オリバー・ストーンの目下のケンカ相手はヘテロノーマティブ社会、か?


映画研究者hanak53さんのブログで、オリバー・ストーンコマンダンテ』の評を拝読し、「おおおっ」とのけぞった僕である。


ハナログー『コマンダンテ』は腐女子におすすめ
ハナログー密着するフィルムメーカー

いわゆる「ホモソーシャルな男同士の絆」からはエロティックな強度において明らかに逸脱しており、かといって社会的・文化的な制度としての「カップル」にも当てはまらない「男同士の愛着の絆」へのこだわりが、『アレキサンダー』においてはスペクタクル史劇、『ワールド・トレード・センター』においてはパニック映画と家族愛のメロドラマというジャンルに対する批評性を導入していたことを鑑みるに、『コマンダンテ』の、「適切かつ妥当」な範囲を超えて肉体的にカストロに密着しつつ、マッチョイズムや同性愛嫌悪に対するツッコミを入れてゆくというオリバー・ストーンのスタンスはやはり興味深く、かつ、『アレキサンダー』からいきなりオリバー・ストーンが面白くなった、という個人的な印象の回答もどうやらここに…


ハナログ−密着するフィルムメーカー


同性愛者矯正収容所キューバ指導者と同性愛者死刑のイラン大統領オリバー・ストーンがいちゃいちゃし、世界のやおい腐女子男子の皆さんに「ホラホラここが萌えどころだよ〜」と呼びかけるのか、すごい光景ではないかーなどとふざけたことを言ってはhanak53さんや腐女子に失礼かもしれないが、ケンカ上等説教親父オリバー・ストーンのケンカの矛先はこの数年ヘテロノーマティブ社会の歪みに向かっていたのか、ということを気づかされ、「うーん」と感動に浸っている僕である。

猥褻行為〜キューバ同性愛者強制収容所
Mauvaise conduite (1984)-IMDb


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ストーンの『アレキサンダー』(2004)が、その同性愛描写に対する轟々の批判と酷評をもって何を抉り出したかは、田亀源五郎さんのレビューが言い尽くしている。

映画で語られる同性愛の要素(略)は、そこには物語的な必然性はない。同性愛的な描写は、この時代には同性愛がタブーではなかったということを描くためにしても、テーマの一つに同性愛を盛り込むためにしても、いずれにしても中途半端だ。変に執拗なわりには、深く突っ込まれることがない。
 ところが、仮に、歴史上の偉人が同性愛者であったということを描くのが、その偉人を貶めていると怒るとすれば、それはそう怒る人々が、同性愛を劣った忌むべきものだという、差別的な考えを持っているということを露呈することになる。また、必然性がない同性愛的要素の描写に疑問を唱えるとすれば、それはすなわちそういう疑問を抱く人々が、一見理知的に同性愛を受容しているように見えながら、実のところは彼らが同性愛に対して「必然がなければ表に出てはいけないもの」と、無意識のうちにやはり差別的に捉えていることを示してしまう。
 実のところ、この映画のアレキサンダーとヘファイスティオンの関係は、もしそれが男女のものであったのならば、観客は何の違和感もなく自然に見るだろう。しかしそれが同性愛であるというだけで、こういった「なぜ同性愛者にするのか」「なぜ同性愛を描く必要があるのか」といった疑問が噴出する。
 (略)現在ではゲイを描いた映画は、珍しくも何ともなくなった。しかし実は、それはあくまでも映画の主眼が同性愛の特殊性に搾られた場合か、あるいは同性愛者に特定の役割を担わせる場合にのみ通用しているだけであり、ごく当たり前に同性愛者が登場することについては未だに否定的だということを、この映画を巡る論議は露呈する。
 つまり、この映画における同性愛的な要素を、「なぜ」を抱かずにそのまま受容することができなければ、その観客はアレキサンダーが劇中で非難している、「他文化を受け入れようとしない人々」と同じになってしまうのだ。
 これはかなり挑発的であり、問題提起の手法としては興味深い。


田亀源五郎's Blogー『アレキサンダー』


もちろん、この映画の「同性愛者」アレキサンダー大王があまりにも現代的すぎる(古代マケドニアの男性同性愛文化がどんなものだったか知らないが)という批判もあるだろうが、オリバー・ストーンの史劇に露骨な現代批判を読むのは誤読ではない。なにしろ、ペルシャのダレイオス3世が「ビン・ラーディンそっくり」という感想もあるぐらいだ。


