ボードレールとレスボフォビアの系譜(承前)


ボードレールとレスボフォビアの系譜
の、続きである。
(この話題を始めてしまったことをもうかなりヤヴァいと感じているのだが、とにかく、始めてしまったので、とにかく行ってみる。)

モンスター化するレズビアン


ボードレールレズビアン幻想の本質を看破したベンヤミンの洞察は、そのまま、同性愛嫌悪とも女性蔑視とも違うレズビアン嫌悪(レスボフォビア)をはらむ女性同性愛イメージに光を当てるように思う。


つまり、エロティックかつヒロイックな憧憬と好奇心を浴びながら、決して現実の人間としては扱われないレズビアン像が、えらく豊かなイマジネーションの中で「モンスター」化してゆく、ということだ。
ボードレールレズビアン像や近代のレズビアン・イメージの発達、という問題については、きっとすでに書かれていて「今さら」かもしれないが、とりあえずかき集めた自分の考えをまとめるためもあって、少し追ってみようと思う。


ベンヤミンによれば、ボードレールが惹かれたのは「女性の男性化」だった。「恋をして詩を書く女、男性のようなサフォー」(「レスボスの島」)であった。男性化したヒロイックな女性像がレズビアンに転化したのあって、女性同性愛者に興味があったわけじゃないのである。


ボードレールが影響を受けたゴーチエ『モーパン嬢』(isbn:4003257456)も、男装した女性がバイセクシュアル化する物語だ。


僕なんか同性愛者の感覚では、なんつう異性愛中心思考、と思ってしまうけど、男性同性愛=男の女性化、女性同性愛=女性の男性化、という思い込みは,現代だって根強い。また、トランスジェンダリングがヒロイックだった時代だったのだ(ジョルジュ・サンドの同世代である)。


ベンヤミンは、この時代に可視化しつつあった「女性の男性化」を、男女平等意識の進歩や経済的要請による女性労働力の動員というあくまで政治的経済的なコンテキストで見る。だが、ボードレールは−たぶん、他の作家たちも−それを無視した。

かれは[女性の]男性化の進行を肯定していた。しかし同時にかれにとって重要だったのは、その過程を経済的な強制から切り離して見ることだった。だからかれはその発展傾向に、純粋に性的なアクセントを与えるにいたる。かれがジュルジュ・サンドを赦せなかったのは、おそらく、かの女がミュッセとの情事によって、レスボスの女の相貌を崩したからだった。


ベンヤミンボードレールにおける第二帝政期のパリ」『ボードレール』(岩波文庫)p.280.


つまり、「男になって女を誘惑できる女」という、「女性の男性化」の性的な部分に特化したリアクションの俗流化したものが、レズビアン・イメージに流れ込んだのだ。


ここで確認しておくが、男性化した女性とかレスボスの女とかいうのは、今でいうレズビアン性的指向が同性に向く女性ではなく、実質、女性の規範を打ち破り、ほとんど男と対等に行動する女性のことである。こうした女性自身がジェンダー超越の自己表現として同性愛に向かったり、レズビアンが男装したりという事実もあったのだが、社会の、とくに男性の目に、フェミニスト=男性化した女性=レズビアンという安直な連想が、またかなり安直に定着したらしい。
(こうした異性愛中心主義的・ジェンダー論的レズビアン観は、のちに20世紀、レズビアンフェミニズムのなかに自分たちのアイデンティティを獲得してゆく過程で、「レズビアンは男を模倣したがっている女性」という偏見として、彼女らを悩ませることになるのだと思う。)


「男性同性愛者の古代ギリシャ萌え」エントリでヴィクトリア朝からエドワード朝の社会背景についての情報をあれこれ検索していたとき、引っかかってきたものだが−

反フェミニズム:ヴィクトリア朝時代小説選集 全6巻


Eliza Lynn Linton, The Rebel of the Family, 3 vols. (304pp, 282pp,
288pp, London: Chatto & Windus, 1880).
社会的な成功を夢見る女性が、フェミニストの罠にはまり男性嫌いのレズビアン女性の餌食になる寸前に、親切な男性に救われ、彼と結婚する。フェミニズムの社会的逸脱を攻撃した小説。全3巻にわたる長編小説。


五月蝿いフェミニスト=いたいけな娘をレイプする男嫌いのレズビアン、という、今では「香ばしい」ネタにしかならないような設定だが、これがわずかなりともリアリティを持って受け入れられた時代だったのだと思うと、シャレにならない。



Ladies of Creation-Bloomerism (1951)
Borrowed from John Leech Sketch archives from Punch-feminism
『パンチ』の「ブルマリズム・シリーズ」。女性の最初のズボン的衣装ブルマーを槍玉に上げたもの。風刺画ではあるが、「女性が男性の衣装を着ると男性化して男性的に行動(たとえばプロポースとか)する」とマジで思っていたらしいのが、怖い。


