再度、倖田來未「BUT」と、「同性愛について守られねばならないもの」


倖田來未「BUT」について、id:miyakichiさんが2エントリを書かれた。さっそく評判になっている。


みやきち日記ー倖田來未は男にも女にも股を開けるのかもしれないけど、同性愛者はそうじゃないのよね
みやきち日記ー「愛に性別は関係ない」の正体



リベラルを自認する人たちのあいだで、同性愛やセクシュアルマイノリティに対し善意を示すことがおおむね一般的になり、ホモフォビアをむき出しにする言動はイケてなく、「理解のある」物言いのほうが「かっこいい」と思われているいま(倖田來未が「同性愛」を歌うというのも、結局、そういう風潮だ)、これはぜったい読んだほうがいい文章だ。


リベラルな物言いの、同性愛「理解」の「質を問う」。


同性愛者の人権の問題を,異性愛社会の問題として受け止めることのできる人たちを信用すればこそ、僕はこの問題にこだわりたい気がする。


僕が自分のエントリでグチグチ不満を呟いた、「愛に性別は関係ない」という異性愛者のセリフに同性愛者が感じる欺瞞については、これが言い尽くしている。

異性愛者と同性愛者の最大の違いは、好きになる相手の性別です。その差異を矮小化し、「あの人たちも自分たちと同じようなもの、だから容認すべきである」という論調に持って行くのが「愛に性別は関係ない」論の正体でしょう。
基本的に、そこにあるのは「他集団を容認してあげよう」という善意です。けれども、容認する根拠として「あの人たちも自分たちと同じ」と強調したがるのは、結局、「自分たちと異質なものだったら認めてやらない」という排他性の裏返しにすぎません。
みやきち日記ー「愛に性別は関係ない」の正体

もう僕が書いたことは忘れましょう。そのかわり、これを頭に叩き込んで下さい。


以下、ただ引用する。
「へえ、同性愛をテーマにするなんて、倖田來未ってすごいな」と思ったヘテロ、なにより、「倖田とエイベックスはゲイフレンドリーなことをやってくれた、うれしい」「まあいいかげんな内容だが『同性愛を取り上げた』だけでも立派じゃないか」と思ったレズビアン・ゲイは、どう思うだろうか。

倖田來未は性別関係なく男にも女にも股を開けるのかもしれませんが、同性愛者はそうじゃありません。少なくともレズビアンのあたしは、もしも「“愛”に性別は関係ないんだから、性別にこだわらず異性ともつきあえ」なんて言われたら泣いて抵抗しますよ。
みやきち日記ー倖田來未は男にも女にも股を開けるのかもしれないけど、同性愛者はそうじゃないのよね

ヘテロ男女の悩みと同一視されても困ります。

“学校の先生に恋をしている”とか“友達の彼を好きになってしまった”……なんて禁じられた恋をしている男女も同じ。そこで“好き”という気持ちを殺してしまうのは悲しすぎますよね。

教え子とめでたく結婚に至る学校の先生はざらにいるし(たったの数年待つだけで、晴れて大手を振って付き合えるんだからね!)、三角関係の結果、友達の彼と付き合うことになった人だって一杯いるでしょう。その程度のもんが「禁じられた恋」? 誰がどう禁じてるの?
 ・同性愛暴露と恐喝 容疑の男 福岡県警逮捕
 ・ゲイ男性を暴行したとされる市警官らへの処分なし−アメリ
 ・イスラエル警察、ゲイ男性への暴行容疑で7人を逮捕
こういう↑目に遭ってるのが同性愛者なんですけど。耳ちぎられたりしてるんですけど。倖田さんの目には、これが「学校の先生を/友達の彼を好きになっちゃった☆どうしよう☆」っていうヘテロ男女の悩みと同列に見えるのかー。そりゃまた特殊な目ですねー(棒読み)。
同上

同性愛者が恐れているのは同性同士の恋に踏み出すことそのものではなく、異性愛者からの抑圧と暴力です。
要するに、上で書いたようにヘテロに恐喝されたり暴行されたりということが嫌なわけ。だから意思表示にも慎重にならざるを得ないんですよ。
(略)
地雷原を前に佇む人に向かって、安全な場所から呑気に「一歩を踏み出して欲しい」(gooインタビューより)と応援されても困るってもんです。その地雷を設置してるのが自分たちヘテロだって認識はないのかしら、倖田さん。こちらではなんと「背中を押してあげる」とまでおっしゃっておいでですよ。押すな。
同上

