「リトル・ダンサー」のクィア・メッセージ


※ 映画「リトル・ダンサー」「ブラス!」のネタバレあり


人様の掲示板でリトル・ダンサーの話題が出ていたので、早速反応する。


リトル・ダンサー(2000) - goo 映画



やっぱりあの映画は、あのラストに感動した人が多かっただろう。
「バレエなんて女々しい奴がやるもんだ!」という炭鉱街の労働者階級の偏見を跳ね返し、ロイヤル・バレエ団の晴れ舞台に立つビリーを演じたのが アダム・クーパー、演目がマシュー・ボーン版「SWAN LAKE」。この選択には、バタバタ転げまわるほど喜んだ人が何千人といたに違いない。ゲイの監督による、男が踊る白鳥の湖。しかもパワフルで美しい。
あの大跳躍に走り出す前、舞台裾で悠然と首を回しスタンバイするクーパーの逞しい項が、眩暈がするほどセクシーだった。


しかし、クィアトランスジェンダー*1という感覚に関心がない人には、確かに面白くも痛快でもないかもしれない。

映画のオチは、「バレエを踊るからっていってオカマだとは限らないんだ!」と強く主張していた少年が、案の定オカマになっていたというもの。あの父親と兄は、『白鳥の湖』のアダム・クーパーを見て、たぶん落ち込むと思うよ。ビデオで見たことあるけど、いちおうopen-mindedな積もりの私もさすがにあれには引いたもの。ただし群舞はいいんです。トロカデロ・デ・モンテカルロもそうなんだけれども、クラシカルなバレエの女性の群舞を男性が踊ると、女性が踊るよりもはるかに美しいことがある。なおアダム・クーパーは何かをライブで見た記憶があるけれども、平凡だったような気がする。
wad's−映画メモ―「リトル・ダンサー」


このレビュワー氏は、ダンス・バレエを愛する人として、この映画をかなり厳しく批判している。バレエに関するその批判は妥当だと思うが *2、ストーリーについてのある解釈には、僕はかなりビックリしてしまった。引用させてもらおう。

まあいずれにせよ、映画の最後の部分で、主人公がバレエ教師のそこそこ可愛い娘になびかなかった理由がわかるという仕掛けになっている。それよりも前に、父親は、息子がチェチェを着た友人と一緒に踊っているところを目撃してしまったときに、自分の息子が同性愛者であるということを認識して受け入れた、という設定になっているのだろう。彼が息子をロンドンに送り出そうと必死になったのは、たぶん田舎町では同性愛者は生きにくいという判断があったからである。
(略)
 念のために書いておくが、私はヘテロセクシャルの男であるが、ホモフォビアではないと思うし、ホモフォビア的な観点からこの映画に腹を立てているわけではない。その逆に、この映画が示唆する性役割の固定に腹を立てているのだ。さらに、バレエというものを、未来のない田舎町に住む同性愛の少年が抱える問題という社会派的テーマを描くための道具として使ったことに腹を立てている。道具としてしか認識していないから、踊りを美しく説得力あるものとして撮ろうと努力していないのだと思う。


これには驚いた。
だって僕は、ビリーがヘテロであることを一瞬でも疑わなかったから。
ビリーは自分で同性愛者じゃないと言っている。マイケルの誘いも拒んでいる。僕なら、その自己申告を単純に信じる。というか―


ゲイと友人だったらゲイか。
女装(チュチュを着た)ゲイの友人と踊ってたらゲイか。
クィアなバレエに出演したらゲイか。


だいたい、ビリーは師匠の娘にはたっぷり性的関心を示している。2人がベットで羽根枕をぶつけ合って暴れまわるシーンは、飛び散る白い羽根のイメージと相まって、ビリーのヘテロ性をきっちりと説明している。あの幼いセックスの匂いの濃厚さには、僕はビリーに恋するマイケルのために嫉妬を覚えたほどだ*3


なんというか、この人の見かたには、
つまらない偏見から解放されたら、非トランス・ヘテロジェンダーを超えられる、クィアになれる
という発想が完全に欠けているのだ。
この映画は、たしかにバレエの描き方は雑かもしれないが、この点でこそ、稀有で痛快な映画なのだ。少なくとも、僕にとってはそうだ。


ゲイとヘテロの友情を可能にするもの


最初にこの映画を観た時、正直、僕はこの映画に登場するゲイ、マイケルの描かれ方があまり好きになれなかった。


運命的にバレエに魅了されたビリーは、親父と兄貴が押しつける「男はボクシング、バレエは女」という極端なジェンダー意識と荒っぽいマチスモの下で立ちすくむ。萎縮したビリーが、ジェンダー的な偏見に勝っていく触媒となるのが、ゲイでトランスヴェスタイトのマイケルの友情だ。


こう見ると、この映画はゲイ・TGをとても好意的に描いているように見えるが、僕には面白くもなんともなかった。だって、セクシュアルマイノリティを「いい人」として描いた映画やドラマなんて、腐るほどあるんだから。むしろ、「オカマ」のマイケルが、ビリーが「女々しくない」ことを証明する踏み台のような扱われ方をしている気がしてイラついた。「バレエをやる男は女々しいかもしれないが、少なくとも『オカマ』ではない(よりはましだ)」というわけだ。マイケルのクィアネスはビリーを驚かせ、彼の偏見を次々と解除していくが、マイケル自身のプライド、彼が抱えている生きづらさのほうは、あまり描き込まれていない*4
そして、マイケルはビリーに恋している。ビリーはマイケルがクローゼットゲイでTVだという秘密を握っている。表面的には友達に見えても、2人の間にはいつも力の上下関係がある。いいかげん被害妄想が強すぎるとは思うが、こういうところに「マイノリティを踏み台にして自分の優位を証明しつつ友情の恩恵を施すヘテロ」のにおいがして、僕はイヤだった。