しかし、映画が話題になった当時、この監督のことを、困った人だなあ、と思った記憶もある。
同性愛表現に対するかの国での予想のつく非難嘲笑(酷評されたのは別に同性愛表現の部分だけだったわけじゃないが)は、それが英雄史劇であることで「英雄を同性愛者に『貶めた』」と言わんばかりに増幅され、ついにはギリシア弁護団アレキサンダー名誉毀損(?)で訴訟を起こしたなんて、ケンカ大好きそうなオリバー・ストーンとしてはどんとこーい!と望むところだったかもしれない。が、ストーンおぢさんとマジョリティ/保守/ヘテロノーマティブ社会との代理戦争の戦場になった「同性愛」がタコ殴りにされ、映画批判の爆撃を受けて焦土と化してゆく*1のを見るのは、いささか複雑な気持ちだった。

あまつさえ主演のコリン・ファレルは男との絡みがいかにイヤだったかをメディアで喚き*2、彼に対する僕の評価を著しく下げてくれた。この荒れまくった映画報道の中で、ヘファイスティオン役のジャレッド・レトが映画の同性愛描写について一貫してポジティブな発言を続けていた*3のが僕には妙に印象的で、その後、彼が真面目だか冗談だか分からない「なんちゃってゲイ・カミングアウト」をした*4のを知ったとき、そういうことをしても不思議じゃない男だろうな、と、なんとはない好意とともに納得したのだ。



まあ、これは単なる僕の愚痴で。僕は田亀さんが指摘している、オリバー・ストーンがこの映画でやってのけた問題提議をやはり評価したいし、映画としても、大作ならではの多少の破れかぶれはあれ、とても好きである。
ヘテロノーマティブ社会に噛みつくオリバー・ストーンには、「いけいけドンドンもっといけ」と、大いに応援したい。


しかし、これはhanak53さんの批評からは離れる僕の考えなのだけれど、ストーンおぢさんがカストロおぢさんに「ごろにゃん」としたところで、それがヘテロノーマティブ社会の歪みとしてのホモフォビアに切り込む手段になるか?ということには、僕は懐疑的である。


前エントリに登場いただいたセジウィックさんの言葉によれば、ホモソーシャルな絆がほんの少し視点をずらすと驚くほど「同性愛的」に見える現象は、「ホモソーシャルな絆」が(まさにやおい腐女子が喜ぶような)同性愛的要素にずれこむ可能性をはらんでいることを意味しない。そうではなく、ホモソーシャルホモセクシュアルの境界が「曖昧に思われるという先入観」が、(西欧社会の)男に常に威圧的な管理の力として働いていることを示しているのだ。

 男同士の絆を世俗的により円滑に統制するために…同性愛者だけでなく、いわゆる同性愛のサブカルチャーとは無縁の男性たちをも強力に統制するためには、もっと巧妙かつ有益な戦略が必要であった。すなわち、自身がホモフォビックな「無差別」攻撃を受けるのかどうか,同性愛者にわからないようにしておかなければならないのはもちろん、「自分は同性愛者ではない」(他の男性との絆が同性愛的ではない)という確信を誰ひとりとして持ち得ないようにしておかなければならないかったのである。…要するに、男性にとって男らしい男になることと「男に興味がある」男になることとの間には,不可視の、注意深くぼかされた、つねにすでに引かれた境界線しかないわけだ。…今でも人々は競って,文化の残余物ともいうべきダブル・バインドを設定し、操り,利益を得ようとしているのである。


E.K.セジウィック『男同士の絆』pp. 135-137.


つまり、男の接触が過度にエロティックに見えるとき、異性愛者はそれを「同性愛的だ」と見ているのではない。「彼らは同性愛者か否か」という無意識の選別をしているのである。ホモソーシャルホモセクシュアルの境界が「曖昧に見える」のは、異性愛社会を管理する力にとってその方が都合が良いからだ。ヘテロ男の絆に漂うエロティシズムの「ダブル・バインド」は、「ホモソーシャルホモセクシュアル」ではなく、「ホモソーシャルホモフォビア」なのだ。
映画で男の関係がエロくなったとき、観客の目にホモフォビアが起動し、「これはホモではない」ということが不断に確認される。そして「許容」のホモソーシャルと「排斥」のホモセクシュアルの境界は、(曖昧でありながら)さらに補強されるのだ。


だから、「ヘテロと分かっている」男同士のいちゃつきが与えるものは、それがいくら観客を驚かせても、せいぜい絶叫しても死ぬことはない遊園地的な「スリル」でしかないのではないか。やおい女性を喜ばせ、自分と同性愛の距離を実は結構気にしているノンケ男を「ヒヤッ」と楽しませるか、激昂させるだけだ。ヘテロカストロおぢさんは、ストーンおぢさんを「よしよし」としながら同性愛者を弾圧することができるのである。
かりにそうした描写が、『アレキサンダー』のときと同じようにヘテロ社会を激昂させたところで、つまりホモセクシュアル・パニックを挑発したところで、それは具体的にどういう批判性を持ちうるのか、僕はうまく想像できない。ホモセクシュアル・パニックによって殴られるのは、やはり同性愛者なのだ。


