中東ジャーナリスト、ブライアン・ウィテカーの「ジョグジャカルタ原則」評


性的指向と性自認の問題に対する国際人権法の適用に関するジョグジャカルタ原則


国際人権法の規範に基づき、あらゆる性的指向性自認の人間に平等な権利を保障するための指針を示した「ジョグジャカルタ原則」。人権法の専門家集団により起草され、この3月、ジュネーブの国連人権理事会で公表された。(ゲイジャパンニュース関連記事)


この原則は、いち早くヒューマン・ライツ・ウォッチの支持を受け*1HRWLGBT権利プログラムのBoris Dittrichなどにより、普及のための−はっきり言って前途多難?そうだが、地道な−努力が行われている(関連エントリ12)。


HRWと同じく、ジョグジャカルタ原則の重要性にその公布のときから注目したのが、Guardian.ukブライアン・ウィテカーBrian Whitakerだ。


Guardian.co.uk - Comment is free - 2007/3/29 - "Righting wrongs"


ブライアン・ウィテカーのプロフィールは、ここ


ウィテカーは、ガーディアンの中東部門のエディターを7年勤め、アラブ文化を非アラブ・イスラム圏に紹介するサイトal-bab.comも運営している、中東スペシャリストだ。
現在はガーディアンのコラム「Comment is free」の担当者であり、彼のコラムには中東・イスラムについてのコンテンツが充実している。


中東問題やイスラムについては極めて知識の乏しい僕なので、ウィテカーが中東・アラブ問題の分野でどういう評価を受けている論者なのか、残念ながら分からない。が、(個人的に)興味深いのは、彼がアラブ・イスラム圏の同性愛問題に並ならぬ関心を傾けていることである。
彼のイラク情勢について書いたコラム1つ「Ten Reasons to Kill an Iraqi」の翻訳が、こちらのブログで読むことができるが、


Falluja, April 2004−Book 2006/4/19−「イラク人を殺す10の理由」by Brian Whitaker

1人のイラク人が殺された理由として考えうる10の理由の1つに、「その人がゲイと思われたから」を挙げている。


また、アラブ・イスラム世界の同性愛に関する単著も出している。

Unspeakable Love: Gay And Lesbian Life in the Middle East

Unspeakable Love: Gay And Lesbian Life in the Middle East


「Unspeakable Love (語り得ない愛)」とは、裁判の被告席のオスカー・ワイルドが、自分の罪状である同性愛について説明を求められ、言った言葉を引用したものだろう。


こういう彼が、3月のジョグジャカルタ原則の公布にいち早く反応しているのは、まさしくイスラム宗教文化の同性愛否定を念頭に置いてのことだろう。
ジョグジャカルタ原則が今後国連でどのように扱われるかについて、「速攻でどっかのファイルに埋もれさせられるだろう」と涙が出そうなことを言いつつも、「ジョグジャカルタ原則は同性愛者権利運動の1つの勝利だ」と、高く評価している。


同性愛差別や同性愛嫌悪の批判がしばしばとても難しいのは、セクシュアリティというものが、社会の文化・規範と密接に関わり合っているからだ。
同性愛者を貶め認めない、というのが、ある文化の価値観・秩序意識のなかでは、とても重要なことだったりする。
だから、ある国・文化で差別に苦しんでいる同性愛者を救おうとする試みは、間違えば「ある文化の価値観を別の価値観を持つ文化に一方的に押しつけようとする」行為、「異文化叩き」につながってしまう。


そしてそのような文化批判は、特に非欧米の異文化に対して、あからさまになる傾向があるように思われる(欧米キリスト教文化の同性愛否定も激しいものがあるにもかかわらず、だ)。
たとえば、在英イラン人レズビアン・ペガーさんの強制送還・難民認定問題(ペガーさん支援サイト)に対する反響のなかでも、「イスラム教は同性愛者を死刑にする」「イランは恐ろしい国」といった意見が、かなり聞かれたと思う。ただ同性愛迫害の危険に晒されている個人を保護しなければならない、という問題が、一部の人たちの頭の中では、イスラム教批判に横滑りしてしまっていたのではないか。


