デレク・ジャーマン vs. イアン・マッケラン


今日5月25日は、イアン・マッケランさんのお誕生日なのだ。1939年のお生まれ、当年69歳。


ウィキペディア―イアン・マッケラン


俳優として、ゲイ・アクティビストとしてイコン的存在であるマッケランさんについて、バースデイにかこつけてなにか書いてみたいと思っているのだけれど、さまざまにリスペクタブルな活動が印象に残る彼について僕が一番気になっていることは、彼がデレク・ジャーマンから激烈に批判された、ていうことだったりする。


ウィキペディア―デレク・ジャーマン


ちょっと確認しておこうと、デレク・ジャーマン著/大塚隆史訳『危険は承知ーデレク・ジャーマンの遺言』をめくって、ジャーマンさんが名指しでマッケランさんを糾弾したテキストをすぐ発見。
なんでお誕生日に批判文やねん?!という感じだが、ジャーマンもマッケランも好きな僕としては、2人の対立(というかジャーマンのマッケラン批判)は、けっこう大切なポイントだったりする。
ちょっと長いのだけれど、引用しよう。
ちなみに、大塚隆史さんの日本語訳のカタカナの「オカマ」は、ジャーマンが名乗った大文字の「Queer」である。



危険は承知―デレク・ジャーマンの遺言

危険は承知―デレク・ジャーマンの遺言


誰のものかわからない平和:ストーンウォールは暴動だった
  デレク・ジャーマン『危険は承知』pp. 136-140.


 六〇年代のオカマは、それ以降のオカマと同じように、表面的な体面を保ちながら、抑圧に対して目をつぶってきた。ピンストライプのシャツとスーツを着た礼儀正しい都会のオネエさんたちは出世に没頭し、事態の変革には何の役にも立たなかった。



 たとえスーツに身を包んでいても、オカマであることは決して尊敬されることではなかった。因習に従えば従うほど、人目を忍んだ人生はさらに絶望的になるのだ。我々の世界は、社会の隅に追いやられて、ヘテロ社会の薄明かりの中に存在してきたに過ぎない。それが現実だったのだ。もし誰かが抗議の声を上げれば、誰のものだかわかりもしない平和を脅かしたと非難されるだけだ。抗議のデモは、クローゼットに隠れている者たちも脅かしてきた。彼らの無作為が非難されているからだ。



 ストーンウォールは暴動だった。それは一九六九年の夏,ニューヨークのクリストファー・ストリートにあるストーンウォールという名のバーの外で起こった。オカマたちが初めて、レンガやボトル、空になったビールグラスを投げて応戦し,車を燃やしたのだ。最も勇敢に戦ったのはドラアグ・クイーンだった。彼らの女物のドレスは勇気の証だ。この暴動は我々の意識に革命の火を点けた。利害関係を共有するコミュニティが生まれ、議論は始まった。激しく戦えば戦うほど、我々の立場は強くなっていった。



 我々の世界を目に見えるものにするすべての試みが、クローゼットに隠れている者たちを責め立ててきた。いつか、そうした試みが、クウェンティン・クリスプが出ているブルーリンスのコマーシャルを我々の悪しき見本だと嘆いたり、GLF(ゲイ解放戦線)が乱暴だと文句をつけたりすることと、同じぐらい馬鹿げていると思える日が来るだろう。クローゼットに隠れている者にとって、我々は同じ人間ではないのだ。彼らはすべて手に入れてきたが、何もしなかった。ただ上品なインテリアの部屋に安住し、オペラに通い、変革に繋がるすべてを台なしにしてきた。彼らの心は,彼らのシャツのように糊が効きすぎていたのだ。



 二十年後、"ストーンウォール"(自選自利の議会ロビーグループ)は、因習と必要以上に妥協してしまった。ストーンウォール・バーで暴動を起こした者たちは、ゲイの体制派にたやすく吸収されてしまうために戦ったのだろうか?ゲイの体制派は、ヘテロ社会の中で我々の本当に利益を代表してくれる存在なのだろうか?



 彼らは本当に我々の代表なのか?



 我々の問題を訴えるために、なぜたった一人の男だけがダウニング街に行ったんだ?なぜ女性は一人もいなかったんだ?残りの我々では受け入れられないというのか?これじゃまるでダウニング街首相官邸に、以前にはオカマが一人もいなかったみたいじゃないか。こんな風に、誰もが文句を言った。



 マーガレット・サッチャーが、英国の映画界が抱える問題を検討するために業界関係者と面会した時は、彼女はリチャード・アッテンボローからアイザック・ジュリアンまで幅広い層の人に会った。そして彼らすべてが発言した。マッケレンがたった一人で訪問したのは,選挙用の作戦だったのだろうか?ゲイの投票は、政権が保守党と労働党のどちらになるかを左右する。我々は―少なくともー全人口の十分の一を占めているのだ。


 マッケレンは自ら主張するように、彼個人を代表していたのだろうか?もしそうだとしても、人々の目にはそうは映らなかった。ゲイの新聞が伝えるところによると、最も最近の選挙で、ゲイの票は政党間に均等に分かれたという話だ。しかし"二八条"の後で、誰が保守党に投票できるというのか?


