溝口彰子「「百合」と「レズ」のはざまで:レズビアンから見た日本映画」

図書館で調べもの中、この本が目に。


映画と身体/性(日本映画史叢書 6)

映画と身体/性(日本映画史叢書 6)


たしか鷲谷花氏の論文が載っているはず、と手に取ったら、溝口彰子氏もレズビアン映画批評を寄稿していたことを知る。嬉しい発見。


溝口彰子「「百合」と「レズ」のはざまで:レズビアンから見た日本映画」斉藤綾子『映画と身体/性』pp.313-343.


読んだ内容と感想をざっくりとメモ。



 これまで日本映画は,レズビアン像を、「トイレに連れだっていく女子高校生」、つまり、思春期の少女同士の、友情と呼ぶにはあまりに緊密な関係性と、「女とちちくりあう女」、つまり、女とセックスする女、というステレオタイプで描いてきた。前者は、少女同士のこまやかな心理的つながりはあるが、決して肉体関係はない、あくまでプラトニックな関係性が前提とされており、吉屋信子少女小説につらなる、昨今ではしばしば「百合」と呼ばれるジャンルに属している。対して、後者の「女性同士のセックス=『レズ』」という概念は、異性愛男性向けに女性同士がからむ映像をポルノグラフィとして供給する「レズ・ポルノ」と地続きである。つまり、大人の女性同士が心理的にも緊密につながりあい、肉体的にも親密な接触をもつ姿は描かれてこなかった。


溝口彰子「「百合」と「レズ」のはざまで」 pp, 315-316.


日本映画の女性同性愛表象を考察する第1部と、日本映画をレズビアンの立場で観る「レズビアン・リーディング」を扱う第2部から成る。
第1部は、結論の予想がつくというか、特に意外性のあるトピックを含む内容ではない。つまり、日本映画の女性同性愛表象が「百合」か「レズ」かに偏向し、女性を愛し欲望する女性として生きる"レズビアンという人生経験"が描かれることはごく一部のインディー映画をのぞいてなかった、というものだ(というか、こういう結論が「予想できる」ってのが、とても残念なことなのだけれど)。
しかし、レズビアン映画は海外の有名な作品を数点観ただけで、邦画はまったく知らない僕には、レズビアン表象を含む邦画の批評的ガイドとして、とても興味深かった。


「百合」映画には、「多くのレズビアン観客にとって、自らの思春期を思い起こして感情移入する対象となる(p.316.)」、「レズビアンバイセクシュアル女性たちから高い支持を受けている作品(p.317.)」もある。しかし「その支持はあくまでも思春期に立ち戻っての共感によるものであり、これらの作品は,大人のレズビアンとしての視点から見れば、疎外的でもある。というのも、これらの映画の前提となっているのは、少女達が限りなくレズビアン的な『百合』関係にいいられるのが、10代の限られた期間のみであり、彼女たちが大人になったら異性愛規範に回収される、という世界観(p.317.)」である。
櫻の園』『ラヴァーズ・キス』『blue』バリエーションとして富江』『エコエコアザラク』『キューティーハニーアニメ少女革命ウテナが挙っている。


対して、「レズ」映画は、次の4カテゴリーに分類される。

  1. 異性愛中心の世界観の中で,セックス行為のバリエーションとして女性同士の性愛が登場する「レズ・ポルノ」的映画
  2. 異常者としてのレズビアンを描く映画
  3. 女版バディ・フィルム
  4. 女同士の性愛を含めた関係性が描かれる映画


4.の『ルビーフルーツ』『ナチュラル・ウーマン』(僕は後者だけ読んだことがあるが)は、原作はどこからどう見ても完全なレズビアン小説だろうが、映画版は「男性だけが喜んでしまいそうな要素が強く」、レズビアン・メディアからは「最低最悪」「ワースト」(p.322.)の評価を与えられていたとは、初めて知った。


しかし、低予算のインディー映画には、「百合」「レズ」のステレオタイプにはまらない映画が作られており、それの例として『LOVE/JUICE』『アイノカラダ』『百合祭』『シュガースイート』が挙がっている。
また、「近年、異性愛男性向けであってもレズビアンも楽しむことができる「レズAV」が増えており…各社の競争が激化するなか生き残りをかけて、新しい購買層を開拓するために、レズビアンを消費者として意識するAVメーカーも現れている(p.338, 注4.)」というのは、なんだか興味深い(昨今のゲイアダルトには女性客−やおいBL好きの腐女子を含むのだろうがーを市場に入れた製作をしているところもある、というのをどこかで耳にしたような記憶があるが、似たような現象が「レズ・ポルノ」業界ではこういう形をとるのか)


第二部は、女性同性愛を扱わない、異性愛を語る映画などを、「レズビアン・リーディング」する、という行為について。
レズビアン観客が感情移入でき、「自分の物語」として読むことができる可能性があるなら、「あらゆる映画はレズビアン映画でありうる(p.329.)」。
しかし、どんな映画でも、可能というわけではない。多くの映画は、同性愛者の感情移入を阻むガチガチの異性愛規範で作られているからだ。「自分とかけ離れた異性愛男性のキャラクターに感情移入する可能性はどのレズビアン観客にも開かれているが」「多くのレズビアン観客にとっては、レズビアンであるという社会的主体の自覚が、きわめて異性愛規範的でありペニス信奉である物語のヒーローに感情移入することをさまたげている」。



 わたしも含めた多くのレズビアン観客は、異性愛規範とペニス執着のテキストから距離を持つことができないのだ。いいかえれば、意図的にせよ無意識にせよ,そのテキストに抵抗しているがために、そのテキストを自分にとってのファンタジー・シナリオとして利用することができない。(略)
この意味での「テキストへの抵抗が少ない映画が,レズビアン観客にとって、非・レズビアンの登場人物への感情移入を通して「自分の物語」としてレズビアン・リーディングを行うことが容易な映画テキストだといえるだろう。


溝口、前掲論文, p.330.


