大人はしっかりしろ


ハリー・ポッター』の作者ローリングが、ホグワーツ魔法学校のダンブルドア校長はゲイであると語ったニュースへの反響について、のだださん(id:nodada)が次のエントリを書かれた。ぜひ読んで欲しい。


腐男子じゃないけど、ゲイじゃない−ハリー・ポッターのダンブルドア校長が<腐女子ネタ>になってる件。

 こういう「女がゲイを書いたらそいつは腐女子」っていう考え方の背景には、同性愛そのものを異端視し、その「同性愛」という欲望を持っている腐女子をも異端視する捉え方があるんじゃないか。

 つまり、「異性愛以外の性愛を持つ人間は不自然なのであり、本来は認めてはならない。よって、同性愛者の存在を書くことは同性愛者と同じように大変おかしなことである」という大変憎悪的な考え方に基づいてると私は思ってる。


のだださんの意見に僕が付け加えられることは1つもないが、このエントリに寄りかかるように、蛇足のように書かせてもらおう。


のっけから話がそれるが、僕が「ダンブルドア校長はゲイ」というローリングの発言を知ったとき、まず条件反射的に思ったのは
「また、しんどいな」
だった。正直言うと、ローリング発言に好感を抱く(今はそういう気持ちだが)というまえに、まずイヤーなネガティブな落ち込みがドッと来た。


なぜか?もうこれは、ゲイの僕の習い性のようなものだ。
これをきっかけに、またゲイに対する轟々の非難、嘲笑、揶揄を散々聞かされることになる。「ダンブルドアのケツが」だの「アッー!」だのの糞面白くもないゲスな冗談や、「子どもが読む本に同性愛とは…」などというご意見を聞かされて、また神経を紙ヤスリでガリガリやられるような思いをしなきゃならなくなる。僕は同性愛者へのどんな悪罵も揶揄もサラリと流せるような人格ができた人間ではない。こんな予想(しかも絶対当たる)が襲ってくると、脳より先に僕の脊髄が条件反射で「止めてくれ」と悲鳴を上げるのだ。


なかんずく、僕が怖かったのは、のだださんが挙げた5つのうち、
(3)教育者がゲイなのはいけないことと言いたがる奴。
(4)同性愛者を出すことは児童文学として不適切だと言いたがる奴。
だった。
お定まりの下品なギャグならまだいいが(つくづく僕は卑屈な人間だ)、大真面目にこんな意見を聞かされようもんなら、また神経紙ヤスリは必定だ。


「校長がゲイはないだろう」などと言う奴がいたら、そいつはのだださんが言う通り同性愛者の職業選択の自由基本的人権)を阻害しているだけじゃなく、現実認識能力ゼロなのである。ゲイの教師はいくらでもいる。「自分の子の教師が同性愛者だと想像したこともない日本の小中高校生の父兄の脳内」より、「ゲイが校長先生をやっている魔法学校のフィクション」の方が、はるかに現実を正しく把握している。


「児童文学に同性愛者を出すのは云々」も同じだ。ゲイアダルトやポルノならともかく、社会で暮らし働いている同性愛者の存在を必死で子どもから隠そうとしたがる人間は、英国で1988年−2000年に施行された「公的メディアや学校教育で同性愛への言及を禁じる」地方自治法28条(セクション28)のような法律でも望んでいるのだろうか?


