そのリアクションは、どこまで本気?


「みやきち日記」のid: miyakichiさんが読んだとある漫画に、こんなセリフが出てきたそうだ。



何 あんたそっちの趣味が? 私は狙わないでネ



ここで露呈されているのは、以下の古くっさい偏見です。
1 同性愛は「趣味」である
2 同性愛者は常に異性愛者を誘惑しようとしている


しかし、異性愛者が「趣味」で異性と付き合うわけではないように、同性愛だって「趣味」ではありません。おまけに「狙わないでネ」という台詞に至っては、なんでこうも無邪気に「自分(を含めた異性愛者全般)は同性愛者にモテるはず」と自惚れられるのかわかりません。


みやきち日記ー『征服魔呼ちゃん』(みなづきふたご、ワニブックス)感想


ああ、あるあるこういうの、と、思うと同時に、「古っ、てか恥ずっ、てかみっともねえよ、こういうセリフをキャラに喋らせる作者って」と思った。
とにかく、ステレオタイプにもほどがある、と思うのだ。「そっちの趣味」とか「狙わないでネ」とか、古くせーというか、若い人が喋る言葉じゃありませんよ。マンガとか創作物は新しい面白さで人を楽しませるものだろうけど、こーゆーセリフを自分のキャラに喋らせて、それでウケが取れると思っている漫画家って、ちょっと恥ずかしくないだろうか。


あ、でも、若い者じゃないけど僕の2歳年上のNさん(って誰だよって、僕の仕事上の知人ね)が「僕はその趣味はない」と言ってたな。「その趣味」ってもう普通の日本語なのかも。


って、あるじゃん。



その-しゅみ 3 【その趣味】
同性愛者であることを意味する婉曲表現。「そっちの趣味」。「私はその趣味はない」「彼はその趣味がある」。
三省堂提供「太辞林 第二版」より


goe辞書ー国語・新語辞典ーその趣味


miyakichiさんのこのエントリを読んで、先日、id: HODGEさんが、よしながふみの『昨日なに食べた?』について書かれていたことを思い出した。ゲイのカップルを主人公にしていることで注目されている作品だが、HODGEさんが注目するのは、そこでの「異性愛者の描かれ方」だ。



さらにゲイに遭遇したストレートの行動も、作者は巧みに饒舌に描写する──頭を抱えながら「ヒーーー!!」と驚愕のセリフが「マンガならではの」大きな文字で大々的に表現される。もちろんこの大袈裟な描写は、異性愛者が同性愛者に遭遇した場合の「規範」を忠実に再現しているのだろう。一種の、しかし必須の儀式(プロトコル)なんだろう。なんといっても異性愛者なのだから、これくらい驚いてもらわなくては困る──それこそが異性愛者に課せられた規範なのである、パフォーマティヴに。


HODGE'S Parrotー昨日の世界のコピーのコピー


僕が「あ、そうか、なるほど」と思ったのは、異性愛者の同性愛者(または同性愛)に対する嫌悪のリアクションというのは、ものすごくステレオタイプに規範化されているんだ、と、いうことだ。規範化されている、というのは、「こういう場合はこう反応するものだ」と、決まりに従ってパフォーマンスしているということだ。少なからず、演技なのである。


漫画やその他のメディアで描かれるステレオタイプな同性愛者イメージってのは多く批判されてきたけれど、同性愛者や同性愛に相対した異性愛者にも、すごくステレオタイプ化された、大げさな,パフォーマティヴなリアクションが課されている、そういうリアクションを異性愛者に押しつける表現が溢れているってことは、あまり考えられてこなかったのではないか。


ここで僕はまた、AllAbout同性愛案内人、歌川泰司さんの言葉を思い出した。
どの記事だったか出典が思い出せないんだけど(オイ)、会社でカミングアウトしていた歌川さんは、ノンケは意外にゲイをマジ嫌いしてるわけじゃない、と言う。ノンケがゲイやカミングアウトに拒否的なリアクションを見せるのは、ゲイを嫌悪しているからというより、単に「自分はそうじゃない」ということを示したいだけだというのだ。


昨年、『ハリー・ポッター』の作者が登場人物のダンブルドア校長はゲイだと語った。「へえそうなの」と自然に、または好意的に受け止めるリアクションも多かったけれど、嫌悪や「ダンブルドアーッ!」「それなんてやおい?」とネタ化してはしゃぐ反応も続出したとき、僕はこうしたリアクションに例によってキイキイ喚くエントリを書いたのだけれど、それにid: semisさんが書いてくれたエントリに、「ああ、なるほど」と思わされた。


