わたしはあなたの行かれる所へ行き、あなたの宿られる所に宿ります


id: miyakichiさんの日記で、英国のレズビアン作家サラ・ウォーターズの『半身』(isbn:4488254020)の感想を拝読。



 この小説はぜひ2回以上読むことをおすすめします。1度目でひねりの効きまくったラストの展開にのたうち回り、2度目では「よく見るとこんなところにこんな伏線が!」と唸りながら読む、というのが正しい味わい方ではないかと。


みやきち日記ー『半身』(サラ・ウォーターズ[著]、中村有希[訳]、東京創元社)感想


うーん、あのどんでん返しはスゴかった。まさかああなるとは思わなかった。
みやきちさんの言う通り、あとから考えると伏線があちこちに隠してあったのだが、初読は全っ然気づかなかったから、いきなり登場したラスボスに腰が抜けるほど驚いた。
なんだよ、こんなの、ミステリとして反則じゃねーか。と思ったとき、ハタと気づいた。



な、名前かッ!!!!?



やられた。
このとき、僕はサラ・ウォーターズにマジ惚れした。




 あなたを捨て、あなたを離れて帰ることを
 わたしに勧めないでください
 わたしはあなたの行かれる所へ行き、
 またあなたの宿られる所に宿ります。
 あなたの民はわたしの民、
 あなたの神はわたしの神です。
 あなたの死なれる所でわたしも死んで、
 そのかたわらに葬られます。
 もし死に別れでなく、
 わたしがあなたと別れるならば、
 主よ、どうぞわたしをいくえにも罰してください


旧約聖書「ルツ記」第1章16-17節(『聖書』日本聖書協会発行、p.377.)


glbtq - the Bible


ユダヤキリスト教文化・社会で同性愛を否定しているのは、まずもって聖書と教会の聖書解釈だろう。だが、にもかかわらず、その社会のレズビアン・ゲイは、自身の属する文化の礎である聖書の中に同性愛を読み解き、同性愛者のイコンを見いだしてきた。



 聖書は同性愛の問題をまったく取り上げていません。しかし、聖書には、同性間の愛について、いくつも美しい例があります。ダヴィデのヨナタンへの愛は、女性への愛を凌いでいたと言われます(サムエル記下第1章26)。ルツのナオミとの関係は,深く結びついた愛の一例です。そしてルツのナオミへの誓約の言葉は、しばしば異性愛者の結婚式で用いられています(ルツ記第1章16-17)。聖書は明らかに同性間の愛に価値を置いているのです。
The Bible never addresses the issue of homosexual love, yet it does have several beautiful examples of same-sex love. David's love for Jonathan was said to exceed his love for women. (2 Samuel 1:26) Ruth's relationship with Naomi is an example of a deep, bonding love, and Ruth’s words of covenant to Naomi are often used in heterosexual wedding ceremonies. (Ruth 1:16-17) The Bible clearly values love between persons of the same sex.


Cathedral of Hope - 同性愛とキリスト教(Homosexuality and Christianity)
性的少数者を認める世界最大の教会である、米のCathedral of Hopeの見解


ファニー・フラッグの小説を映画化した『フライド・グリーン・トマト』(1991)で、「ルツ記」は物語のもっとも重要な核に置かれている。
個性的な少女イジーは、亡き兄の元婚約者を愛するが、彼女が他の男に嫁がされ、暴力的な夫のもとで不幸な結婚生活を送るのを、なすすべもなく見守る。しかしある日、彼女のもとから、ルツの言葉を記した手紙が届く。それを読んだイジーは、暴力男の家に乗り込み、体当たりで彼女を奪い取る。そして2人は駅前にカフェを開き、女2人で生きる道を切り拓いてゆく。


ルツのナオミへの言葉に心のうちを託してイジーに伝えた、彼女の名もルツ。


ジーが暴力を振るう夫(いわば、異性愛社会の抑圧的側面だ)から全力で奪い返し、護ろうとしたのは、女性同性愛者たちが聖書の中に見いだしてきた、「レズビアンという存在」そのものであったのかもしれない。
原作の明白な同性愛表現を削り落とし、ただ「女の友情もの」になってしまっている映画はあまり評判が良くないようだが、それでも女性同性愛としての物語は、「ルツ記」のエピソードを通して、しっかりと伝わってくる。


フライド・グリーン・トマト(1991)-goo映画


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ルツの姑ナオミへの言葉は、聖書で最も美しい愛の告白とも言われているそうだ。上記のカテドラル・オブ・ホープの引用にもあるように、結婚式でよく引用される聖書の文言の1つである。
そんなに有名な愛の言葉が、実は女から女への言葉であるというのは、なんだか興味深い話だ。
興味深いこじつけを追加すれば、ルツは、同じく旧約聖書で男性同性愛のイコンとされているダヴィデの曾祖母でもある。