ジョルジュ・サンドの恋人だったミュッセ(1810-1857)が彼女との破局のあと書いたとされるレズビアン官能小説『ガミアニ』(isbn:4794923112)。あくまで伝・ミュッセなのだが、レズビアン・イメージを語ったかなり香ばしい一節が、グーテンベルグ21のお試しで読める。
グーテンベルク21−ガミアニ夫人



同性セックスに3P、獣姦もこなすセックスマシーンのレズビアン、 ガミアニ夫人は、別れたジョルジュ・サンドを意趣返し的にモデルにした、という風評がくっついている。ミュッセ作かどうかも分からないんだから本当に風に飛ぶような評なわけだが、こういう噂が言い伝えられること自体、「手に負えない『男勝り』の女=レズビアン」の俗流イメージが意識下で定番なことを感じさせてしまう。


ボードレールは男性化した女性に惹かれたが、現実社会で政治的社会的に男性と対等な地位を主張する女性には「萎えた」。ボヴァリー夫人のように、破滅に突き進むことを前提に一瞬の生を男性的に−野心的に欲望に能動的に−生きるヒロイックな女性にだけ、「萌えた」。


こういう、なんだか勝手極まりない女性観が、ファンタジックなレズビアン幻想に辿り着くのは、あまり不思議ではない、ように僕は思う。政治的社会的に女性が男に対等になるという想像にはゲンナリしても、性的にはそれが可能だと、彼は信じていたらしい。なぜなら、「女同士のセックスは男のよりいい」からだ。別に同性愛指向を自覚しているわけでもない女性でもハマる−


「地獄に堕ちた女たち」も、「猛獣」で「逞しい」「情欲激しい」猛々しいプライドに満ちたレズビアンのディルフィーヌと、彼女との初めての同性愛体験の快感と不安に震える「あどけない」「繊麗な美女」イッポリートの超暑苦しいやり取りという絵に描いたような設定なのだが、ここでのディルフィーヌのセリフは、とにかく男の愛撫より女性の愛撫の方がどれだけいいかという妄想の羅列である。


こうした思い込みが、たぶん、レズビアンのセックス・モンスター化に拍車をかけてゆく。そして、ボードレールより少し後に、レズビアンアイルランドで本物の怪物=レ・ファニュ(1814-1873)の『吸血鬼カーミラ』(1872)(isbn:4488506011)になる。


他にポルノとか絵画とかのレズビアン・イメージを考え始めると、収拾つかなくなるし、いいかげん危なくなっている僕のキャパを完全に超えるので、このあたりで逃げようと思うのだが−



クリムト(1862-1918)『水蛇』
レズビアン幻想とされているが、もはやレズビアンは完全に人間じゃなくヒュドラである。
といっても、クリムトの女性が基本的に人間かどうか怪しいが−


こうした異性愛者によるレズビアン妄想の上っ面を撫でて批判するのは、安易だとは思う。
カーミラはアンチ・ヒーロー的先達として、レズビアンからも愛された。男性中心異性愛社会でつむがれてきたレズビアン・イメージは、両義的でとても豊かでもあるのだと思う。ミステリアスなレズビアン幻想を追ってゆくと、異性愛男性がどれほど女性を愛しているのか、ということを,逆に痛切に感じてしまうのだ。


人間より魅力的なら、モンスターでもいいじゃないか、という考えかたもある。体制に駆られ追われるモンスターたちにこそ、ヒロイズムと生命の輝きがある。ボードレールにとって、レズビアンは「近代のヒロイン」だったからこそ、「市民」(平凡と俗物性の象徴だ)などというつまらないものであってはならなかったのだ。イメージとしてのレズビアンは、モンスター的だが美しく魅力的だった。だから、誰も疑問を持たなかったのだ。彼女らが人でないことに。


だが、それが問題だ。ミステリアスなレズビアン・ファンタジーはどこまでも艶やかに広がってゆくのに、僕らはいつになっても平凡な人間としての「女性を愛する女性」に出会わない。豊穣な文学的イメージの中の女性同性愛者について語るとき、彼女らが「現実」に居場所があるべき「人」であることを忘れなかったベンヤミンに僕は頷きたいし、そこで男性同性愛に対する嫌悪とはまた異なるレスボフォビアの複雑さを思い知る気がするのだ。


モンスターのカーミラは制裁を受け、少女は結婚して賢明な女性となりヘッセリウス博士に体験談を書き送る。レズビアンのイコンとなったカーミラも、やはり「現実のなかには再認されていない」。ちなみに最初に出版された『モーパン嬢』日本語版のタイトルは『女怪』である。