別れのキスは、同性愛とTGへの偏見から解放されたビリーが、マイケルに率直に友情を示す、美しいシーンかもしれない。しかし、僕もいいかげんスレてしまったのか、あまり感動は覚えなかった(ヒドいな俺も)。愛に応えてくれるわけじゃないヘテロに友情キスをされてもなあ、辛いだけなんだけど、という気がしてしまうのだ。


僕にとって、こうしたすべての「ひっかかり」を全部吹き飛ばしてくれたのが、あのラストの「SWAN LAKE」だった。
ゲイのマイケルとの友情を通してジェンダーの束縛から解放されたヘテロのビリーが、彼もまた自分らしさを手に入れたマイケルの前で、クィア・ゲイ・パフォーマンスの傑作であるボーンの白鳥を踊る、そこにビリーとマイケルの友情の意味がはっきり見えた。
マイケルと接して、ビリーは変わった。それは「セクマイへの偏見がなくなった」なんてことじゃない。そんなのあたりまえだ。同性愛者やトランスジェンダーに偏見を持っていいと誰が言った
ビリーはマイケルを通してクィアなセンスを手に入れ、自分自身が自由になった。そしてあの舞台を通して、ビリーはマイケルに貰ったものを返したのだ。
クィア・アートをゲイがやりゲイが楽しむ、ゲイがやるクィア・アートをヘテロが楽しむ、この程度はあたりまえだ。ヘテロがゲイから学び取ったクィア・アートをゲイの観客に供する、これが素晴らしいのではないか。ここでゲイとヘテロはしっかり交じわりあっている。


ゲイとヘテロは違う。キスやセックスでは交わらない。交わる必要もない。だがクィアを通せば一つになれる。何かを与え合う、それは可能なのだ。
僕にとっては、「苺とチョコレート」のラストに匹敵する「ゲイとヘテロの友情の物語」だ。


サッチャー時代の記憶


ところで、英国党宣言さん「リトル・ダンサー」のページによれば、脚本家のリー・ホールはこの映画を「『ケス』と『フル・モンティ』と『ブラス!』を合わせたような作品」と言っているそう。
炭鉱ストライキを背景にした「ブラス!」「リトル・ダンサー」が似すぎているのはすぐ分かる。1980年代に労働組合の抵抗を叩き潰し炭鉱整理・閉鎖を強行したサッチャー政権に対する批判と、炭鉱労働者へのリスペクトをこめた映画が続けて作られていることに強い印象を感じていたのだけれど、なんだ、最初からモデルにしていたのか。


ブラス !(1996) - goo 映画


リトル・ダンサー」は、ビリーを抑圧するマッチョな炭鉱労働者の父と兄にも、丁寧なリスペクトを向けている。
兄のトニーは粗暴で、弟を怒鳴ることしかできず、別れのぎりぎり前まで「さびしい」と口にできない、どうしようもないマッチョだ。その彼が、The Crashの「London Calling」をBGMにして、機動隊を相手に大立ち回りを演じるシーンは、痺れるほど格好いい。その痛ましいほどヒロイックな姿は、かつて大ストを指揮し、そのため刑務所にぶち込まれ、家族も職も何もかも失って、唯一の生計の手段であるピエロ姿で神とサッチャーに怨嗟の叫びを上げる「ブラス!」のフィルに重なる。いや、案外この推測はドンピシャかも。脚本家のホールは、「ブラス!」のフィルのかつての勇姿を、「リトル・ダンサー」の中で描きたかったのかもしれない。


ブラス!」のラスト、廃坑が決まった炭鉱労働者のブラスバンドが、ロイヤル・アルバート・ホールで優勝杯を拒否し演説をぶち上げ、「威風堂々」を演奏しながらテムズ川を下ってゆくというとんでもないファンタジーは、ただの敗者への感傷ではない。「あの時代を忘れさせまい」という執念がある。確かに労働者は負けたが、その尊厳までは奪わせない。
リトル・ダンサー」で、ロンドン行きのバスに乗ったビリーが成功へと羽ばたいてゆくその同じ時間、父親と兄は昇降機に乗って炭鉱の中に潜ってゆく。


この サッチャー改革を安部政権がお手本にしようとしているのは周知のところで、今でも映画の中だけの話じゃないのだ。

*1:ここではGIDという意味ではなく、表現や概念、発想法という意味合いでこの言葉を使う

*2:たとえば、なぜビリーが指導も受けずにタップを踊れるのか、といった、バレエ映画には致命的なダンス・バレエの描き込みの粗さ、リアリティのなさ。

*3:そのあと、少女がビリーに「あたしのアソコが見たい?」と誘いかけ、ビリーがそれを拒む場面がある。Wadsさんはここを指してビリーがゲイだと考えたのだろうが、感じやすい少年の反応としては、むしろ拒む方が自然だと僕は思う。セックスの誘いを拒んだあとで、ビリーは彼女に「好きだ」ということを伝えている。そんなことを言わなくても、君はかわいいよ、と。ビリーが彼女を愛していた証拠だ。

*4:マイケルが親子揃ってTVであるという設定は、一見ぶっ飛んでいてありえなさそうだが、僕は気に入った。マイケルがあの差別的な街の空気の中でシッカリとゲイでTVの自分を受け入れている説得力のある説明になっている