溝口氏は、「レズビアン・リーディングを行うことが容易な映画テキスト」として、「宝塚モード」と「ヤオイ・モード」を挙げる。


「宝塚モード」とは、「宝塚歌劇団の演目にもしばしば取り上げられる往年のハリウッドの恋愛映画のヒーローに、レズビアン観客が感情移入するレズビアン・リーディングのモード」だそうだ。「紳士的なヒーローがヒロインをエスコートする一種の騎士道的なイメージや、きわめてフェミニンなヒロイン、ドラマチックな恋愛劇を目安としている(pp.330-331.)」。
その例としてあげられているのが、デボラ・ブライトDeborah BrightのDream Girlsシリーズ。こちらのサイトで見ることができる。
Deborah Bright.com
これはレズビアンの中でもブッチのファンタジーだそうだが、「ブッチ=フェム幻想がないどころか、徹底的な対等幻想の人間であり、視覚的にも、化粧も含めて、適度に流行にコミットしつつも自分独自の物差しも持っていることがうかがえる装いをした女性二人のカップリング(p.331.)」を理想とした溝口氏にも、無縁ではないそうだ。


こういう「宝塚モード」をレズビアン観客がそれぞれどう捉えているのか(好むか好まないか)分からないけれど、これって、古色蒼然すぎるゴテゴテにベタベタな異性愛ドラマが、かえって異性愛規範を突き抜けてしまいキャンプやゲイ・テイストに近づいてゲイのツボを刺激する、というのに通じるところがあるような気がする。『ムーラン・ルージュ』や『嫌われ松子の一生』が完全に異性愛ドラマなのに「ゲイ・ムービー」と言ってしまっておかしくないようなテイストがある、はじめからそれを狙って作られているように感じられさえするという、あれだ。


もう1つの、「ヤオイ・モード(p.333-336.)」は、あまりよく理解できていない気もするが、少し驚かされた。
やおい(ヤオイ)については、説明の必要はあるまい。女性の男性同性愛表象、または男性同性愛的表象への愛着は、異性愛女性だけに限らないようだ。
溝口氏は、ボーイズ・ラブにおける同性愛嫌悪表現を丁寧に抽出するパイオニア的論考を書いた人だが、ご自身やおい的なものの愛好家である(そういう人が、堅実なやおいホモフォビア批判をしたということに、僕はなんとなく良い印象があるのだが)。「ヤオイ・モード」の解説にあたり、溝口氏は「わたしは」と自分の好みに限定した語りに切り替え、レズビアン観客一般の傾向として「ヤオイ・モード」を語ることを避ける慎重さを見せているが、レズビアンバイセクシュアル女性で男同士のホモソーシャル/エロティック関係を愛好する人もおられるというのは、ネット上で何人か見かけたように記憶する。たしか、漫画家の竹内左千子氏も、腐女子じゃなかったか。


溝口氏の「ヤオイ・モード」は、たとえば『ピンポン』のペコやスマイルといった少年たちを同性愛関係にしたいのではなく、彼らのような「若くて美しいノンケ男子になって他のノンケ男子たちと闘い、じゃれあいたい、というファンタジー・リーディング(p.335.)」だという。「彼らがノンケのままであること…仲良し兼ライバルとして闘い、じゃれあいながら、映画のフレームの外ではかわいい女の子たちとつきあうこと、いいかえれば、レズビアンのままでノンケ男子キャラクターに感情移入し、ノンケ男子キャラクターであるがゆえにノンケ女子達をモノにすることができるというファンタジーのほうが、主人公同士のゲイ関係をレズビアン関係のスライドとして読む読み方よりも、より魅力的なのだ(p.335.)」そうだ。


へええええ〜、と、感心してしまった。
たとえばゲイは、「男のくせに(男を好きな)女みたいな奴」と言われ続けて、「うるせえバカ俺は男だ」と踏ん張ってきたようなところがある。それは「『男』じゃない」と言われることへの怯懦、ゲイの中にあるミソジニー(女性蔑視)の表出でもあっただろうけれど、「男が好きイコール絶対女」という頑強な異性愛主義(とそれによる同性愛者への暴力)への、これだけは異議を申し立てたい、言いようのない憤りがあるからだ。
僕もこのごろは年食ったせいかどうでもよくなってきて、「ゲイって中身は男じゃなく女なんでしょ?」と言う人がいても、「少なくともアンタが考えているような『男』にはなりたくない気がします」で片づけたい気分になってきている。しかし、「レズビアンは中身は男だろう」といった言説にひるむどころか、「ヤオイ・モード」を通して「仲良し兼ライバルのノンケ男子のじゃれあい」という超ホモソーシャルイデオロギーを(ノンケ男子としてノンケ女子をモノにするというファンタジーを含めて)堂々とさん奪し楽しむという豪快な境地があるとは、想像もしなかった。


まだ十分消化できていないが(誤読している恐れも多だが)、興味深い論文。