そして、こうした文化批判は、政治問題が絡むと、最悪、内政干渉武力行使にさえ発展しかねない危険も、はらんでいる。


そこまで行かなくても、同性愛嫌悪をはらむ文化の批判は、極めてセンシティヴな問題だ。僕らは同性愛に対するバチカンイスラムの頑な姿勢を非難する。が、「同性愛者を認めない」というみずからの宗教・文化の規範に背くことが、身を斬られるより辛い人々だっている、ということを、忘れてはならないと思う。


とはいえ。
「タブーとしての同性愛」は、宗教の教義に根拠を置くことが多いとはいえ、大抵の場合、その文化が「価値を置き維持しようとしているもの」と対になっている。
異性愛に基づく家族制度、男らしさ・女らしさのジェンダー規範、性の倫理といったものだ。
たとえば、同性婚に反対する理由として、「『伝統的家族』を護らなければならない」と言われる。
しかし僕は、同性愛者が家族や家庭を持つことが、異性愛者が従来通りの「伝統的家族」を育むことを邪魔するとは思えない。
むしろ、同性愛を抑圧する方が、「伝統的家族」に悲劇を引き起こすだろう。同性愛者の子どもと親の関係を引き裂き、子どもが家庭を築き何らかの手段で次世代を育てて家を継ぐ可能性を摘み取っている。同性愛者差別は、人間社会が支えにしてきた「家族」を傷つけることしかしていないではないか。
「健全な家族」も「強い男らしさ」も「規律ある軍隊」も、なんら同性愛者の存在と矛盾しない。
むしろ、合理的な根拠もなく同性愛を「問題」化しているために、「問題」になっている。
そこを合意できれば、それぞれの文化・社会が価値を置くものを尊重しつつ、性的少数者の権利を守ることは可能だーと、僕は考える。


「人権は普遍的なものであり、すべての人間が享受する資格を持ち、性的指向性自認による例外があってはならない」。
あくまで「人権の普遍性」という立場を貫くジョグジャカルタ原則は、宗教的・文化的な相違をおかさずに、宗教・文化を越えて性の多様性と平等を守る世界スタンダードを作ってゆく叩き台になることができる、かもしれないのである。


と、前置きが長くなったが。


同性愛者差別撤廃と文化の尊重の問題を、ジョグジャカルタ原則と一緒に取り上げたブライアン・ウィテカーのコラム「誤りを正す(Righting wrongs)」


う〜ん。ほのかな期待に反して、ひそかな懸念どおりに、ちょっとキツいなあ。「文化の尊重を人権侵害を弁護する口実にするな」「いかん文化は変わらないかん」とガッツリ言ってるし。
僕としては、同性愛否定を内包する文化の側の困難にもっと寄り添い、文化の尊重と人権スタンダードの両立をどのように実践してゆくか、そのためにジョグジャカルタ原則をどう利用してゆけるか、という話を期待していたんだけど。
とはいえ、間違ったことは言っていない。このコラム欄、「Comment is free」のタイトル通り、多数のコメントが自由に寄せられている(このコラムに関しては、コメント受付終了)。それと併せて読むと面白いかもしれない。


※以下の仮訳は、紹介・参考のためのもので、許可を得た翻訳ではありません。転載等はされず、参照の際は必ず上記リンクの原文をごらん下さい。


誤りを正す(Righting wrongs)


ジョクジャカルタ原則は、ゲイライツにとって1つの勝利だ。問題は、国連が、この文書をどう扱うかである。


ブライアン・ウィテカーBrian Whitaker
2007年3月29日


今週の始め、あまり世界のメディアの注目は受けなかったが、専門家の国際的パネル−判事、教授など−が、いまジュネーブで開催されている国連人権理事会にある文書を提出した。