むろん、ルツのナオミへの言葉が示しているのは、いかにも結婚制度にふさわしいモノガミー信奉であって、それが必ずしもいいとは、僕は思わない(そのままの解釈では、この言葉は女性の婚家への忠誠を表す言葉であって、今的な意味での愛の言葉ではない)。
ルツがイスラエルの民ではないモアブ人であり、「ルツ記」が異民族との混血の物語であることを考えると、「あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神」という言葉には、他民族を恭順すべきものとしてのみ受け入れる思想、他者への同化主義的なまなざしを、感じないでもない。
しかし、ルツとナオミの関係に同性愛を読み解くクィアな視線は、物語にまとわりつくこうしたイデオロギー的要素を、無化する働きも示す。
太古の寓話的な2人の女性に託されたであろう、「異性愛制度の下で、愛する者とともに生き抜く」ことへの願いが、『フライド・グリーン・トマト』の女たちの姿のように、心に響いてくる気がする。


現代の同性愛(だけでなく、国家や民族でもそうだが)の起源や"伝統"を、歴史的な変容や差異を無視し、神話や過去の中に乱暴にこじつける発想が、僕は胡散臭くて好きではない。
だけど、「ルツ記」の"クィア・リーディング"には、心を惹かれる。
あえて正説を無視する、あえて曲げる。
そこに託される"思い"に、惹きつけられるのだと思う。
(むろん、それが行き過ぎて自己正当化のイデオロギーの臭みが出てくると、気味悪くてイヤになるから、程度というものが大切だが。)


「ルツ記」は、さまざまな人々の、さまざまな思いが託されてきた物語なのだと思う。
男女の夫婦の絆を託す人もいる。姑・嫁の親愛を読み込む人もいる。「ルツ記」が異民族との通婚の物語でもあることから、国際結婚の幸福を託す人もいるようだ。
そうした思いの中に、女性同性愛への思いもある。
僕はキリスト教徒でもなんでもないのだけれど、聖書という深い歴史と文化を持つテキストの包容力が、同性愛も包み込んでいるという事実が、なんだか嬉しいように感じられる。



しかし一方、男性同性愛のイコンであるダヴィデの方には、実は僕はさほど惹かれていなかったりする。


たしかに、少年ダヴィデに惨殺される巨人ゴリアデのエピソードは、いくたの男のマゾヒスティックな官能を刺激してきただろうし、ミケランジェロのダヴィデ像もそうしたエロティック・ファンタジーの具現だと思うと、感動ものだと思う。


ドナテッロのダヴィデ
カラヴァッジオのダヴィデ


だけど、もっと有名なダヴィデとサムエルの子ヨナタンの物語は、感動的だと思うけれど、ゲイのストーリーだとは感じない。
だって、ダヴィデは家臣ウリヤの妻バト・シェバに横恋慕し、罪のないウリヤを謀殺して晩節を汚すのだから、


「なんだ、結局ノンケじゃんよ」


と思うんである。



 [民族の]生存と生殖の問題への関心は、男と女の同性愛に対する旧約聖書の一見矛盾した態度の原因となっている。Jane Ruleが指摘するように、「絶えず絶滅に脅かされている民は、可能な限り多数の強く健康な子どもを作らねばと思わねばならず」、男性同性愛行為に「種を漏らす」ことは「浪費で危険な」ことだと考えられた。
 女性の罪は、対照的に、「耕地が不毛のままでいるか、あるいは彼女に決められた作物とは異質な種を受け入れるという罪」であった。ゆえに、彼女が割礼を受けた正式なユダヤ男性の子どもを身ごもり、姦淫に身を委ねて彼の家系を乱さぬ限り、女性は他の女性と感情的な、恐らく性的な関係を求めても、自身の文化を脅かさずにいられた。意義深いことだが、ヘブライの聖書には、女性の同性愛行為について、直接的な禁止は何もなかった。
 他方で、他の男性との結びつきが、窮地の英雄にとって、生き延びるのに不可欠な精神的・感情的な支えとなる場合−−ダヴィデとヨナタン、イエスと最愛の弟子ヨハネの場合のように−−においてのみ、男性のホモエロティックな関係は見習うべき模範として推奨された。


glbtq - the Bible


こうした(ヘテロセクシュアルの)ホモソーシャルな絆に漂うエロティシズムの称揚と規範化が、結局、同性愛者を踏みにじってきたのだと思うと、そんなものを美化されたところで、ありがたいとも感じないのだ。



