じいさんゲイ


映画に出てきたゲイについて、書いてみようかと思った。
同性愛が主要テーマになっていたり、クィアなテイストがある映画については、今さら書くまでもない(というか、わざわざ僕なんかが書くより面白いレビューがいっぱいある)。
別にストーリーは同性愛と関係ないが、ゲイが登場していて、映画のディテールの記憶はアヤフヤになっているのに、その印象が鮮やかに忘れ難い、そういう映画が、ときどきある。
まあ、その印象も、僕の記憶が捩じ曲げちゃってる可能性があるが。
そんなに沢山あるか、思い出せるか、ちょっと自信がないのだが。あまり深く考えずに、思い出すたびに書いていってみよう。


マダム・スザーツカ - goo 映画


ロンドン。才能あるインド系の少年マネクが通いはじめたピアノ教師、マダム・スザーツカ(シャーリー・マクレーン)の取り壊し寸前のボロアパートには、いまいち人生に失敗ぎみな人間ばかりが住んでいる。
グチの多い大家エミリー(ペギー・アシュクロフト)。いいかげん薹が立っているのに芽の出ない歌手ジェニー(ツイッギー)。挫折した老ピアニストのマダム・スザーツカ(シャーリー・マクレーン)は、言うまでもない。取り壊しを迫られ続けているビルそのままに、先の見えない袋小路の中で淡々と停滞し、追い立てられるのを待っている。


そして、マダム・スザーツカの階下に住む整体医コードルは、ゲイである。
多少抜けたお調子者ではあるが、小さいながら整体医院を営む老紳士コードルは、失敗者というわけではない。彼が他の住人とどことなく同じ空気を漂わせているのは、ゲイであることを隠してひっそりと暮らすその生き様のためだろう。


いつごろからか、映画で若いゲイかっこいいゲイより、老人のゲイを観たいと思うようになっていた。
老専になったわけではない。
学校の家庭科の授業では人生計画というか、就職・結婚・育児などを入れたライフサイクルのプランを生徒に立てさせることがあるらしい*1。また同性愛者の高校生のクローゼットとカモフラージュを鍛えそうな授業内容だなあと思うが、現行の異性結婚制度による結婚や育児や財政のノウハウを教えるつもりなら、同性愛者には別のライフサイクルを考えてくれなければならないだろう*2。しかし、「ゲイライフの平均的ライフサイクル」というものを、僕らはまだ持っているとは言えない。


特に、「老年期」がない。


現在「老年期」といえる人たちは、たぶんほとんどが結婚して異性愛者と同じライフサイクルに入っているからだ。別にアンケート結果やデータがあるわけじゃないが、50代以上で結婚せずにゲイのライフサイクルを生きている人は、ぐんと減るだろう。
むろん、独身でゲイライフを貫いてきた人も大勢いるだろう。しかし、そもそも世代間交流が乏しいから、そのような人たちの人生観や人生のノウハウは伝わらない。それに、時代が大きく変わっている。同性愛者に対するさまざまな制限を「仕方がない」と静かに堪えるような生き方は、いまどきのワガママきわまりないゲイには耐えられないだろう。


そんな状態であるから、僕にしても10年後、20年後のことは、家庭科教師に書けといわれようが想像もつかない。
一生のパートナーが持てるのかといった個人的なことは別として、パートナーとの身分はどうなるのか、育児できるか、まったく予測不能である(今の段階ではパートナーとは養子縁組が可能だが、育児に関しては同性愛者は里親にもなれないらしい)。
そう考えると奇妙な気持ちになる。僕は年のとり方すら知らないのだ。
ライフコースがこれだけ多様化したいま、「年の取り方が分からない」のはノンケもゲイも変わらないかもしれないが。
こうした状況を背景に、「ゲイのエイジング」というテーマは、コミュニティでしばしば取り上げられてきた。が、僕はすぐロールモデルやイメージを求める人間なので、「とにかくカッコいいじいさんゲイが見たい」という欲求がたまってくる。犬童一心メゾン・ド・ヒミコ』のじいさんたちもそれなりに良かったが、かわいすぎ、いい人すぎ、はしゃぎすぎ、脆すぎた。もう少しシビアに、大人の怒りや煩悩を抱えつつ、淡々と老い生きる術を教えてくれるじいさんゲイがいないものだろうか。


