子どもを産む…女性…?

昨日は学生時代からの友人夫婦宅に呼ばれてきた。
食事と酒をご馳走になりながらの雑談で、子どもを抱えて働く女性の大変さについての話になった。友人夫婦は一緒に暮らしてかなりになるが、子どもはいない。


いろいろと大変な話を聞いたあとでする質問じゃないとは思ったが、友人に、おまえは子どもはどうするの?尋ねてしまった。
友人は、欲しいとは思うけれど、と笑って言った「まず彼女が決めることだからね」


奥さんの仕事や目標を大事にしている彼らしい言葉なのだが、彼の言葉から、ちょっとした疑問が派生した。
異性愛家族で子どもを産むのは女性だから、決定権が女性にあるのは当然だ。だが、異性愛者男性は、「子どもを持とう」という決定を、どれほど主体的にするものなんだろうか。
熱心に子育てに取り組んでいる友人知人は何人もいる(奥さん任せの人も、何人もいるが)。だが、子どもを持つ決定に、男は(避妊なしの子づくりセックスの同意以外に)どのぐらい関わっているのだろうか。
子どもができてもいいように収入・環境を確保する…男が子持ちになろうとする人生設計とは、やはりそういうところなのだろうか。友人たちに尋ねてみたい気がする。


実は僕は、子どもが欲しいと思っている。漠然とした願望だけれど、子どもが欲しいか欲しくないかと言われれば、欲しいと思っている、と答える。


パートナーと子どもを持ち家庭を作りたいというわけではない。1人でもいい。老後が心配だとか(子どもが親の老後を押しつけられるというのは、悲惨だと思う。自分の老後は自分で見る)、自分の存在の証を残したいとか(自分の精子で子どもを作ることに関心はない、考えているのは養子だ)じゃない。
ほんとうに漠然とした願望でしかないが、僕はただ、親になりたいと思っている。その理由は、たぶんあまり誉められたものではない。僕は自分の父とあまり良い関係を持っていなかった。だから自分の意志で「きちんと親子をやりたい」という願望がどこかにあるのだ。


こういう、欠落感を埋めるような子育て願望は「間違っています」と言われそうだし、言われたら「間違ってるんでしょうねえ」と同意するしかない。だが、世の中には、親子関係のトラウマを抱えたまま親になっている異性愛者男女は、いくらでもいるような気がする。子どもさえ不幸にならなければ、親のトラウマなどどうでもいいのではないか。
衣食住をはじめ、親が子どもにしてやれること・やらねばならないことはたくさんある。同時に、子どもの人生に、親は大したことはしてやれない。子どもにとって、親とは限られた存在なのではないか。それなら僕も誰かの親になれるのではないか。


まだとてもとても漠然とした願望ではある。漠然としているが、時折シングルファーザーとして奮闘している人のブログを読んだり、何歳までにどのぐらいの広さの住居を持って教育費はどのぐらいかかって(やはり男親の考えることはこれだろうか?)…という夢想をしている僕がいることは、確かである。
しかし、男の子育ては、情報がない、モデルがない。gay parentingとかゲイを含むシングルファーザーの欧米の情報やサイトは、少し検索するだけでドドドッと出てくる。こういうソースも興味深いのだが、子育てにはそれぞれの社会がダイレクトに影響してくるのだから、日本のゲイに本当に役に立つとは言えない。
日本でも同性愛者の養親・養子紹介をしているグループがあるが(《日本初》レズビアンとゲイとストレートのためのメールマガジンMILK)、同性愛者の育児の情報は絶望的に乏しい。というか、ゲイの親はもちろん、異性愛者のシングルファーザーについての情報すら、少なすぎるのではないか。


「家族ってのは選ぶもんじゃなくて、気がついたらそばにいるもんですよ」
映画『ハッシュ!』の直也の母親のセリフだが、ゲイは選ばなければ子どもや家族を持てない。
規範的な家族を生きる異性愛者には、選択を強制される苦しさがある(〜歳までに結婚しなければならない、〜歳までに子どもを持ためばならない…)。だが、その強制は一応、「幸福」という肯定的な姿をしている。「幸福」の強制は、それが受けいれられない場合否定より厳しいことになるのだろうけれど、社会的な認知のあるライフコースの幸せに自己同一化することができる人は、たくさんいるだろう。
同性愛者や、異性愛家族からはじき出された人間が家族を持とうとするとき、否定的な懐疑(ゲイの親なんて…シングルなんて…血のつながらない子どもなんて…)の圧力のなかで、自分で選択してゆかなければならない。


異性愛家族の規範からはじき出された2人のゲイと1人の女性が「家族」を作る橋口亮輔監督の『ハッシュ!』が傑作だということは、いまさら言うまでもない。

ハッシュ! [DVD]

ハッシュ! [DVD]


河口和也氏は、著書『クィアスタディーズ』で、規範的な異性愛家族からこぼれ落ちたクィアな3人−ゲイの勝裕・直也、「性的に過剰な女」のレッテルを貼られた朝子ーが、規範家族の抑圧に悩み、抗いながら、オルタナティブクィア「家族」を選択してゆくプロセスを、『ハッシュ!』のなかに読み解いている。

クイア・スタディーズ (思考のフロンティア)

クイア・スタディーズ (思考のフロンティア)


しかし、僕はこのすばらしい映画に、納得のいかない引っかかりを、少し感じている。
まず、規範家族に匹敵するオルタナティブとしてのクィアな家族は、子ども(しかも男の精子と女性の体で産む子ども)のナマの存在感がなければ生まれないのか、ということ。
そしてそれ以上に、その子どもを持とうという意志が、朝子のはげしい、荒唐無稽に見える衝動だけに拠っていることだ。


