを示し、「やおい論争」について語りたいのならきちんと原資料に当たってくれ、ということを書いておられたと思う。現在の小泉さんの日記では確認できないので、僕の思い違いかもしれず、ご存知の方がおられたら、どうかご指摘いただきたい。僕の間違いであれば、お詫びとともに訂正します。

*2:石田さんのサイト石田ラボ−明治学院大学社会学特講B授業概要