今月初め、保守的なリヴァプール主教James Jones師が、同性愛者の聖職者叙任に反対したことを謝罪する声明を出した。
Guardian.co.uk - 5 Feb. 2008 - リヴァプール主教、ゲイ聖職者への反対を謝罪(Bishop of Liverpool apologises for opposing gay cleric)


むろん、これはすごい進歩なのだけれど、彼のコメントで、聖書で認められている同性の愛として挙げられたのは、やはりイエスヨハネダヴィデとヨナタンであり、ルツとナオミの名はそこにない。


聖書に登場する信頼しうる同性間の愛の例は、イエスと彼に愛された弟子ヨハネ、そしてダヴィデとヨナタンの関係に最も明白に認めうる。
acknowledge the authoritative biblical examples of love between two people of the same gender most notably in the relationship of Jesus and his beloved [John] and David and Jonathan


同性愛というと男性同性愛ばかりがクローズアップされ,女性同性愛が黙殺されるいつものパターンだろうか。それともあれか、やっぱり偽装結婚は認められないのか?


なにかが「正しい」と認められようとするとき、切り落とされるものが気にかかるのだ。
  

2009年3月25日追記

  
別のエントリのコメント欄で、このエントリの最後でリヴァプール主教の発言を批判していることについて、
「聖職者叙任問題を批判するなら、なぜ女性が聖職者叙任で差別されていることを指摘しないのか。このエントリは書き手が同性愛差別問題の文脈でしか女性差別問題を考えられないことを示している」
という批判をされた方がいます。
さらにご自身のブログで、このエントリに対する批判を書いておられます。
  

  
このエントリの目的は、キリスト教社会のレズビアン・バイセクシュアル女性が「ルツ記」の中に自らのイコンとして見出してきた「愛し合いともに生きる女性たち」のイメージの豊かさについて語り、そのような女性同性愛の語りが、概して男性同性愛イメージに支配されている「同性愛」をめぐる言説で不可視化される危険を指摘することでした。その一例としてリヴァプール主教の「同性同士の愛」についての発言を取り上げたのであって、教会(ここでは英国国教会)の聖職者叙任差別問題じたいを論じたかったわけではありません。
  
しかし、当該の主教発言が聖職者叙任に絡む問題であり、キリスト教会(に限らず多くの宗教組織)の聖職者叙任問題では、女性の差別と排除が常に大きな問題であることは、指摘されたとおりです。
  
一例として、ここで問題となった
アングリカン・コミュニオンの聖職者叙任を見てみると、女性の聖職者を全く認めていないローマン・カトリック教会に対し、英国国教会を母体として世界に広がるアングリカン・コミュニオン(世界聖公会)はたしかに1960年代末から女性聖職者を下位聖職から承認してきていますが、その実践には教会ごとに大きな開きがあるようです。
  
世界のアングリカン・コミュニオンにおける女性司祭・主教叙任(Religious Tolerance Orgから)
アングリカン・コミュニオンの女性聖職者(主教・司祭・執事)叙任の国別状況(en.Wikipedia)
プロテスタント・アングリカン教会の女性主教(2008年まで)
 名前が挙げられた17名のうち5名がアングリカンの主教。
  
アングリカン・コミュニオンのなかでもリベラルで知られる米聖公会は、1989年に初の女性主教であるバーバラ・ハリス主教をマサチューセッツ主教に叙任し、2006年にはキャサリン・ジェファーツショーリ主教が、総裁主教に就任しています。2003年、最初の(現在唯一の?)オープンリー・ゲイかつ非独身の主教として、ジーン・ロビンソン師をニューハンプシャー主教に按手したのも、米聖公会です。
そのほか、ニュージーランド、カナダ、昨年はオーストラリアが、女性主教を叙任しています。
  
しかし、マザー・チャーチである英国国教会では、1994年の女性司祭の正式承認以来多くの女性司祭が活躍しているそうですが*1女性聖職者の待遇の悪さが批判されており、女性主教は1人も叙任されていません(英国における最初の女性主教は、この2009年1月に英国ルーテル教会主教に就任したJana Jeruma-Grinberga 主教)。
また、2003年オープンリー・ゲイのジェフリー・ジョン師(当時は独身)がレディング主教に任命されましたが、反対に圧され辞退しています(エントリで取り上げたリヴァプール主教の謝罪というのは、このときのことに関するものです)。ジョン師の名は2008年に再びバンゴール(バンガー)主教候補として上がりましたがこれも流れ、英国でオープンリー・ゲイの主教は誕生していません。
  
2008年7月7日、英国国教会総会で女性主教の叙任が賛成多数で正式に承認されましたが、この決定は激しい反発を受け、同月開催のランベス会議に出席予定だった主教の約4分の1の欠席、さらにローマ・カトリック教会から批判も受け、アングリカン・コミュニオンを大きな緊張が覆っているのが現状のようです。
  
