R.E.M「Monster」


QMEのLGBTミュージックTOP100(現在21位まで!)の60位にR.E.M.の「Everybody Hurts」、なんと24位に「Losing My Religion」が入った。うれしい。
お祝い(?)に、「Monster」(1994年)である。

Monster

Monster


僕がR.E.Mを知ったきっかけはすごく分かりやすくて、1994年に「What’s the Frequency, Kenneth?」がヒットしたからだ。あのギターとPVのカッコよさに高校生の僕は完全にアテられてしまい、速攻で「Monster」を「大人買い」した。
音楽はもっぱら地元の図書館とレンタルと中古だった貧乏学生の僕にとって、CDを新盤で買うというのは、「尊敬」のあかしみたいなものだった。R.E.Mの音楽はカッコいいだけじゃなく、なにかリスペクタブルなものがあった。


IFILM―R.E.M.―What’s the Frequency, Kenneth?
(画質が悪いので、目をやられそうになる。残念。)


マイケル・スタイプのクールなカッコよさにも痺れたが、僕はなんとなくノンケくさい人だと思っていた。そんなわけで、のちに彼が両性に惹かれる人間だと知ったときは、ひそかにおのれの不明を恥じた。ゲイは同類を見分けることができるというのは、まこと都市伝説である。


しかし、藤嶋さんも書いているように、スタイプを「バイ」と言ってはいけないのだ。彼は女性にも性的欲望を感じるが男により惹かれる、いわゆる「ゲイよりのバイ」になる人だが(2001年のカミングアウト当時のパートナーは同性)、彼のセクシュアルアイデンティティは「クィア」で、ゲイ・バイ・ヘテロ性的指向の分類に自分が当てはめられることを拒んでいる。

CR(チャーリー・ローズ):あなたにとっていわばバイセクシュアルであることを認めるのは辛かったでしょう、そうしなければならなかったとき、したのかどうか―
MS(マイケル・スタイプ):僕はその言葉はイヤだな。
CR:この言葉がイヤだって?
MS:個人的にってわけじゃなく―
CR:でも、この言葉を使ったでしょう。
MS:使ってないよ。
CR:使ってませんか、私はまた誰かが―使ってないんですか?
MS:いいや。
CR:あなたはどんな言葉を使ったんです?
MS:いや、たぶん―僕がはまるようなカテゴリーがあるとしたら、それがたぶん僕に当てはまる、だって―だって僕は―僕は男も女も求めるわけだし。
CR:そうですね。
MS:それは違うよ。僕はセクシュアリティを分類するのに腹が立つんだ。僕の考えではそれは―
CR:じゃ、あなたは「異性愛」も「同性愛」についても、言葉と同じく同じように感じてるんですか?
MS:ああ、で、僕がいいたいのは、何か一つまたは別のカテゴリーに自己同一化するのがとてもしっくりする、という人たちがいる―僕はそれはいいと思うんだ。でも、僕にはそれはしっくりこない。セクシュアリティはもっと流動的なものだと僕は思う。で、僕は―僕は欲望みたいな流動的なものをカテゴライズすることを必要とする時代は終わってるんじゃないかなと感じるんだ。


1998年5月7日 The Charlie Rose Showの対談
queerbychoiceから引用


僕は、「ゲイ」というカテゴリーに自己同一化してしっくりしたほう、自分が分かりやすくなった人間だ。スタイプは、カテゴリーに自分を当てはめないほうが、自分らしくあれる、そういう人間なのだ。



「スタイプは自分を『クィア・アーティスト』と称している」というのは、定説でいいらしい(glbtqにもWikipediaにも載っている)。
自分のアートやパフォーマンスが、自分の個人的セクシュアリティに関連があると思っていないLGBTアーティストは大勢いるだろうし、関連を詮索されるのを嫌う人もいる。その中で、スタイプが「クィア・アーティスト」を自称しているというのは、なんとなくうれしい。
しかし、じゃあマイケル・スタイプの作る楽曲ってどう「クィア」なのかと考えると、少なくとも古式ゆかしい(?)ゲイ・テイストみたいなものとはもちろん無縁だ。敢えていうなら、R.E.Mの称号のようになっている「オルタナティヴ」―主流から外れ、外れることによる自由さの中で批判性の高い音楽を生み出していること、それは「クィア」的かもしれない。
こじつけっぽいかもしれないけれど、スタイプは、自分のオルタナティヴな音楽性を、たまたま持って生まれたセクシュアリティに絡めて、クィアと考えているのかな、などと勝手に想像してみる。


「主流から外れている」とかいうことそれ自体には、あまり意味がない。「主流じゃない」ことにしか価値がないみたいな物や人間は、それほど面白くないだろうと思う。
R.E.MがR.E.Mでマイケル・スタイプマイケル・スタイプなのは、主流から外れていようがいなかろうが、自分の音楽だけを作り続けているからだ。


メジャーヒットを飛ばしながら、オルタナティヴな(というか自分たち自身の)音楽性を貫き続けるためR.E.Mがすごい努力をしたというのは、よく言われている。
制度や文化や常識が押し付けてくるプレッシャーの中で(それは並大抵のものじゃない)、自分自身を手放さず、見失わない、それゆえにリスペクタブルな人―僕にとって、「クィア」とはそういう生き方のことなのかもしれないと、スタイプのヴォーカルを聴きながら考えている。



「Monster」は、R.E.Mの中ではヘビーなギターが突出している異色作で、あまり評価しない人も多い。
しかし、10年以上経って聴いても、やはり魅力的なアルバムだと僕は思う。「What’s the Frequency」や「King of Comedy」のザラザラとアグレッシヴな音に酔った心に「Tongue」や「Let Me In」が深く染み込み、最後は「You」の寂しい旋律の中に、突き放されたように取り残される。―巧みに構成された短編集を一冊読んだような気分になる。


「Monster」を買った高校生の頃、僕は自分が何なのかはっきり分かっていなかったし、マイケル・スタイプが何なのかも知らなかった。今、同じアルバムを聞きながら、僕は自分が「ゲイ」であり彼が「クィア」であることを知っている。
そして、あのころ直感的に感じた尊敬の気持ちは、今も変わっていない。


LGBTIQは、ときどきこんなふうに、遠回りな出会いかたをする。
そのたびに僕は、とても奇妙な気分になる。