そんな気持ちが、たぶん、絶えず僕に『マダム・スザーツカ』のコードルのことを思い出させるのだと思う。


イメージGoogleでは『マダム・スザーツカ』の画像は見つからないので、とりあえずコードルを演じたジェフリー・ベイルドンの画像。


Geoffrey Bayldon -Wikipedia.en
Geoffrey Bayldon - IMDb
おお、カッコいい。


ジェフリー・ベイルドンGeoffrey Bayldon(1924年生)は、多数の映画・ドラマに中堅俳優として出演し続けた俳優のようだ。ピーター・カッシングクリストファー・リーのハマーフィルム黄金時代を知っている、英国映画界の古老といえる人じゃないだろうか。クリストファー・リーvsピーター・カッシングの『吸血鬼ドラキュラ』(1958)や、ピーター・カッシングの『フランケンシュタイン・恐怖の生体実験』(1969)といった懐かしげなハマーホラーに脇役出演しているので、驚いた。


ちょっと待て、この人、英国のゲイ大好きドラマ『Doctor Who』の初代ドクターではないか(いや、まさか初代からゲイゲイしいドラマだったとは思ってないけど)。
(※ベイルドンは「初代ドクター」ではない、という訂正を、コメントでいただきました。
たしかに上掲のwiki.en読み直してみると、ベイルドンは初代ドクターの「オファーを断った」ので、初代ドクターはWilliam Hartnellです。訂正コメントありがとうございました。こういうの多いよこのブログ!←多いのか!


ベイルドンがよく知られているのは、ノルマン・コンクェスト時代から現代にやってきた魔法使いが活躍する子ども向けTVドラマシリーズ『Catweazle』らしい。



Geoffrey Bayldon -Catweazle
Welcome to the Official Catweazle Fan Club


ホラー(はじいさんになってから出たわけじゃないが)やファンタジーや魔法使いが似合う英国じいさんというと、イアン・マッケランに似たたたずまいと言えるだろうか、などと、無理矢理「じいさんゲイ」に牽強付会してみる。今年83歳だが、IMDbによればなお元気にTVドラマで活躍しているらしい。


コードルに話を戻そう。


ぼろアパートの住人たちは、袋小路の人生を、しかし日々の希望と幸福の中で送っている。コードルもそうだ。
ビシバシと「構って光線」を飛ばしてくるオトメばあさんのエミリーに引き、ビッチばあさんのマダム・スザーツカを尊敬している。そして、彼女の生徒としてボロアパートへ通ってくるマネクに、静かな恋をする。


コードルがレッスン後のマネクに整体のサービスをしてやるシーンは、彼の少年への愛情を示す、とても優しいシーンだ。「こうなった(強張った)体を、私はこう(楽に)してあげる」と、マネクの裸の肩を撫でる。その表情がいい。
ノンケの体を欲望を隠して触るのが良くないというのは、分かっている。未成年となればなおさらだ。だが僕は、このシーンに感動してしまう。それは欲望だが、欲望がとても優しくいとおしげなのだ。じじいになった僕も、こんな風に誰かに惹かれるだろうか、と思う。


ある日、日が暮れた寂しい通りを家に急ぐマネクの耳に、裏路地で行われている激しい暴行の物音が飛び込んでくる。「このホモ野郎!」−暴漢たちが走り去ったあと、這い出してきたのはコードルだった。
「靴紐がほどけて、結ぼうとしたら、転んで…」
傷と血の理由をそう説明するコードルの足元を、マネクは黙って見つめる。靴紐はきれいに結ばれている。


マダム・スザーツカ』は、ただの「平凡な人たちのちょっとほろ苦い人情物語」ではない。そう見るには露骨なぐらい、定式化された「力の論理だけが幅をきかす社会」の抑圧感が描き込まれている。
生き馬の目を抜く音楽業界で才能のある人間だけがのし上がってゆく、否定しようがない弱肉強食の論理。再開発で次々取り壊されてゆく古いビル。競争についてゆけない者は、袋小路の中で立ちすくむしかない。そういえばサッチャー時代の映画だ。


