ボードレールとレスボフォビアの系譜


ボードレール(1821-1867)がレズビアンに強烈な思い入れを持ち、(彼の脳内イメージの)レズビアンに寄せる詩を書いたことは有名だ。
柿沼 瑛子, 栗原 知代『耽美小説・ゲイ文学ブックガイド』(1994)にも、『悪の華』は「レズビアン文学」としてピックアップされているようだ(10th Muse-『耽美小説・ゲイ文学ブックガイド』感想ページ)。


「同性愛の歴史」というと、古代ギリシャ少年愛や日本の衆道やオリエントの同性愛や歴史人物の同性愛の記録がすぐ挙げられる。が、それはほとんどが「男性同性愛の歴史」で、レズビアンの歴史は、それこそサッフォーの神話から近代まですっ飛ばしてしまうぐらい、語られていることが少ないように思う。


その一方、女性同性愛にまつわる言説は、芸術的・文学的イマジネーションのなかで、男性同性愛にはない独特の発達を遂げていた印象を受ける。


ただし、ここで言うのは、レズビアン作家の手になる文学じゃなく、もっぱら異性愛者(男性)作家による「妄想としてのレズビアン」だ。


19世紀はそういうレズビアンバイセクシュアルをモチーフにした文学が、次々書かれた。ボードレールの「レスボスの女」の詩は、そういう流れに属している。


「レスボスの島」「地獄に堕ちた女たち」には、ボードレールの女性同性愛者に対する強烈な思い入れとともに、ただの同性愛嫌悪とは違う、女性同性愛に対する独特の嫌悪−レスボフォビアが、男の僕が読んでもガツンガツン来るほど横溢しているのを感じる。


サッフォーに寄せたレズビアン讃歌「レスボスの島」は、たしかに美しい。
とくに、ボードレールがサッフォーのために彼女が身を投げたルカート岬の哨兵になるくだりは、規範(不義だの義理だの正邪だの)に抗って雄々しく生きるレズビアン(というイメージ)へのボードレールの憧れをのぞかせて、胸に迫る。


〜〜〜


レスボスの島、フリーネのやうな美女と美女とが 互に恋して、
その溜息は 一つとして谺を響かせないものはなく、
神の都パフォスと等しく 天の星が島を讃へて、
美女神さへ 同性愛のサフォーをまさに嫉妬する、
−レスボスの島、フリーネのやうな美女と美女とが 互に恋して、


〜〜〜


不義だの義理だの正邪だの、そんな掟が何になる。
崇高な心を持った処女たちよ、多島海の光栄よ、
汝らの宗教とても 他と同じく 峻厳な宗教だから、
地獄だの天国だのを 恋愛は冷笑するだらう
−不義だの義理だの正邪だの、そんな掟が何になる。


〜〜〜


その時から俺はルカート岬の上で 見張りをする、
突刺すやうな正確な眼の哨兵が 夜も昼も
二本マストの大船か、小帆船、快速の三本マストか
遥かの沖の天空に その船影のふるへるのを 覗ふやうに、
ーその時から俺はルカート岬の上で 見張りをする、


海が果して 寛容で純情かどうかを 知るために、
そして嗚咽を 岩が反響(こだま)して とどろく中に、或る夕、
許してくれるレスボスの島に向って、身投げした
サフォーの気高い亡骸を 再び運んでゆくだらうか、
海が果して 寛容で純情かどうかを 知るために。


〜〜〜


「レスボスの島」『悪の華』(鈴木信太郎訳/岩波文庫)pp.340-345.


しかし、「地獄に堕ちた女たち」は、彼がレズビアンに抱いていたヒロイズムが、かなり陳腐でポルノグラフィックなイメージで満たされた逸脱願望の投影であることを露呈している。ベンヤミンは「対極的」と評したが、同じ妄想の表と裏のように見える。


〜〜〜


わたしの接吻、そのほのぼのと軽いこと、透きとほる
大きな湖水を、夕まぐれ、蜉蝣が愛撫するやう。
それなのに男の接吻は,土を耕す鋤の刃か
荷車のよう、深い轍を掘込むでせう。


その接吻は、無慈悲な蹄の牛馬を
繋いだ重い車のやうに、あんたを轢いて 通るでせう…


〜〜〜


わたしたち それでは何か変なこと したのでせうか。
出来るなら、この恐ろしさ この不安、説明してよ、
あなたに「天使」と呼ばれると、わたし 怯えて震へるわ、
それでも 自然と唇を あなたの方に差上げちゃうの。


そんな目つきで見ないでよ、ねえあなた、わたしの恋びと、
たとえへ あなたが仕組まれた陥穴であったとしても
それが わたしを地獄に堕す基であらうと、
わたしの選んだお姉さま、わたし お姉さま恋するわ


〜〜〜


児を妊まない 汝らの鋭い肉の享楽は
からからに喉を渇かし 皮膚の感じを硬直させ
淫欲の凄まじい風が 激しく荒れ狂ひ
よれよれの旗さながらに 汝らの肉をはためかせる。


世に生きる人を離れて、彷徨って、地獄に堕ちた女たち、
狼のように 荒野を 縦横に横切って馳れ。
放埒 無惨な魂よ、汝らの宿業を果すがよい、
汝らが身に抱いている無限の神を 遁れ去れ。


「地獄に堕ちた女たち」『悪の華』(鈴木信太郎訳/岩波文庫)pp.348-354.

 この[「レスボスの島」と「地獄に堕ちた女たち」の]目立った相反は、つぎのように説明がつく。ボードレールレスボスの女を、問題としてはー社会的な問題としても,人間の素質の問題としてもー見ていなかったから、かの女にたいする態度をも、散文家ふうにといおうか、決定することがなかった。かれは、近代のイメージのなかにかの女のための場所を置いたが、現実のなかにはかの女を再認しなかった。(略)ボードレールがいつであれ好意的に、かれの文学をもってレスボスの女に肩入れしたことがある、と仮定するならば、間違っていよう。『悪の華』裁判での弁論のためにかれが弁護士に出した提案は、そのことを証拠だてている。市民から排斥されなければ、この情熱のヒロイックな性質は成り立たない。そうかれは考える。「おちてゆけ、おちてゆけ、あわれな犠牲者どもよ」というのが、ボードレールがレスボスの女にたむける最後の言葉だ。かれはかの女を没落にまかせる。かの女は救われえない。というのも、かの女についてのボードレールの構想のなかに、解決不能の混乱があるからである。


V.ベンヤミンボードレールにおける第二帝政期のパリ」『ボードレール岩波文庫, pp.258-259.