そういうある種お笑い的なものの対象としてみる、というのは、好意的に考えてみると、もしかすると差別はいけない、さりとてどう反応していいのかわからない、よしここは笑っておけっていうような具合で起きてしまう反応なのかな。


empty shellーこの辺の話題に関して


うん、うたぐわさんやsemisさんの意見から推論して言えるのは、


異性愛者の同性愛者や同性愛の話題に対するリアクションは、どっちかというととりあえずやってるパフォーマンスだ」


ということだ。
別にこれだけが異性愛者の同性愛者に対する意識だとは言えないけれど、1つの傾向として、あるんじゃないか。現実に同じ社会に生活している同性愛者について、「別に悪意もなく好意もなく何も考えちゃいない」というのが*1



でもだよ。



例えば、自分がゲイと思われたくないから、
どう反応すればいいか分からないから、



人をキモチ悪いとかいう?
人を笑う?


全然その気もないのに、ちょっと戸惑った自分をゴマかすために、社会の同性愛への偏見や差別を再生産している大きな機械に飛び乗り、軽くハンドルを入れるんだろーか?
多数派の異性愛者って、ホントに大きな力を持っているってことが、こういうところに表れるなあと思う。


もちろん、こういう行為を嫌っている異性愛者は、たくさんいると思うのだけれど。



異性愛者の同性愛者に対するリアクション」は、どうしてこんなにステレオタイプ化されているのか。
人を傷つけようとは思ってもいない人たちが、なぜこんなリアクションを"楽しむ"のか。
素朴な疑問を抱いてみる。


ホモソーシャル社会は、異性愛者と同性愛者がどう違うのか、という境界をあいまいにしておく。いつ「ホモ認定」されるか分からないという不安感の中に人間を置き、コントロールするためだ。
そうセジウィックさんは言っていたと思う。



自身がホモフォビックな「無差別」攻撃を受けるのかどうか,同性愛者にわからないようにしておかなければならないのはもちろん、「自分は同性愛者ではない」(他の男性との絆が同性愛的ではない)という確信を誰ひとりとして持ち得ないようにしておかなければならなかったのである。このように、男性をほんの少々リンチや法によって脅迫すれば、広範囲にわたる行為や人間関係が管理できるようになるのである。


E.K.セジウィック『男同士の絆』pp. 135-136.


セジウィックさんは、この同性愛者(と認定を受けた者)に対する無差別の攻撃を、「テロリズム」と呼ぶ。



 二〇世紀に生きる西洋男性の多くは、社会のホモフォビックな脅迫に脆く,その脆さが最も心理化されたのが、いわゆる「ホモセクシュアル・パニック」である。が、彼らにとってさえも、「ホモセクシュアル・パニック」は、やはり社会による統制法のひとつであり、フーコーらの言う制度ーー「性的なもの」という漠とした領域の境界線を画定・支配する制度ーーを通して下される公的裁下を保管するものなのである。


同上, p. 136.


いつなんどき、同性愛者と認定され、追い立てられるか分からない,異性愛社会の根底には、そういうテロルの恐怖が潜んでいる。
それを乗り切るために必要なのは、同性愛者を"認定する側"に回るか*2、大げさなぐらい同性愛者を恐がり、「自分は同性愛者じゃない!」と騒ぎ立てる機会を逃さないことだ。たとえ自分に関わりのない同性愛者たちに大して嫌悪を(そもそも関心を)持っていなくても、必要なのだ、自分が生きるためには。


そう考えると、たしかに、少なからぬ異性愛者が、「自分が同性愛者じゃない」ということを確認する儀式が好きだなと、はたから見て感じる。


歌川さんは「 なんか、「ホモに襲われた・口説かれた、ホモにはモテる」系のハナシをするノンケ男子って、けっこういるんですが、どことなく自慢げなカンジの雰囲気が漂うのはなぜなんでしょうね」と言っているけど(AllAbout同性愛ーノンケがゲイを「怖ぇ〜」と言うワケ)、僕の狭い経験でもそれは感じたことがある。自慢げとまでいかなくても、奇談的に、または自虐ネタ的に、語られる「ホモ遭遇話」はネタとして"ともに笑う"ものになっている。


同性に暴行されて深い傷を負っている人、ゲイのセクハラに本当にイヤな思いをさせられた人ももちろんいるわけだが、そういう人たちは、もっと真面目に語る、場合によっては、語れないことすらあるかもしれない。