そんなわけで、アホみたいと言えばアホみたいだが、関連ニュースを見て以来、僕はかなり神経質になっていた。
が、しかし。


ロイターのニュースへのはてなブックマークのコメントを見て。
なんだか笑った。
そして、別種の脱力感がドッと来た。


僕が恐れていたような非難はなかった、少なくともほとんどない(「物語的必然性がなければ登場人物はすべからく異性愛者であるべきだ」と言いたげなコメントは散見するが)。さすがはてなダイアラーだ。世界がもし100人の村だったら、まさしくはてブ村のようであるべきかもしれない。が。


「801」「BL」「二次創作」
他のことを思いつく頭がないのかと言いたくなるほど、皆さんの頭はそればかりに行っている。思想統制でもされてんじゃないかという勢いで大丈夫ですかみなさーん?と思ってしまった。


ひとしきり笑って、虚しくなった。


そうだ、ここ日本では、アメリカやポーランドのような同性愛叩きはないかもしれない。これは本当に感謝したいことだ。
が、まるで、フィクションの同性愛者は、やおいの二次創作の中にしか存在を許されていないかのようだ。
これには、『ブロークバック・マウンテン』が「女性向け」映画のように語られ、最近ではジョン・キャメロン・ミッチェルの新作『ショート・バス』が公開前からやおいと関連づけて語られた*1のと、同じものを感じる。現実に存在するはずの同性愛を、笑いの対象にならなければ、すべて「やおい腐女子の消費物」としてしか見ようとしていない。


たぶん、こういうことを言っている人たちは、腐女子ではあるまい(あらゆる事物を公に自分の趣味に牽強付会してはばからない腐女子もいるのかもしれないが)。
結局これは、同性愛者と腐女子を一緒くたにゲットーに押し込めているようなものだろう。こういうコメントをつけた人たちは、別に同性愛に嫌悪を示しているわけではないが(ありがたいことに)、同性愛者が当たり前に登場する児童文学を受け入れる気もさらさらないのだ。



もう、いいかげん。


まともな大人にならないか?と思う。


ハリー・ポッター』は(大人も読むし「二次創作」のネタにもなっているかもしれないが)、まず子どものための本だ。
そして、「同性愛者が子どもの本に登場する」ことは、少しも問題ではない。
「同性愛者の登場人物にこんな反応しかできない大人ばかりがいる」ことが、問題なんじゃないのか。
NTTドコモ・キッズiモードが、「同性愛」カテゴリをフィルタリング対象にしたのも(参考エントリ)、根っこは同じ問題だ。
子どもが同性愛の情報に接することが「問題」なのではない、大人が同性愛について真面目に子どもに語ることができる言葉も姿勢も持っていないことが、「問題」なのだ。


「子どもに同性愛は…」?
「同性愛」がマズいんじゃないだろう。大人が「同性愛」に対してまともな反応が取れないのがマズいんだろう。
子どもに同性愛とは何かを問われて、偏見に塗れた嫌悪やゲスな好奇心しか持っていない自分しか見せられない、それが問題なんだろう。
児童小説の登場人物が同性愛者だと知ったら、「それなんてやおい?」「二次創作?」としか言えない大人ばかりだとしたら、子どもがそれより利口になれるはずがない。


子どもが幼いうちから同性愛者のキャラクターを受け止められないとしたら、それは子どもが悪いのでも、ましてや同性愛が問題なのでもない、大人がバカだからだ。


そして、こんなバカな大人に取り巻かれているために、自殺を考えたことのあるゲイが66%、自殺未遂が14%という数字が出てくるのだ


ハリー・ポッター』のダンブルドアがゲイと聞いて、「ローリングは腐女子」「『パリー・ポッター』を二次創作にした」とか言っている人間は、あんたが勝手にそう思っているんだ。
ダンブルドアがゲイという設定の『ハリー・ポッター』」は、自動的に「やおい腐女子向け」になるんじゃない。あんたが勝手に分類するんだ。

「ゲイのダンブルドア校長」を子どもがどう受けとめるのか、自然に受け入れるか、拒否するか、ネタにして嘲笑するか、全部大人次第だ。それが同性愛者の子どもにどんな影響を与えるかも、大人次第だ。
大人が同性愛者の登場人物をネタにしかできないなら、子どもも当然、そうとしかとらないだろう。
そして、また繰り返されるわけだ。


もういいかげん、大人がまともになって欲しい。