サッチャー新自由主義の時代は、性道徳や家族の価値観への回帰が強固に叫ばれた保守主義の時代でもある。公的メディアや学校教育での同性愛表現を禁じた地方自治法第28条(section 28)は1987年12月に立案、1988年5月24日に制定された。ちなみに『マダム・スザーツカ』の上映は同年の10月(US、英国では翌1989)である。
自身ゲイである監督ジョン・シュレンジャーが、イアン・マッケランらによるセクション28反対運動に関与したかは分からないが、セクション28が制定に持ち込まれるその過程で、彼は『マダム・スザーツカ』を製作していたことになる。
米英映画における同性愛表現の旗手とも言われるシュレンジャーが、セクション28の誕生と同時に作った映画で描いたのは、保守党が盛んに煽った「家族道徳を破壊する同性愛家族」「過激な同性愛権利団体」とはまるで無縁に、慎ましく静かに生きる老ゲイだった。偶然かもしれないが、とても印象的な符合に思える。


マダム・スザーツカは、演奏家になれず(つまり、なにかを生み出せる人間ではなく)、子も家族もいないが、母性の権化のような人間である。愛する生徒たちに我を忘れて没頭し、ボロボロになる勢いで打ち込んでしまう。だが、ステージでの挫折を経験した彼女の教師としての才能は、プロになる素質を開花させる前の若者しか育てられない。手塩にかけて育てた「子ども」は、高みに上るために彼女を捨ててゆく。
マネクの実の母親は、ただ息子を誇ることができる。マダム・スザーツカはそうではない。子どもを産むことなく、ただ育て続け、失い続ける母親だ。僕の目にマダム・スザーツカとコードルの境遇が似て見えるのは、彼らが何らかの形で「家族とともにあって完結する『生産的』ライフサイクル」を弾き出された人間だからかもしれない。


だが、彼女には分かっているのだ。演奏のプレッシャーに耐えられず、母親の無償の愛の庇護の下に逃げ込んだ自分は、その先へ行けなかった。母を無情に捨ててゆける子どもだけが、その子のために望んだ未来へと進むことができる。
だから彼女は、永遠に去り続ける子どもたちの母であることを選び、袋小路の中に留まり続けることを選ぶ。他の住人が去ったボロアパートの中で、また傲然と次の生徒を待つ。


一方コードルは、老人ホームに入ったエミリーの、一緒に暮らそうという誘いを受け入れる。
つまり彼は、人生をともにするパートナーとして、異性を選んだのだ。
これは諦めだろうか?そうではないだろう。そういう選択もあるのだ。性的に惹かれあう相手と暮らすことは、とても限られた選択肢でしかない。
エミリーを見舞った老人ホームのある海岸で、コードルはマネクに思いを伝える。


ジョン・シュレンジャーという監督にとって、失敗した人生は存在しないのだろう。弱肉強食の新自由主義に批判と皮肉のまなざしを向けつつ、さらに過酷な高みに上ってゆく選ばれた強者(マネク)と、競争に加われない弱者の人生を対等に描く。「人間みな同じだよ」という慰めではない。負け犬は負け犬の人生のまま、敗者は敗者の人生のままだが、すべての人間に等しく尊厳はある。
力がある者だけが勝てる社会の「正しさ」を描きつつ、同時にその社会には、「道徳的」家族や競争主義の教育とかけ離れたところで子どもを育てる「母」がおり、異性とパートナーシップを結び静かに歳を取るゲイがいることを伝える。
殴られても抵抗せず、一人身を隠して淡々と生きたコードルの人生も、少しも「報われない人生」でも、「哀れ」でもない。むしろ「こんなじいさんになれたら」と思うたたずまいがあるのだ。


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映画の忘れがたいじいさんゲイというと、『メルシィ!人生』のベロン老人もそうだ。


メルシィ!人生(2000) - goo 映画


これはむしろ同性愛に関係ありまくりな映画で、すでにこのエントリでクドいぐらいに書いた。が、主人公ピニョンを偽ゲイに仕立てたベロン老人については、あまり書けなかった。



