ハダカのまえで、思考中断中


随分前の話になるが、3月出張で東京に行ったとき、駅で巨大な「ウルビーノのヴィーナス」の広告を見た。上野の国立西洋美術館で開催中の展覧会(5月18日まで)の広告だ。


国立西洋美術館ーウルビーノのヴィーナス:美の女神の系譜



極端なサイズというのは、人間の固定観念を打ち破るいい手段なのかもしれない。
この広告の狙いが、有名なヴィーナス像や古典的裸婦像に対する先入観をリセットし、初めて見るような驚きの目でこのヴィーナスを眺めさせることにあったのなら、成功してるなあ、と思った。

デンと横たわったメガサイズのヴィーナスは、
「16世紀ベネチア派の傑作です美しいです素晴らしいです後代の裸婦像に決定的影響を与えた歴史的作品ですどうですかこの輝く肌の色彩は時代を超えた女性美です(エロではありません)美なのです芸術です」
という固定観念に大人しく収まらない迫力があるような気がした。


しかし、じゃあ、現代ではちょっと凡庸になってしまった構図で写実的に(多分に様式化もされてだが)描かれたすっぽんぽんの女の人を前に、何をどう感じればいいのか、という話であった。
山川純一風に「うほっ、いい女」となるわけでもなし、かといって、「きれいだな」「素晴らしい絵だな」と思うのは、なんだか妙にためらわれた。せっかく固定観念を打ち破ってそこにあるハダカを、またそんな取り澄ました枠に押し込めるのは、やりたくない裏切り(というのは大袈裟かもしれないが)のような気がした。


これといって気の利いたことも思いつけない僕は、なんだかマヌケな思考中断状態で、ただ「でけえな」と感心していた。



小さい頃、公共空間に置かれた女性の裸像が嫌いだった。ハダカだったり、着衣だが体の線がくっきり出てほとんどハダカに見える女性の銅像が置いてあると、イヤなモノを無理矢理見せつけられたような、恐怖まじりの嫌悪があった(絵画の裸婦像なども、同じだったと思う)。


男のハダカに関心が向くようになったころには、女性のハダカも別に気にならなくなっていた。また、あたりさわりのない空気のようなパブリック・アートに気をとめることもほとんどなくなり、公共空間で女性のハダカを目にしたという記憶が久しくなくて、パブリック・アートで女性の裸像を使うこと自体が少なくなったんじゃないかと思っていたのだが、昨年、職場でわりと性道徳の厳しい国から客を迎えたとき、「日本では公共の場に女性のハダカがあるんですね、なぜですか?」と言われ、あ、まだあるのか、と思った次第である。
(そのときは、西洋美術と一緒に女性のハダカがアートや人間性の表現だという観念を取り込んで、そのまま続いてるんですねえとか、西洋美術に全部責任押しつけるような返事をした。)


小さなころの、むき出しのハダカが気持ち悪い、怖い(特に女性の?男のハダカも気持ち悪かったのか、よく憶えていないのだ)という気持ちは、あれは学習したものだったのだろうか。
性的な表現が苦手な子どもだったと思うのだが(今と随分違って)、僕はハダカが気持ち悪かったのだろうか。


彫像でも絵画でも写真でも、表現されたハダカは、ハダカそれ自体ではない。ハダカ像が表しているのは、ハダカに対する眼差しだろう。
広場に置かれた裸婦像、TVや雑誌を通して見せられる絵画などの裸婦像を見るということは、女性のハダカに対する社会の視線を見せられることだった。


それがイヤだったのは、ハダカは見てはいけない、隠されているべきものだ、という禁忌の意識だったのか。女性のハダカを見るのも生活のうち、というようなパブリック・アートの主張が重苦しかったのか。隠されているはずのハダカへの視線が、ある部分でだけ、むき出しになっている、その訳分からなさが、気味悪かったのか。自分でもよく分からない。


分からないのだが、ハダカはイヤらしいものだ、晒してはいけないものだ。人間のナマナマしさを晒してしまうものだ。だが人間はハダカが見たいのだ。いっぽうハダカこそ虚飾を取り去った人間の姿で、"美"や"人間性"を表すものだ、そういうハダカならいいのだ、イヤらしくないのだ・・・人間のハダカに対する人間の、社会の視線のアンビバレント、迷走、開き直り、惰性的慣れ、偽善は、たしかに子どもには理解不能で重すぎたような気がする。


その後、女性のハダカにしんから憧れる気持ちや愛する気持ちを感じないままに、世に氾濫するハダカにも慣れてしまい、ハダカを含むいろいろな"女性美"の表現を「女性は美しいですねえ(男の方が好きですけども)」と疑問もなく受け入れるようになっていた。駅でふと足を止め、当然のように晒されたハダカを見る軽いショックを思い出すまでは。


ウルビーノのヴィーナス」展は、かなり意欲的な広告戦略を展開したみたいだ(展覧会サイトNews & Topics)。交通広告はことに印象に残ったらしいことが、展覧会を訪れた方々のブログを拝見しても分かる。


交通広告というと、1月にJR東日本が黒石寺蘇民祭のポスターを「女性へのセクハラ」と掲示拒否したことが、大きな騒動になったことを思い出す(AFP BBニュース)。また、id: tummygirlさんが書いておられる、クラナッハ展の裸婦ポスターを「(500年前の芸術品だろうが)性的な文脈で描かれたヌードだから」と掲示拒否したロンドン地下鉄の無粋な筋の通しかたも。
FemTumYumーヌード広告の「不快」


