打ちのめされ状態


イラン人ゲイ難民申請者メフディ・カゼミさんの問題について、僕の中途半端で怪しいフォローを、切実に受け止めてくださり、また堅実に冷静にフォローアップしてくださるかたがいることに感謝しつつ。


最初にこの件を教えてくださったid: tummygirlさんのエントリ


FemTumYum−その発言がどのような行為となって誰を脅かすのか:イラン人青年強制送還をめぐって


を読んで、
打ちのめされている。
以下、そのうちのめされ状態の書きなぐり。


難民条約と関連条約にもとづく難民認定が、おうおうにして、難民の人権を護ることを目的とした条約と、難民・移民をできる限り受け入れたくはない批准国のボーダー・コントロールの相談の産物である、
ということは、
(認めたくはないが)分かっている。


「○○は△△国で迫害の対象となる民族・宗教・国籍・政治信条・その他の社会的集団に属しているのか」
「その迫害は○○の生命にかかわる『十分に理由のある迫害』であるのか」

この判断の一線は、(むろん、厳正な難民審査を前提とするが、)しばしば状況によって変わる恣意的なもので、批准国と△△国との外交関係に左右されたりといった可能性もあるということも、分かっている。


ショックだったのは(今さらだが)、その恣意的な一線が、同性愛者の難民申請者の場合、露骨に、すさまじいばかりに、「公的/私的」または「カミングアウト/クローゼット」に直結している、ということだ。


日本で難民認定申請を却下されたイラン人ゲイ、シェイダさんに対する司法の判決も、たしか、「イランに戻っても、隠して暮らせば大丈夫」であったはず。


 しかし、男性が来日前は同性愛者であることを隠して普通の生活を送っていた こ とを踏まえ「訴追の危険を避けつつ暮らすことはできる」と指摘。「自分が望 む性 表現が許されないことをもって難民条約にいう迫害にはあたらない」と判断 し、原 告側の主張を退けた。


シェイダさんの在留権裁判の判決に関する朝日新聞の報道
http://www.kt.rim.or.jp/%7Epinktri/shayda/kitamaru.html


 よくこんな話を聞くー「そんなプライベートな問題をわざわざ言う必要もないのに」と。プライベート(私的領域)に留めておくべき事柄をわざわざパブリック(公的領域)に提示する必要はない、ということであろう。
(中略)
 そもそも、プライベート/パブリックの区分け自体が、異性愛を前提としており、「パブリックは無性でなければならないという規範が存在している中で,同性愛を性的趣味・嗜好とみなし、セックスと同一視していくことは、同性愛を公的な問題ではなく私秘的な問題とみなしていくこととなる」[風間 2002: 107-108]という現実も横たわっている。
 パブリックとは、じつは、「異性愛化された空間」である。そのことが認識されない限り、同性愛者のカミングアウトは「プライベートな問題」として矮小化され、無化される。そして同時に「わざわざ言う必要もないのに」という反応にみられるように「必要以上の自己主張」として解釈される。すなわち、カミングアウトという行為が、権力構造への問いを目的としているにもかかわらず、その問いかけを受けて側が「プライベートな問題」という解釈へとずらすことによって、発話者ーカミングアウトする/した側ーの「問題」とされるのだ。


堀江有里『「レズビアン」という生き方ーキリスト教異性愛主義を問う」pp. 40-41.


権力構造を問うーその権力が圧倒的で、問うところまでも行けない人間だったらどうすればいい。国で恋人が逮捕され処刑され(ゲイであったことが理由か、それははっきりとは分からない)、もしかして自分も、という恐怖に立ちすくんでいる人間だったら。



ある意味あれです、「同性愛者とか別にいてもかまわないよ。でもいちいちそれを主張されても違うと思う」という発言が、どれだけ危険なことになりうるかっていうお話ですわよ。あるいは、あれです、「こうすれば危険ではないよ」という発言と「こうしなければ危険な目にあっても仕方ないね」という発言とが、場合によってはどれだけ近づきうるかっていうお話ですわよ。


FemTumYum−上掲エントリ


随分昔に読んで頭を離れていない文章と似ている、と思い、本を引っ張りだして引用。



 キース・ヴィンセント:やはり、言えない状況がある、だから言わない、言わない限りでは差別を受けない、という構造ができているという現状ですから、日本にどれほどホモフォビアがあるかは全然わからない状態だと思うんです。アカーの裁判もそうなんですけど、行政、東京都によれば、アカーが府中青年の家で合宿をした際に同性愛者の団体であることをカミングアウトしたことで、混乱が起き秩序が崩れてしまった。それをこれから防ぐために、同性愛者、あるいはカミングアウトする同性愛者を入れないようにする。いろんな問題が出てきたと思いますけれども、なぜ出てきたかといえば、カミングアウトしたからです。逆に言うと−多くの同性愛者もそう思っていると思いますけれども−じゃあカミングアウトしなければべつにいいじゃないか、ということですね。そうすると自分が「言えない」という状況におかれながら、それを差別として認識しなくて、逆に「日本はホモフォビアがないんだ」と彼らも主張できるし、周りの人も、日本はアメリカと違ってそんな露骨な差別がないんだという言説がいつまでも再生産されているという気がするんです。それは日本の非常に欺瞞的なホモフォビアの特徴の一つだと思います。


河口和也/大石敏寛/キース・ヴィンセント「カミングアウトの政治性」『imago』1996年5月号(特集・セクシュアリティ:書き換えられる性の境界), pp. 153-154.


この馴染みのある論理が、同性愛者難民の認定の場で、つまり、ある国家における組織的な同性愛者迫害に対し、別の国家がその見解を示すときに、露骨に表われる。
司法が,行政が、はっきりと、公的声明として、言うわけだ。「命と生活と安定が惜しければ、黙って隠れていろ!」と。