 もし保守党から勲章でももらいたいなら、投票できるかもしれない。勲章は,この不名誉な社会構造を支えるものだ。バーバラ・カートランド、イアン・マッケレン、ジェームス・アンダートンなど、こんな連中は何の役にも立たない。勲章をもらうなどというのは、最低の虚栄でしかない。同性愛者だと公表しているたった一人の下院議員(労働党)は、這いつくばってその餌を貰いに行き、おまけに私のことを新聞で批判までしてくれた。今と同じ古い世界ではなく、もっと違った世界を構築しようと懸命に努力した活動家たちのあらゆる行動は、この瞬間に裏切られたのだ。


 マッケレンはチャーミングで知的な男だ。そして、それが問題なのだ。そう、鮫はいつでも十八匹の雑魚を連れて、真珠のような歯を隠し持っているからね。その雑魚の一人,シュレンジャーは保守党のために宣伝活動を行った。その保守党は八〇年代を台なしにして、我々の生活を地獄に落とした張本人だ。



 彼らの裏切りの一つは、"我々の暴動"という重要な意味を持つストーンウォールの名前を盗んで、自分たちのティー・パーティーの名前にしてしまったことだ。我々は英国ヘテロ社会の最悪の形態の中に統合されようとしている。その政治形態はまるで閉ざされた部屋の中のジェントルマン・クラブ。そこでは骨抜き状態を楽しんでいる無知な大衆のために、非民主的な方法ですべてが決定されるのだ。


 "ストーンウォール"の連中は,私の批判を認めないだろう。そして議論さえなかったふりをするに違いない。彼らが政治的に成功する唯一の方法は、我々の同質性(ホモジェナイティ)の神話や、"ゲイ・コミュニティ"という幻想を利用することだけだ。しかし、我々の現実の生き方は実に様々だ。それはいつの時代もそうだった。セクシュアリティは多様性に満ちている。それぞれが感じるオーガズムが、個別の自由をもたらすのだ。



うーん。引用しながら、かなりたじろいでしまった。
たじろいでしまうのは、(僕自身の痛点を突かれる)鋭さだけでなく、ジャーマンが珍しくモロに"政治的な"――選挙とか票とか――ことを語っているせいでもあると思う。ジャーマンは「ゲイ」を名乗らなかったしその名に批判的だったし、ゲイ・ライツ運動といったものはかなり皮肉な目で見て、距離を保っていた。言いたいことはすべて映画で表現する人だった。


この文章はなんだかすごくジャーマンらしくないような、でもやっぱりすごくジャーマンらしいような気がする。アメリカをおもな舞台に展開した「クィア理論」誕生の流れのなかにジャーマンが位置しているのかいないのか僕はよく知らないのだけれど、ここでの彼の言葉は一語一句、性的少数者をゲイ主導の「同質性」に取り込んで動かそうとしたゲイ・ライツ運動に対する激烈な批判としての「クィア」だろう。


この文章の背景、1980−90年代の英国政治(まさにセクション28が問題になった時代)や、その中でのゲイ・ライツ運動の具体的問題点について僕は無知だし、なにか適当な付け焼刃で語れる資格もない。が、それでもこの文章が僕をひきつけるのは、ここで「ストーンウォール」というタームが、ジャーマンとマッケランを分かつ象徴的な言葉になっていることだ。


ウィキペディア―ストーンウォールの反乱


ジャーマンは、2つの意味でこの言葉を使っている。第一に、1969年アメリカで起きた、同性愛者権利運動の転換点とされる歴史的暴動として、第二に、イアン・マッケランが創設メンバーとなった英国有数のLGB権利運動組織「ストーンウォール」の名前として。


Stonewall : Equality & Justice for Lesbian, Gay Men & Bisexuals


まっすぐに怒りと異議を迸らせる抵抗と、政治的影響力を持つエスタブリッシュメントの組織運動、デレク・ジャーマンは生涯前者の方に立つ人だったろう。イアン・マッケランは、後者での自分の役割を自覚してきた。
徹底的に違う。批判を避けられない部分もある。だが、それぞれに尊敬に価する選択だーと、僕は思うのだ。


この続きは、またあとから書きたい。