しかし、優美な美術作品のヴィーナスは、"普通は"(?)、肯定的にしか受け止めようがないのだろう。ちょっとドキッとさせても、それが「不快」という言葉に結びつくことは"慣習的に"(?)ありえない、のかもしれない(目のやり場に困る、と書いておられたブロガーさんもいたが)。「JR巨大裸婦像ポスター掲示拒否」なんてニュースを聞いていたら、アタマがおかしくなったかJR、と僕は思ったに違いない。
子どもの僕が見たらイヤな思いをしたかなと、少し懐かしいような(?)気分でふと思ったが、大人社会のハダカへの欲望や好奇の視線に引いてしまう子どもの気持ちなんか誰も気にしちゃいないのだということは、その当時から分かっていた。


今の僕は、ハダカが怖いとは思わない。子どものころの感情は子どものころの感情だと思う。だが、固定観念を壊して目の前にある女性のハダカを、「これは美しいハダカだ、良いハダカだ、誰が見てもよいハダカだ、公認済みのハダカだ」と"飼い馴らす"ようなつまらない視線でしか見れない自分が、なんだか申し訳ないような気持ちがした。




これも大分前のニュースになるが、昨年2007年で25周年を迎えたカルヴァン・クライン・アンダーウェアが、この春、香港のリッツ・カールトンの高層ビルの壁面を巨大広告で飾った。
AFP BBニュースー2008年4月4日−香港、「下着姿の男性」の巨大広告が登場
Sfilate - March 17, 2008 - Calvin Klein Underwear Appear On Largest Billboard



モデルは、カルヴァン・クライン・アンダーウェア25周年モデル、ジャイモン・ハンスウDjimon Hounsou。写真はピーター・リンドバーグPeter Lindbergh


約1ヶ月程度のゲリラ的広告に、「わいせつ」という苦情(3件だそうだ)や「歴史的建造物が多い場所に視覚公害」という投書があったとAFP BBニュースは伝えているが、どっちにしろカルヴァン・クラインは全部分かってやっているので、あまり意味ないのだ。


25年前、1982年にスタートしたカルヴァン・クライン・アンダーウェアの最初の広告として、カルヴァン・クラインはニューヨーク・タイムズスクウェアブルース・ウェーバーBruce Weberが撮影した水泳選手Tom Hintnausの巨大なハダカ写真を飾った。


カルヴァン・クラインのスポークスマンは、1982年、ニューヨーク・タイムス紙に対し、「ゲイにアピールしようとしたわけじゃない。我々がアピールしたのは、時代だ。もしあのコミュニティ[引用者注:ゲイ・コミュニティか]が健康や身ぎれいにすることに意識的なら、広告に反応するだろうが」と(an encyclopedia of glbtqによれば"率直ではない")コメントを出した。
が、ハーバート・リスト→ブルース・ウェーバーと、明白にホモエロティック・アートの系譜に連なる男のエロティシズム表現が少なからぬショックをもたらしたのは、大方の目にそれが"ゲイの視線"の存在を思い出させたからに違いないだろう(関連エントリ)。
カルヴァン・クライン・アンダーウェアの広告は、以後、優れたファッション・フォトグラファーを使い、男のハダカをホモエロティシズムの中で客体化してよいのだという既成事実と、ステレオタイプを作ってゆくことになる。


しかし、この傾向がどんどん進んで、男のハダカが女性のハダカと同じく公然と消費物になり、視線の客体として認知されるのがいいんだろうか。僕をそういうことを望んでいるんだろうか?というと、そうではない気がする。


女性のハダカが長くノンケ男性のみならず(たぶん)社会全体の消費物・視線の客体になってきたことを思えば、男のハダカもそうなるのが平等ってもの、だとは思う。


だが、男のハダカでも、女性のハダカでも、誰のハダカでも、「良いハダカ」と「見せてはいけないハダカ」、「芸術」と「わいせつ」とハダカを選別し、消費しやすいモノとして管理しようとする視線に飼い馴らされてしまうようなところに、行って欲しくない気がするのだ。


マーク・ジェイコブスも、ハダカの好きなデザイナーだ。


マーク・ジェイコブス featuring マイケル・スタイプ



マーク・ジェイコブス featuring ルーファス・ウェインライト@「Strip Tees」


ベッカムがモデルになったアルマーニのアンダーウェアの広告。
ベッカムはカッコいいんだけど、なんだかあまり面白いと感じなかった。
カルヴァン・クラインの二番煎じのような感じを免れないからだろう。


JR東日本が「不快を与える」「女性へのセクハラ」と掲示拒否した2007年度 黒石寺蘇民祭のポスター


JR東日本蘇民祭ポスター掲示拒否について、ネットで出たさまざまな意見に僕はいろんなことを教えられ、考えさせられたけれど、僕自身は「あのハダカが”不快”だというのはコレコレこうだ」とか「こうするべきだった」といったことは、なにも考えつかなかった。ハダカのポスターを前に、やっぱり思考中断していた。


というか、人間のハダカがこんなに騒ぎを起こせるってことが、僕はなんとなく嬉しかったりしたのだ(散々な目に遭ったモデルの人には申し訳ないが)。
ハダカを「正しいハダカ」と「正しくないハダカ」に分類し、それにもっともらしい理由をつけようとすると、どんどんおかしなことになってボロが出てくるのが。


人間がハダカに対する自分の視線を恐れているということが、ハダカへの視線をコントロールできないということが。


人間の体はまだ決して飼い馴らされていないということが、「美醜」や「快不快」という意識的無意識的な管理に、絶えず反乱を引き起こす力を持っていることが、嬉しいのである、なんとなく。