マッチョ・ホモフォビック・ホモソーシャル社会を切り崩すっていうのは、どういうふうにして可能なのかなと、僕は考え込んでいる。


7月20日追記


追記としては随分遅くなってしまったけれど、このエントリで引用させていただいたhanak53さんが、さらに『コマンダンテ』の感想を書いて下さった。
僕のエントリを踏まえて下さって、ひたすら恐縮である。お礼申し上げる。


ハナログー『コマンダンテ』其の弐


カストロのドキュメンタリーといえば、必然的に家父長的な革命指導者を描くことになり、さらにチェ・ゲバラとの友情神話で、ホモソーシャル/ホモエロティックなトーンを帯びること必定だ。
その一方で、強制収容所UMAPでの同性愛者弾圧がある。
こうした構図を、オリバー・ストーンがどう抉っているか、hanak53さんの分析がスリリングである。
ゲイの人気も高いガエル・ガルシア・ベルナルの『モーター・サイクル・ダイアリーズ』(2004)でさらに高潔な理想主義者のイメージを強めたゲバラも、政策的な同性愛者迫害に本当に関与がなかったのか?という疑念は,皆無ではないのだ。


Washington Blade-2004/10/29-Che Guevara: liberator or facilitator?
Si Soy Gay - by Santo GayLatino GLBT News, Information, Commentary & Observations by Santo Gay, Dallas, TX USA-June 2, 2007-Che Guevara Was an A-hole!


あわせて、hanak53さんが教えて下さった、映画の中のホモソーシャルと女性観客の関係についてのテキストが、またとても興味深かった。


テアトル・オブリーク−テキスト−鷲谷花「複製技術時代のホモエロティシズム」

・・・現在のメジャー映画における俳優の身体のエロティシズムの変容には、女性観客の能動的な欲望と、女性が主体となって作り上げてきた消費文化のありかたが深く関わっているということも指摘できそうです。しかし、こうした新しいタイプのメインストリームの映画においては、男性同士の絆のみが重要で本質的な人間関係であるとみなし、そうした真に貴重な絆を結びつけ、維持するための手段としてのみ女性の存在を許容し、要請しつつ、肝心な局面では蚊帳の外に追いやってしまうようなイデオロギー、つまりは昔ながらのホモソーシャリティ女性嫌悪ミソジニー)が公然と息を吹きかえしているようにも思われます。ホモソーシャルな体制は、ホモエロティックなリビドーをアリバイに、女性観客を共犯者として取り込みつつ生き延び、みずからを増幅強化しているのである。・・・


鷲谷花「複製技術時代のホモエロティシズム」


僕らが日常的に知っているホモソーシャル社会というのは、永田町のオヤジみたいなのが結託しておのれのテリトリーを守り、ルールを守らない若い者を陰険に虐め男のテリトリーを冒す女性を容姿や結婚歴や子どもの有無まであげつらってネチネチと嘲笑うアレである。その一方で、「男同士の絆」がいかに素晴らしく魅力的で神聖冒すべからざるものかというイメージが、映画やドラマや小説や漫画やアニメを通じてバンバン喧伝される。


「現実の男同士の絆」の優越に、いまどき女性が大人しく従うはずがない。だからテキも戦略を変えた。これからの時代は「女性にウケるホモソーシャル(?)」というわけだ。
支配制度としてのホモソーシャル社会など、現実では崩壊しつつあるのに、「男同士の絆」の神聖なイメージは、男よりむしろ女性を取り込んで生き延びようとしているらしい−ただ瞠目。

*1:と書くとなんか大げさっぽいが、ウェブ上の批判酷評嘲笑記事をまとめ読みし、パンチドランカー状態になったときの記憶が強烈なのである。

*2:「2秒間男とキスするか、20分間ウェイト・トレーニングをするかのどちらかを選べって言われたら、トレーニングのほうを選ぶよ。2秒でも長すぎるぜ」(エキサイトシネマ?2004年11月) 「男の髭が自分の唇に押しつけられたとき、すごく不愉快だった。だけどそれが仕事の一部だ。僕は誰に不満を言えばいい?」colin+farrellさん「アレキサンダーの酷評研究(1)」から抜粋。

*3:IGN.com-Interview: Jared Leto-Talking with Alexander's main man.「俺は、脚本を読んですぐに、彼らの関係は愛だと分かった。4ヶ月後、[映画の歴史考証担当の]ロビン・レーン・フォックスが、アレキサンダーのすごい伝記を書いた。彼は俺に撮影の初日、「君がヘファイスティオンとアレキサンダーについて知らなければならないのは彼ら2人の間の愛だけだ」と言った。だから俺はそれを再確認したよ。オリバー(・ストーン)は俺たちの関係の一番重要な部分をスクリーンで表したんだ」

*4:ゲイ雑誌『Out』のインタビューで。