「選択的バイセクシュアル」という選択?追補
前回の5月9日のエントリで、Queer Music Experience.の「選択的バイセクシュアル・アーティストの系譜」シリーズの紹介をしたのだけれど。
藤嶋さんが、「選択的バイセクシュアルという性的指向のカテゴリ」を設定した理由について、改めて説明したエントリを書いておられる。
Queer Music Experience.−選択的バイセクシュアル・アーティストの系譜・幕間
これ↑が、ものすごく、分かりやすいです。
「選択的バイセクシュアルって、なによ」とうさん臭く思った人は、これを読めば、一発で納得いきます。
というか、僕の前エントリの紹介は、「選択的バイセクシュアル」というカテゴリを考えた藤嶋さんの意図について、読んだ人をミスリードするかもしれない。
だから、ぜひこれ↑を読んで欲しい。
というか、僕の前エントリは、忘れてくれたほうがいいです。
たとえば、この世の中には、「基本はノンケなんだけど、実はバイ体験にも興味がある」という人たちが、そうした性的指向をカミングアウトできずに悶々としているという可能性だって、当然あるわけですよ。
そうした一般の人たちがですよ、自分と同じような性的関心を公言している有名人たちが、ノンケの人たちからは「気持ちわりーこと言ってんじゃねーよ、ボケ」と攻撃され、LGBTの人たちからは「ホントはバイのくせにノンケのふりしてんじゃねーわよ」とか「ノンケのくせに同性愛をわかったふりしてんじゃねーわよ」とか叩かれているのを見たとしたら、いったいどういう気分になると思います?
たぶん、メチャメチャいたたまれない気分になると思うんですよ。
まるで自分自身が責められてるかのような。
きっと、抑圧を感じると思うんです。
そんな思いを、させてはいけないでしょ?
だから、「基本はノンケ、でもバイ体験にも興味アリ」という人たちのために、そうした性的関心を公言してきたアーティストたちの系譜を、反面教師的な例も含めて、ここで検証していきましょう!
というのが、ここ一連の「選択的バイセクシュアル・アーティストの系譜」の主旨です。
そうなのだ。
「選択的バイセクシュアル」にあたる人たちは、「ふらふらしている」「ノンケの安全圏にいて美味しいところだけ吸おうとしている」と、ネガティブなレッテルを貼られがちである。「自分の性的指向がハッキリしないなんて、あるの?」とか。
自分がネガティブなレッテルを貼られかねない方向に、踏み出すのを躊躇うなんてのは、当然だ。
しかし、ネガティブなレッテルに悩んでいる人は、まったく同じものをもっとポジティブに、ニュートラルな意味合いで定義したカテゴリによって、救われることができる。
ほかでもない僕が、そういう体験をしてきた。
いきなり私事になるが、僕が自分の性的指向を意識し始めたのは、中学生のころだ。
だが、男が好きで、男の体を抱きしめたかったにもかかわらず、僕は自分が「同性愛者」だと思っていなかった。
今思い出すと不思議に思われるけれど、そのころの僕は、同性愛者の存在をリアルに実感できないノンケと同じ頭をしていたのだ。
「ホモ」(そのころは、まだ同性愛者=ホモが普通だった)は気味の悪いイメージしかない遠い存在で、それが自分の日常に関係あるなんて、ましてや「自分自身がそうだ」なんて、想像もできなかった。暗い「ホモ」のイメージは、子どもの僕が負うにはあまりに重過ぎた。
一種の自衛本能だと思うのだけれど、僕自身が「男が好きだ」ということと、「ホモである」ことのあいだの関連は、脳のシナプシスに部分異常でも起きてたみたいに、見事に切れていた。
だから、高校生のとき、「ゲイ」というアイデンティティに出会ったことは、明らかに僕を救った。
もちろん、急いで付け加えておくが、自分の属するカテゴリが分かったところで、それですべて安泰というわけではない。
「私はふつうの人間です」という、ノンケなら最初っから立っていたゼロ地点に立っただけである。
ゲイには「男が好きな男」という以上の定義はないのだから、ゲイという生をどう生きていくのかは、全部自分にかかっている。
そんなわけで、凡ゲイが味わう苦楽を味わいつつ、現在に至っているのだけれど。
しかし、異性愛中心主義の社会でゲイとして生きていくとき、感情的な軋轢を起こすとき、ゲイというカテゴリについて先達が蓄積してきた自己表現の言葉と、尊敬に価するロール・モデルの存在が、いつも僕を助けてくれている。そう感じている。
誰にでも、そういうロール・モデルが必要だ。
前エントリで、選択的バイセクシュアル宣言的な発言をしたナタリー・ポートマンやジャレッド・レトのことを「困った人」と呼んだ。
それは、あくまで僕の非選択的ゲイという立ち位置からの意見であって、非選択的バイセクシュアルが「困った人」だというわけではない。僕にそんなことを言う権利はない。
前エントリでも述べたように、セクシュアリティの多様なカテゴリは、悲しいことに現在、ベタに平等に多様なのではない。マジョリティのヘテロセクシュアルを頂点とした偏見や排除の構造に組み込まれている。いつどのカテゴリが、どのカテゴリを叩くか分からない。
「自分の立ち位置が、いつ、誰を、どのように排斥しかねないか」ということに、僕らは敏感でなければならないと思う。
生まれついての非選択的な同性愛者・バイセクシュアルが、バイセクシュアルを望んでいるノンケを差別し、ネガティブなレッテルを貼り、叩くことになってはいけない。
だから、自分の中にセクシュアルマイノリティの傾向を自覚し、「選択的バイセクシュアル」ではないか、と思う人は、それを自分で表現をしていって欲しい、と僕は感じる。
選択的バイセクシュアルとはなにかは、選択的バイセクシュアルの当事者にしか語れないのだ。
選択と非選択のあいだで、衝突する部分もある。だが、それを通して、共存のための経験を積むことができるようになる。
しかし、都合3回も「選択的バイセクシュアル」について考えてきたけれど、何度書いても歯切れが悪い。
当事者のいないところで「同性愛ってね…」と得々と語られるのは、いまいちキモチ悪い。それと同じことを、自分がやっているような感じである。いい加減、慎んだほうがいいという気がしてきた。
とりあえずは、黙って聴くほうに専念しよう。
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