でもたとえば上掲の歌川さんのエッセイで紹介されている、


「○○社(お得意さんらしい)の○○さんて、ホモなんだって。」
「ああ、聞いた聞いた。」
「怖ぇよ、もう行けねぇよ、○○社。」
「いやいや、ずっとキミの担当ってことで。」
「やべ、マジ怖ぇ。」
「もうすぐ歩き方とか、変わりそうだな。」
「うわぁー、怖ぇ〜〜〜〜。」
なんて通勤電車内の会話が、心底からの恐怖や嫌悪や憎しみから出ているのか?って、少なくとも僕には、考えにくい。むしろ、(そばでゲイのリーマンの乗客が無茶苦茶腹を立てているなんて想像もせずに、)"こんなバカ話を交わし合うことの楽しみ"を楽しんでることが明らかじゃないだろか。


同性愛者や同性愛の話題に接触したことで、自分も同性愛者認定されるかもしれない恐怖を笑いの中で和らげ、ゴマかし、自分は違うのだと言わば"カミングアウト"して、異性愛社会に戻る。そういえば、「僕はその趣味はない」と言ったときのNさんも、なんだか楽しそうだった。


漫画の中で、しつこく繰り返される古くさい「同性愛者に遭遇した異性愛者のリアクション」も、そういうものなんじゃないか。


「そっちの趣味が?狙わないで」「おまえホモ?」「ち、違う!」「(同性愛者に会ったら)ヒーーーー!!」
ホモセクシュアル・パニックを大げさに描いたネタは、同性愛者のことなんか気にしていなくても、成立する。それはむしろ異性愛社会への参加を確認するための作業なのだから。
同性愛者を本気で嫌悪していたなら、気楽な笑いとしての"ホモネタ"は、むしろ成立しない、ここまで氾濫しえないのではないか。


「あんたそっちの趣味が?私は狙わないでネ」という"お約束"なネタに笑えるのは、異性愛社会の住人の適性検査みたいなものなのだ。たえず「自分は同性愛者ではない」と確認しなければならない、異性愛社会のお約束なのだろう。ホモセクシュアル・パニックは、しかるべき場で適切に起こすべきだ。パフォーマンスなわけだ。


でも、同性愛者の読者は当然、このネタでは笑えない。どころか、そのたびに笑われ、ネタにされ、踏みつけられるのだから、たまったものではない。
ネタを成立させるためには、作者は自分の読者に同性愛者はいないってことにしなければならないだろう。少なくとも、異性愛者と同じ人間の同性愛者は。"ホモネタ"っていうのは、あくまで異性愛者のためのネタだ。


こういうのって、僕みたいな同性愛者は、または同性愛者異性愛者を問わず、こうしたホモフォビックな異性愛中心社会のありかたがキライで、それに加担したくないと思っている人は、どうすればいいんだろう。


一つは、"笑わない"こと。だって、少しもおもしろくないんだから。


もう一つは、その"ホモフォビアの滑稽さ"を笑うこと。


基本的に、「おまえホモ?」「ちげーよ!!!」とか「(同性愛者に会ったら)ヒーーーー!!」とかいうのは、笑いを取るためにやっているわけだ。"滑稽"なんである。
なにが滑稽かというと、たぶん、"よりによって同性愛者に間違われること"や"同性愛者に遭遇すること(そして狙われちゃうかもしれないこと!)"なんだろう。


だが、そういう思い込みの同性愛嫌悪に過剰反応している姿も、同じように滑稽に見える。
ゲイとかホモとか変哲もないフツーの人間にキャーキャー大はしゃぎしたり、普段は大してモテないだろうに同性愛者に対してだけ自分が超モテだと錯覚しちゃったり、バカっぽいことこの上ない。


考えてみたら、ホモにパニックを起こすノンケ、なんてのは、ゲイコミックでも出てくる。ほとんど同じ表現だけど、その場合は、同性愛者に遭遇して(または同性愛者認定されそうになって)慌てふためくホモフォーブを「しょーもないなー」と笑っているわけだ。
そういう風に読んで笑ってしまう。
作者はおなじみの"ホモネタ"を書いているつもりでも、読者が"ホモフォーブネタ"に読み替えてしまうのだ。


歯も立たないような表現もある。たとえば、「あんたそっちの趣味が?」と言う甲に乙が「違うーーー!!!」と力一杯否定するとか、キャラがみんなしてガッチガチに全力で同性愛嫌悪を肯定しているような表現だと、取りつく島もない。
でも、「そっちの趣味が?」というキャラの滑稽さのほうをこそ笑うことができる、そういうスキマのある表現もあるだろう。
「そっちの趣味が?私は…」と言うキャラの妄想っぷりや慌てっぷりが、生温かい目で見られている世界を、作品の中に読者が作ってしまう。作品を「ホモを笑う」じゃなく「ホモフォビアを笑う」作品に変えちゃうのだ。