ジョグジャカルタ原則」(専門家達が起草のために集まった土地にちなんでいる)として知られるこの文書は、すぐにヒューマン・ライツ・ウォッチにより、「革新的」「画期的事件」として迎え入れられた。その内容は簡潔かつ明白であり、ほとんど革命的でもある。この文書は、一連のしっかりとした人権上の規範を挙げ、それからその規範を性的指向性自認に関して適用するためにどうすべきかをやや詳細に綴っている。


「この原則は、その権利があまりに頻繁に拒まれ、その尊厳があまりに頻繁に貶められている人々に、政府がいかにして対応すべきかという基本的な規範を確立するものだ」。ヒューマン・ライツ・ウォッチLGBT人権プログラム長、スコット・ロングは言う。「法と判例に確固と基づき、単純なアイディアを秘めている。人権に例外はない、ということを」。


ジョクジャカルタ原則は、実際、世界の多くの政府がこれから追いついてゆかねばならない多くの課題を持つ問題について、政府の行動を判断する有用かつ実践的な基準を定めた。


さて、興味深い問題は、国連がこの文書をどう扱うか、ということだ。私の推測するところ、彼らはこの文書をできるだけ早くどこかのファイルに埋もれさせてしまうだろう。セクシュアリティは、それほど論議を呼び起こすトピックではないからだ。


人権理事会の徹底的に信用できない前身である国連人権委員会が、初めてセクシュリティについて語ったのは、2003年であった。その際、ブラジルによる「世界で性的指向を理由に人々に対し行われている人権侵害の発生に深く関連する」決議案は、5カ国のムスリム諸国ーサウジアラビア、エジプト、リビア、マレーシア、パキスタンーにより、文化的・宗教的理由で妨げられた。


この決議案に反対して、パキスタン代表Shaukat Umerは、正しい語法は「性的指向(sexual orientation)」ではなく「性的不指向(sexual disorientation)」であると示唆し、「これは我々の社会の根本的価値観に関する問題だ…これは、ある特定の価値観を別の価値観を持つ人々に無理強いしようとする試みだ」と抵抗した。


この議論は、先週、私が東ロンドン大学で「イスラム、人権、ゲイライツ」というテーマで学生達にセミナーを行ったとき、再び浮上した(教官によれば、およそ10名のムスリムの学生が自主欠席したそうだーが、それはまた別の話だ)。


ディスカッションのあいだに、ある学生が、多くの国で、同性愛は地域文化の中に受け入れられていない、と指摘した。私の返答は、基本的にこういうものだ。「だから?50年前は、イギリスの地域文化でも、同性愛は受け入れられていなかった」。


その学生が言ったことは、むろん、事実として正しい。そのような振る舞い[訳者注:同性愛否認]が、文化の一部だと認識するのは、重要なことだ。なぜならそれは、そうした振る舞いが一夜で変わることはなく、強固に変化に抗うだろうということを意味しているのだから。


が、[こうした言葉は]しばしば、さらに進んだ含意を持つことがある。つまり、文化の一部をなしているものは、何であれ決して変化させられてはならない、というものだ。ここが、誤解が生まれるところだ。なぜなら、どんな文化も、不動のものではないのだから。生き、呼吸し、その文化に属する人々のために仕えなければならないのだ。


私が聞いたことのある(どこでだったか思い出せないが)最良の「文化」の定義は、文化とは「我々がいまここで物事を行うその方法」である、というものだ。それは確かに音楽や芸術の特有のスタイルを含んでいるが、また、集団特有の腐敗や、権力の濫用、女性差別なども含んでいる。これらは、多くの国々で広く認められるものだ。


この定義は、我々は他の文化を「尊重」しなければならない、という主張に、やや異なった光を投げかける−それは、しばしば、単に人権侵害を弁護するために引き合いに出される議論だということだ。


他文化は確かに尊敬とともに接しなければならない−他の人々の行動様式が劣っているなどと、無意識に思い込んではならないという意味で。しかし、すべての文化(我々の文化を含む)には、それぞれに長所と欠点がある。そして、文化を尊重するとは、その長所にばかり注目し、欠点を無視せねばならないということを意味しない。−特に文化が、自身に属する人々のある者達を、尊敬とともに扱っていない場合には。[記事終了]


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