セーヘキ、セーヘキ、セーヘキ
魅力的な文章やはてなブコメを書いたりするさるブロガーさんのブログ経由で、こんなテンプレが出回っているのを知ったりする。
自分のセックスの好みを淡々とニュートラルに申告できるのが、ちょっと面白い。好きな人は、やってみるといいかもしれない。
僕はこういうモノを渡されると、おそろしくクドクドと迸る情念をつづりそうで恥ずかしいから止めておく。それに、「女(男)が目の前で他の男(女)と」とか「同性」というのが入っているあたり、異性愛者向けだ。
いや。最初に一読したとき、「同性」は性的指向じゃなく異性愛者が快楽のためにやってみるsame sex intercourseかなとさして気にならなかったのだけれど、もしかして「同性愛は性癖」って言いたいのかな。
はてなキーワードの「性癖」の説明に、思わずウケたことがある。
本来は性質の偏り、癖と同様の意味。
近年はセックス上のこだわり、フェチ等の意味で使われることが多く、本来の意味での使用が避けられるようになってきている。
誤用の方が流通して実質言葉の意味を変えてしまうことって時々あるけれど(「確信犯」とかね)、「本来の意味での使用が避けられる」とこまで行ってしまった言葉って、そうそうないんじゃないか。これというのも、その誤用がセックス方面だったからだ。
「性癖」は、もともとはセックスの好みとは関係ない言葉だ。テキトーにネット辞書から引用するけれど、
せいへき 0 【性癖】
性質の片寄り。くせ。「誇大妄想の?」
性癖(せいへき)とは、人間の心理・行動上に現出する癖や偏り、嗜好、傾向、性格。(略)
21世紀初頭ごろから、性癖の語が性的嗜好と同義に使用され始めているが、これは「性癖=性的な癖」との誤解に基づいた誤用である。性的嗜好も数ある「性癖」の一つではあるが、「性癖」は性的なものだけにとどまらず、広い意味範囲を持った語である。
「性質」の「性」が「セックス」に限定され、「偏り」の部分がフェチやこだわりになったのが、今の「性癖」というところだろうか。
ウィキペディアはまだ原義にこだわって頑張ってる感じだが、はてなキーワードはもうそんなの放棄して割り切っている。言葉は世につれである。「性癖」が完全にセックス関連用語になる日は、近いのかもしれない。
僕にも「性癖」はそれこそ迸る情念を(略)ぐらいいろいろあるけれど、同性愛者であることを「あなたの性癖」と言われるのは、抵抗がある。
異性愛を「性癖」と言う人は、まれだ。
(まれ、であって、いないというわけではない)
異性愛者のミッショナリー・ポジション(正常位)だって1つのセックスの嗜好なわけだけれど、それが「性癖」と言われることはあまりないだろう。
なのに「同性愛」を「性癖」と言うのは、「異性愛」、それも男女カップルが世間的にあまり突飛と言われていないセックスを営む規範的異性愛をスタンダードとして、それ以外をへんぱな「偏り」とする異性愛規範主義(ヘテロノーマティビティ)から来ている発想だ。
もちろん、「同性愛という性癖は…」と言う人に、たいていの場合、差別的な自覚はないということは分かっている。
でも、その無自覚が、僕は気にかかる。
同性愛は「性癖」にカテゴライズされる。
異性愛者は自由に「僕の彼女は」「僕の妻は」と言うが、僕が「同性愛者です」「彼氏がいます」と言うことは、僕がスパンキングが好きかってことや見ているアダルトビデオや使っている大人のオモチャの話を始めたことと同列に取られる。
異性のパートナーを持つことは「まっとうな社会人の証」のように奨励されている世の中で、僕が同性のパートナーを持つことは「そういう個人の趣味はプライベートな領域に留めておけ」と言われる。
ゆえに、同性のパートナーに社会的な保障は与えられない。
法的な家族関係を持ちたい場合は、養子縁組という「裏技」を使わなければならない。
家族を築き子どもを育てるという社会参加の機会は与えられない。
未成年向けの携帯やインターネットで、「同性愛」はフィルタリング対象カテゴリになる。
自分の性について知りたいと思っている同性愛者の子どもが、必要な情報を手に入れることが難しくなる。
「同性愛という性癖」という言葉は、そういう社会から発せられている。
とはいえ、同性愛者でも、自分の性的指向を指して「性癖」と言う人は結構いる。
つまらない、ささいな言葉の問題かもしれない。
冒頭の「性癖メモ」が面白いな、と思ったのは、たぶん、比較的多数派の、規範に近い、「性癖」とラベリングされないようなセックスを営む人にも、自分の好みを一律に「性癖」として語らせるからだ。「性癖」という言葉が帯びているセクシュアリティの「序列化」の力が抜かれ、すべてのセクシュアリティが同じ平面の上にゴロッと投げ出される。そのニュートラルさは、いいかもしれない。
だけど、「同性愛を『性癖』と言わないでくれ」と思うとき、僕はたった2文字の言葉に拘泥しているわけじゃなくて、その背後にある、もっと大きな無意識につかみかかろうと四苦八苦している。それを上手く言い表せなくて、困っているのだ。