そういう"境界"的な表現は、2通りの読みかたを許す。その伝えるものは、読まれ方によって決まるのだろう。
異性愛社会がホモフォビアを確認するネタを当然と思う人は、そういう作品を読んで、「同性愛者を笑う」、いや同性愛者を笑うつもりは微塵もなくて、「同性愛者が存在しない"こちらがわ"の世界で、ウッカリ"あちらがわ"の世界に触れかけちゃったドタバタ」を笑い楽しむんだろう。
でも、ほんとは"こちらがわ"も"あちらがわ"も全然存在しないのに、同性愛者に遭遇してパニクっている人間の滑稽さを笑う、という読み方もできる。


読まれかたってのは、作品が伝えるものを大きく左右する。
男性同性愛を真摯に描いたことで高く評価された『ブロークバック・マウンテン』も、「禁じられた愛だったからこそより純粋」といった、「同性愛を許さない」という異性愛社会の掟を再確認するような見かたをしている人も少なからず見かけた。


同性愛者が作品の中でどう扱われようが、作品を通して同性愛者についてどんなイメージが流布しようが、異性愛者に「ヒーーーー!!」とパニックを起こされようが、「私を狙わないで」と言われようが、全然構わない人もいるだろう。


僕はというと、そんな作品はキライだし、できれば、そんなネタを面白いと思わない、むしろホモフォビアを笑うような読み方をする人が大勢いて欲しい、と思う。


ヤオイやボーイズ・ラブの批評をしているレズビアンクィア研究者の溝口彰子さんは、ヤオイ作品に見られる異性愛中心主義とホモフォビアを批判する先駆的な仕事をした人だが、なぜ彼女がホモフォビアを批判するのかというと、彼女自身ヤオイの愛好家で、ヤオイにホモフォビックな表現があると自分が読めないから、であるらしい*3


読者にはレズビアンもゲイもバイセクシュアルも、ホモフォビアを嫌う異性愛者もいるのであって、おもしろくもないステレオタイプな同性愛嫌悪表現は、読者を減らすのだ。
自分の書いているもの・読んでいるものの読者に同性愛者はいない、と信じ込んでいる人には、必要ないのかもしれないけれど。


最後に、僕が読んだボーイズラブ漫画で、「これはひどい」「これすごくいい!」と思った「異性愛者が同性愛者に遭遇したときのリアクション」について書こうと思ったけれど、本が見つからねえじゃん!
見つかったら、もしかしたら、また次回。

翌日追記


昨日のネタはやりすぎ、というか、あまりヨクナイと反省したので、少し修正しました。

翌々日くどいが追記


id: nodadaさんの昨日のエントリとコメント欄を拝読して思ったこと。


腐男子じゃないけど,ゲイじゃないーなんであんたの方が物知りなのよ…?


ネットの一部で、はてなのブクマなんかでも横行している、"2ちゃんねる的ホモネタ"・リアクションって、(異性愛社会への参加の確認としての)"ホモネタ"への下品な笑いの進化形というか、独特のバリエーションなのかもな、と思った。


同性愛の話題に対して脊髄反射的に「アッー!」とコメントする、タグをつけるのは、ただ"ホモネタ"を嘲笑する以上に「何も考えちゃいない」"軽薄さ""ネタっぽさ"が漂う。いかにも2ちゃんねる的というか、くだらないことをやっている自分を自嘲するポーズが加わって、"ホモネタ"で人を貶めていることへの責任回避感を与える*4。"(異性愛の)みんな"の安全圏に身を置きたいばかりに"ホモネタ"を笑う自分を引き受けてすらいない。そんなところがないだろうか?

*1:いや、それでいいと思うんだけど。

*2:どれほど多くの男が(異性愛者も同性愛者も)、"男らしくない"男を"おかま"と認定したがり、また自分が認定されることを恐れているだろうか?

*3:「同性愛嫌悪的(ホモフォビック)な言葉が出てこない「ボーイズラブ」作品の多くは、わたしのように「美少年漫画」を「少女の代理人としての美少年キャラクターたちの物語」として受容しながら育った読者にとっては、「女性(少女)2人がゲイごっこをしている」というモードで読むことが容易な表象なのである」溝口彰子「それは、誰の、どんな、「リアル」?ーーヤオイの言説空間を整理するこころみ」『IMAGE & GENDER:イメージ・ジェンダー研究会』vol. 4 (2003), p.45.

*4:とはいえ僕は2ちゃんねるを下らないとか言いたいのではない。同性愛者を侮辱している自分をゴマかすために、2ちゃん的ポーズだけ剽窃する人間は、卑怯というか、下らないと思うが。