朝子は本当に魅力的なキャラクターで(片岡礼子という俳優の魅力でもあるのだけれど)、クィアな家族の形成というこの映画を引っ張っていくのは、彼女のキャラクターによるところが大きい。
勝裕、直也のゲイカップルと朝子の結びつきがオルタナティブクィアな家族にまで深まるのも、そしてそのために勝裕の兄夫婦や直也の母の規範家族と衝突し、規範家族の枠組みさえ揺るがすことになるのも、ただ、勝裕を父親にして子どもを産みたいという朝子の衝動的な願望と行動があったからである。
医者に母親になる能力を否定され子宮摘出手術を勧められた朝子の「子どもを産もう!」という突発的な意志がなければ、勝裕と直也にクィアな家族を選ぶ機会は訪れなかった。


言い換えれば、勝裕と直也は、規範を突破してクィアな家族を作るための決断をなにもしていない。ゲイの勝裕と直也が異性愛家族の規範に感じている抑圧と不安感は、僕にはとてもリアルに共感できるものだけれど、彼らはただ、子どもが欲しいという朝子の衝動に、戸惑いながらおんぶしているだけに見える。


イカップルと1人の女性がクィアな家族を作る映画は、もう1つある。アン・リーの『ウェディング・バンケット』だ。


こちらは『ハッシュ!』のような、規範的異性愛家族とのガチンコの衝突はない。規範家族(そして法)となんとか折り合いをつけようとするゲイ(そして不法滞在者)の四苦八苦がコミカルに描かれ、クィアな家族は偶然の結果としてなし崩しに生まれる。だが、アジア的家族の絆にがんじがらめになった中国人ゲイ・ウェイトンの息苦しさが、アメリカ人パートナー・サイモンとのカルチャーギャップでさらに強調されて、かなり生々しい。
地位のある教育者で、映画監督の仕事を認めてくれない父親との葛藤があるらしいアン・リーの、「父の伝統と子の自由」の融和の願いがこめられているようにも見える。彼の傑作「父親3部作」に一貫しているテーマだ。


こちらでも、クィアな家族を可能にするのは、グリーンカードのためにウェイトンと(本当は彼への恋心を抑えて)偽装結婚したウェイウェイの偶然のような妊娠である。
ウェイウェイは画家として生きてゆこうとしている意志の強い女性だ。彼女がウェイトンの子を産むことになったのは、酔った勢いのセックスと、中絶を土壇場で拒む彼女の少しエキセントリックな性格のためである。
なぜウェイウェイが子どもを産む決意をしたのか、彼女の気持ちは観客(少なくとも僕)にはいまひとつ分からない。だが、ウェイトンのクィアな家族作りも、孫を望む両親の異性愛家族規範との和解も、ウェイウェイの決断の「わけのわからなさ」によってはじめて可能になっている。


人生をほんとうに意志的に選択できる人間は、そういないだろう。異性愛家族の規範を外れた者たちが、戸惑い、試行錯誤しながらクィアな家族に近づいてゆく『ハッシュ!』や『ウェディング・バンケット』は、ハーヴェイ・ファイアステインの『トーチソング・トリロジー』のようなゲイリブ精神に溢れる意志的なクィア家族作りよりも、ずっとリアルな身近さを感じるのは確かだ。


だが、規範を突破しクィアな家族を実現するきっかけを、どちらの映画も「子ども(しかも、養子じゃなく女性が産む子ども)」「女性の産もうという意志」に依存しすぎているところに、僕は戸惑いを覚える。女性の「産む本能」をやたらに神秘化し、無限大の力を期待しているような気がする。そして、ゲイの登場人物は、規範の障壁を打ち破るような行動をなにもしていないのだ。


だいたい、女性の「子どもを持ちたいという衝動」への過大評価は、すでに女性に対する抑圧として働いているのではなかったのか。
政治家が女性を産む機械だと言い、「結婚して子ども2人の『健全な』家庭」を持て、と言う。その一方で、妊娠して仕事を退いたタレントがバッシングされる。女性の産む能力に依存しながら恫喝する。国や社会の一部がなりふり構わず女性に「産み育てる仕事」を強制しようとしていることがあからさまになり、女性の「子どもを持ちたいという衝動」に希望を託すことの嘘くささばかりが目につく現状、朝子とウェイウェイの「子ども」に依存している2つの映画のクィアな家族は、どこか危うく感じてしまう。
クィアな家族さえ、もっとも保守的な家族のように、「子どもを産む女性」に依存するのか−男は、そこで何をしているのか?


子どもを産む女性に依存しないオルタナティブな家族の可能性を描いた作品は、たくさんある。『ハッシュ!』や『ウェディング・バンケット』は、子どもを産む女性を規範家族のなかから取り出し、クィアな家族のなかで新しい意味を与えた、と考えられるかもしれない。
しかし、異性愛社会で女性が「子どもを産む」能力ゆえに抑圧されていることや、子どもを産まないゲイが一生ゲイとして生きてゆこうとしていることを考えると、「子ども」が女性からしか産まれないという信仰が終わっていることを、肝に銘じたほうがよいのではないか。


子どもを産む女性の神秘化が終わらないなら、女性が子どもを産めない,産んでも育てられない、そういう不安を煽る情報が氾濫することも、いっそ良いのではないかと思ってしまう。


子どもを持つ衝動を女性に依存することを、いいかげんに止めるべきなのだ。