Queer Music Experience―LGBTミュージックTOP100フィナーレ


Queer Music Experience、「LGBTミュージックTOP100」の第5位―第1位が、昨夜とうとう発表されました。


LGBTミュージックTOP100 No. 5 - No. 1


感動でした。
えらいフィナーレでした。
100の曲を通しLGBTミュージック史を振り返る壮大な企画のファイナルにふさわしい5曲でした。


このTOP100は、Q.M.E.マスター藤嶋貴樹さんが考えてきた「クィア・ミュージック/LGBTミュージック」という音楽カテゴリーにもとづいて、選ばれています。


僕らは軽く「ゲイソング」とか「クィア・ミュージック」と言いますが、それで具体的にどういう音楽を指そうとしているのか、自分でもよく分かっていないと思います。「ゲイ映画」とか「同性愛文学」という言葉が、分かるようで分からない、輪郭の曖昧な、漠然とした概念であるのと同じです。
そもそも、「ゲイ」とはなにか、ほんとうに、完璧に説明できる人が、ゲイ当事者でもいるでしょうか?


藤嶋さんの「LGBTミュージック」の定義は、「カミングアウトしたLGBT当事者のアーティストが作った音楽」というものです。

Queer Music Experience―What's Queer Music?


(ここからは、僕なりの理解が入ってきますがー)
LGBTミュージックの作り手は、たまたま、偶然に、同性愛者や両性愛者やトランスジェンダーに生まれついた人間です。共通点は、「セクシュアリティという、人間の基本的な一部が、たまたま多数派(ヘテロ・非トランス)と違う」というだけのことです。


しかし、その偶然の差は、その人たちの生きかたを何らかのかたちで規定します(性的マイノリティがさまざまなかたちで抑圧を受ける現在までの時代では、とくに)。「LGBTアーティストのいきざまを見る,彼らが作った音楽を聴く」というのは、「この世界に、たまたまLGBTに生まれつくとは、どういうことなのか」を知ることにほかなりません。


ショービジネスは、この世界を映す鏡のようなものです。そこで表現される世界は、社会の意識や大衆の欲望の具象化です。もっとも保守的な偏見もむき出しになるし、それを打ち破るものも、ショービジネス界から現れます。


Q.M.E.で今回選ばれた100曲のLGBTミュージックと、その歌い手たちの軌跡は、ロック・ポップの歴史を鏡にして、「LGBTがこの世界でどうやって生きてきたのか・生きているのか」を、僕に教えてくれました。
カミングアウトとはなにか。ゲイ・テイストとは、タブル・ミーニングとは、クローゼット、妥協とはなにか。そしてLGBTに生まれ、「私」として生きることは、どういうことか−


そして、TOP5です。
第1位は、その名声・栄光・名曲からして、納得の堂々1位でした。
しかし僕は、この選曲に、藤嶋さんがかけた「ダブル・ミーニング」のほうを、強く感じてしまいました(笑)。
時間をかけて選んできた100曲と、LGBTアーティストたちの生きざまを、そのままLGBTオーディエンスに、LGBT以外のすべてのオーディエンスに手渡そうとする音楽評論家としての心意気に、唸らされてしまったのです。−これはすべて、「あなたの歌」ですよ、と。


音楽を評価するのも、愛するのも、大切にするのも、忘れないのも、結局オーディエンスです。
マイノリティにとって厄介なことの1つは、「自分たち自身のことをなかなか知ることができない」ということです。僕らは、僕ら自身と同じように、たまたまLGBTというセクシュアリティに生まれついて生きてきたアーティストのことを、どれほど知っているでしょうか。
マイノリティ性が隠される、黙殺される、存在しないことにされること―これが、僕らのLGBTミュージックの理解に、小さからぬ歪みをもたらしていると思います。
たとえば、80年代にCulture Clubで一世を風靡したボーイ・ジョージが、そのトランスジェンダーな魅力を熱狂的に支持されながら、「ゲイである」ことは隠さねばならなかった。というか、彼のファンは彼のヘテロ男性のイメージを超越した魅力を熱烈に愛しながら、彼がゲイであるとは露ほども想像しなかった。こういうことは、とても悲しいことだと僕は思うのです(Queer Music Experienceーゲイのラヴ・ソングとしてのカルチャー・クラブ)。