支援されるべきは「愛」ではないだろう

「相手が誰であろうと“人を愛する気持ち”に変りはないでしょ? 愛は自由なんだから」
「愛は人間を豊かにしてくれる宝物だから。大事にして欲しいなって思います」
  ―倖田來未


「同性愛に対する偏見をなくすべきだ」「同性愛をちゃんと社会で認めるべきだ」
そう考えてくれる異性愛者の存在が,僕はうれしい。


しかし、それを分かりやすく話題にしようとしたとき、しばしば上の倖田來未のセリフのようなあさっての方向にいってしまうのには、なにか、問題にされている「権利」についての決定的な誤解があるような気がする。


問題にされるべきなのは「愛の自由」ではないだろう。
倖田來未は何か誤解しているようだが、ゲイ・コミュニティーは、同性愛者がアイデンティティーを確立するために必要な情報を、長く発信し続けている。「同性を愛することを躊躇う」ほど内面的ホモフォビアの強い同性愛者は、今の情報社会では、だいぶ稀になっているだろう。社会的認知と制度の保障はないが、現に同性愛者は自由に愛し合っている。
逆に、「愛し合っていない同性愛者」だって、いくらでもいる。ハッテン場でやりまくってるだけの同性愛者も、非モテ、ひきこもりの同性愛者もいる。


問題は「愛」とか、それが「宝物」だとかいうことじゃないのだ。同性愛という性的指向によって人間が差別されないということだ。分かりやすく言えば、今のこの社会は、その気になれば、僕が男の体でマスを掻く男であることを理由に僕から命や生活を奪うことができる、そういう構造を持っている社会だ。これが問題なのだ。


「愛は人間を豊かにしてくれる宝物」かどうかは、どうでもいい話だ。人間的に豊かでない同性愛者なんかいくらでもいる。異性愛者と同じように。セクハラDVオヤジだろうが差別主義者だろうがハッテン場でやりまくってるミソジニーのクソゲイだろうがバカビアンだろうが、誰にでもあるのが人権なのだ。


守って欲しいのは僕の「愛」じゃなくて、僕という同性愛者の生存権だ。


自分の性衝動が正常だとちゃんと教育で学ぶことができ、学校で性的指向を理由にいじめられることなく成長でき、性的指向を理由に社会的地位を脅かされず、選んだ相手と法的にパートナーとなり税金対策をし財産を管理し、望めば何らかの手段で子どもを持ち、その子をきちんとした親権と法的条件の下で育てることができ、親の性的指向ゆえに加えられる危険を感じずに学校や社会に送り出せる。パートナーが事故や重病になれば一番にそばにいる権利を持ち、僕が死ぬときは財産をパートナーに譲れる。
「ずいぶん幸せそうな人生を望んでるじゃないか」と思うか?
だがこれはぜんぶ、日本国籍異性愛者なら誰にでも保障されているものだ。
「そんな生活してない」という人は、持っている権利に気づいてないか使っていないだけだ。


だからたとえば、

なんでも評点ー同性愛者ではない男性2人が税金対策のため結婚@カナダ

こういうケースだって、まったくありえるのだ。
法律は結局「道具」である。同性結婚が法的に認められれば、それを異性愛者が利用したっていい。「愛があるか」「愛が真剣か」ということは、法律や制度で、ましてや当事者でない赤の他人の考えで判断できることではない。家族の倫理とか子育てとかいった問題は,別に議論されるべきことだ。ただ、異性同士とおなじく同性同士もパートナーシップを組みそれに法的な保障を受けることができる、という基本を揺るがしてはならないのだ。


僕が誰を愛するかとか愛さないかとか、幸せになるかとか「人間が豊かになる」とかいったことは、どうでもいいことなのだ。
そんな個人的なことに口を出されても困る。そして、そんな話にかまけて本当に肝心なことを忘れられては、もっと困る。


結論。
倖田來未が、「同性愛をテーマ」にしたという曲を出し同性愛について喋った。
それで僕に何かいいことがあったか?何もない。