女性総裁主教、オープンリー・ゲイの主教を送り出してきた米聖公会も、アングリカン・コミュニオンの中で内外から厳しい批判に晒され、けっきょく2007年には同性愛者の聖職叙任と祝福を止めるという、バックラッシュに負けたかたちの決定を出しています。さらには2008年、ついに北米の保守派教会が聖公会から独立組織アングリカン・チャーチ・イン・ノースアメリカを作り、聖公会の分裂が明らかになっています。
  
なぜ女性聖職者にこれほどの反発が起きるのか。宗教というものが教義を土台にしていることを考えると、教会法の改変が忌避される,困難であるという主張は一理あるのかもしれません。しかし、教派は違いますが,日本基督教団組織の女性差別・同性愛差別と長く戦ってきた堀江有里さんが紹介する「キリスト教の女性嫌い」が、無関係ではないのだろうと感じられます。


キリスト教は「女性が劣等な所有物であるがゆえに支配されてきただけではなく、セクシュアルな存在なので嫌悪されてきた」こと、すなわち「性的神経症」としての「女嫌い」を再生産し続けてきたことを問題にする。
(略)
ここで問題とされているのは、男性の「欲望」である。男性の「欲望」を表面化させたくないために、「欲望」を喚起する存在として、女性が名指される。ここで女性は「危険な性衝動へと誘惑する」<主体>として認識されるがゆえに、嫌悪が生じる
  
堀江有里『「レズビアン」という生き方ーキリスト教の異性愛主義を問う』pp. 191-2.
  
しかしこのようなセクシズムは、キリスト教文化に限らず、日本でもどこでも見いだされるものです。
世界の主流派教会のひとつであるアングリカン・コミュニオンの聖職者叙任における性差別問題は、目下キリスト教世界を揺るがしかねない大問題になっているようですが、そこに表出しているのは実は根深い男性中心異性愛主義であること、そしてキリスト教の同性愛差別問題もこうした女性差別問題と密接に連動していることを、追記しておきます。
  
また、上掲リンクの批判エントリでは、このエントリが

ゲイの利害がどのくらいレズビアンのどれくらい一致してるのかを確かめる手続きを踏むことなしに、レズビアンを「同性愛者だから」という理由で自分たちと 利害が一致するだろうと決め付けてゲイが同性愛者/男性・女性同性愛者を名乗るのはレズビアンにとってまさに表象の横奪(笑)
であるという批判もなされています。
これについては、また改めて、別のエントリで答えさせてもらいたいと思います。
  
  
Katharine Jefferts Schori米聖公会総裁主教
[f:id:Ry0TA:20090325222536j:image]
海洋学者から聖職へ。2006年のロビンソン主教按手を支持し、同性愛は罪ではないと主張している。
神学者の夫との間に、空軍に勤務する娘がいるそう。
米聖公会ウェブサイトのバイオグラフィー
写真はThe Seattle Timesから。
  
女性であり同性愛者であるオープンリー・レズビアンの聖職者は、さらに厳しい状況に立たされているのかもしれない。
2006年、米マサチューセッツからオタワに移住した既婚レズビアンのLinda Privitera師
[f:id:Ry0TA:20090325222629j:image]
カナダはマサチューセッツと同じく同性婚が合法化されており、カナダ聖公会は女性主教・司祭も輩出しているにもかかわらず、Privitera師は聖職につくことを拒否され、波紋を呼び起こした。
反同性愛聖公会活動家、レズビアン司祭をターゲットに
同性婚問題の停戦、カナダ聖公会で終わる

写真は The Whole Message Conferenceから。
  
Gene Robinson主教
[f:id:Ry0TA:20060616184108j:image]
2003年からニューハンプシャー主教
オバマ大統領就任イベントで祈祷を行ったことが、大きなニュースになったことは、記憶に新しい。1980年代からのパートナーと2008年6月にシビル・ユニオンを結んだ。
アングリカン・コミュニオンの分裂の渦中にいる人物の1人で、昨年2008年7月に開催されたランベス会議(10年に1度カンタベリー大主教の招待により世界の主教が集まる会議)への招待状は彼に送られなかった


Jeffrey John師
[f:id:Ry0TA:20090325222654j:image]
教会の反同性愛的な態度を緩和させる活動を長く続けるとともに、女性聖職者叙任を支持してきた。2006年からパートナーのGrant Holmes師とシビル・ユニオンを結んでいる。
写真はTelegraph.co.ukから。

*1:英国の女性司祭たち:エリザベス菊池泰子(日本聖公会2002年のレポート)