だから僕は、やはりたまたまゲイに生まれついた人間として、LGBTミュージック(僕が知っているのは、ごくわずかですが)を大切に聴き、憶えておきたいと思います。
LGBTアーティストのLGBTとしての側面、LGBTミュージックのLGBTミュージックとしての側面を愛おしく思い、抱きしめることは、別にアーティストや音楽の普遍性を損ね、矮小化するものではないと思います。それはやはり彼らと彼らの音楽の、愛すべき一部なのですから。
むしろ、LGBTによって作られた音楽が、LGBTオーディエンスに留まらない普遍性を持ち、みんなを感動させる、このことが大切なのだと思います。
以前、別のエントリで書いたことですがーそれこそが、「みんな」が同性愛者も異性愛者もトランスジェンダーも入っての「みんな」であることの、なによりの証なのですから。


と、いうことを考える機会を与えて下さったQueer Music Experience-LGBTミュージックTOP100に、僕は深く深く感謝しているわけです。


ありがとうございました。そして、お疲れさまでした。


これからもまた、ホットな更新を、とても楽しみにしているのです(脅迫的)。

明石家さんまが「メルシイ!人生」


ニュースサイトで見かけたけれど、4月7日のエントリで紹介した「メルシイ!人生」が明石家さんま主演の舞台になるそうだ。


チケットぴあー「メルシィ! 僕ぅ?〜我が人生は薔薇色に」


気になるのは、当然加えられているアレンジだけれどー


・舞台は日本のタイヤ会社(コンドームも作っている)のフランス支社。つまり、舞台はフランスを背景にした日本社会


・映画の老ゲイ・ベロンにあたる藤木(松澤一之)は、元経営コンサルタントで今は孤独に暮らす老人、ではないようだ。「元カリスマドラァグクイーン。実は安田(明石家さんま、映画のピニョンにあたる)が勤めていた会社と過去に関わりが…」という設定で、ひとりぼっちではなく、家にはゲイ友が遊びに通ってきているらしい。ゲイ友役は、明楽哲典にKABA.ちゃん
映画のベロン老人は、プライベートではレザーのコスプレでゲイバー通いもしていたが、普通のサラリーマンで、ゲイであることを理由に会社を解雇された。見た目の「ゲイっぽさ」は微塵もない静かな老人だ。
が、日本人が演じる場合、それでは分からない、ということで、「目に見えるゲイっぽさ」を追加するのだろう。

  
こちらが映画のベロン老人、Michel Aumont。対する舞台版の松澤一之。


・安田(明石家さんま)が勤めるタイヤ会社は閉鎖寸前。
これも映画にはない設定。「ゲイのリストラに神経質になる」という展開に説得力を持たせるために、会社が今にも潰れそう、という設定を追加したのかな?


こういう改変には、僕には正直少し残念に思われるところもあるけれど、なかなか関心もわく。
前のエントリでは、映画に描かれている、ゲイと目された人間に対する周囲の人々の反応には、フランス社会ならではの同性愛者に対する姿勢がおそらく反映されているのだろうと指摘した。
一方、この舞台では、同じ設定(身近な人間が同性愛者だったら?)を、日本社会に置き換えてやってみようとしているわけだ。
脚本・演出は、どんなふうにこの問いに答えようとしているのか?


東京・大阪のみの公演らしいので、残念ながら観る機会はなさそうだが、どんな出来になるか、知りたいところ。


それにしても、関連ニュースのタイトルが、なぜかそろって「明石家さんまがゲイ役に挑戦」なのだ。なぜ?!ゲイ役じゃないっていうのに。
あと、「ゲイの本場のフランスで、心ならずもゲイをカミングアウトすることになってしまった主人公のドタバタ劇を描く」というのが公演サイドからの惹句らしい。


「ゲイの本場」だったのか?!知らなかったよ。


日本企業のフランス支社が舞台になっているわけだが、まさか、同性愛やカミングアウトをフランスの「異文化」として描写するつもりかな?
ちょっとそれは…う〜む。