このじいさんは、コードルとはまた別の意味で、超かっこいいのだ。
登場場面からしていい。リストラ予告+離婚した妻子からの無視に打ちひしがれ、フラフラと窓から身を投げようとしたピニョンに、隣室の窓から横柄な言葉が飛ぶ。
「止めろ−下にあるのはワシの車だ。傷つけられては困る」
それで気勢を削がれ、またフラフラとその隣人ー越してきたばかりのベロン老人の部屋に酒を呼ばれに行くと、
「あ、あれはワシの車じゃない。自殺すると思ったからああ言った」


ベロンもコードルと同じく一人暮らす老ゲイだ。ゲイであることを理由に職を失った過去を持つ彼は、現代の同性愛差別批判の風潮を逆手に取り、ピニョンをゲイに仕立ててリストラを回避する計画を立てる。
半分人助け、半分自分の復讐のためなのだが、ベロンが怨恨に囚われた惨めな老人かというと、そうではない。
怒りを忘れない彼は、同性愛嫌悪を生み出す社会の構造を知り抜いている。同性愛者を目の前にした多数派の異性愛者の中にどんな感情が蠢くのか、完全に見切っている。予想通り、ピニョンの会社の人間たちは、赤子の腕をひねるより容易くベロンの計画に踊らされる。それがただ痛快なのだ。


ただ一度、ベロンの顔に絶望がよぎったのは、ピニョンが同僚2人の手でリンチに遭ったときだ。表面的には平等と差別撤廃が進んでも、その裏で平気でゲイ・バッシングが行われうる現実を目の当たりにして、「やはり何一つ変わっていない…」と呟くベロンの表情が、無力感に覆われる。


ベロンの貫禄は、映画の終盤にいきなり揺らぎを見せる。偽ゲイ作戦の終わりとともにベロンのもとを去ろうとするピニョンを前にして、ベロンは突然弱々しい表情を見せる。行かないでくれーとすがらんばかりのベロンに、ピニョンはたじろぐ。


うーん、あれか。やっぱり、惚れてたとか、そういうオチになるのか。


ネコのエピソードが、印象的だ。ピニョンがあやうく自殺を逃れて初めてベロンの部屋を訪れたとき、迷い込んで来た子ネコがいる。ベロン老人の飼いネコになったその子ネコが、物語の終盤近く、姿を消す。「ネコがいない、戻ってこないんだ」。いつもの沈着さに似合わぬ慌てぶりを見せるベロンに、ピニョンは必ずネコを見つけると約束し、別の同じ模様の子ネコを連れてくる。何の変哲もない(僕には可愛く見えたが)ネコなので、見分けはつかないだろうと踏んだのだ。だが、ベロン老人は違うという。「いや、同じですよ」「いや、なんだか違う」。そこに、消えていた子ネコが戻ってくる。気まずい空気が流れる。
そこで彼は気づく。見栄えのしない平凡なネコは、誰にも目を留めてもらえない透明人間だったピニョンだ。その彼を決して見失うことがないほど大切にしてきたのは、誰よりもベロン老人だった。だがそれに気づいた今、ピニョンはベロン老人を必要としていない。ピニョンの表情に、哀しみが滲む。


しかし、2人の関係と別れは、恋愛ではないと僕は思う。
むしろ、ピニョン自身が物語を通して何よりも大切にしてきた父子の関係に近い。
「僕はゲイになって男になれた」と、同性愛嫌悪をむき出しにする前妻に、ピニョンは言う。これは、「ゲイがノンケをゲイに育て、男にして社会に送り出した」物語でもあるのだ。
以前のエントリにも書いたとおり、『メルシィ!人生』は同性愛嫌悪をさまざまな側面から観察した映画なのだけれど、見ようによってはゲイの次世代再生産というテーマも滑り込ませているわけだ。感嘆ものである。


「息子」を巣立たせたベロンも、決して寂しい思いはしないだろう。だって、これからはネコが2匹いるんだから。−同性愛者とペット(いや、コンパニオン・アニマルというべきか)も、切っても切れない関係だ。


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コードルやベロンは、セクシュアリティの多様性が認められない強固な異性愛中心主義の中で人生の大半を過ごしたゲイだ。
時代の変化とともに、映画に登場する「じいさんゲイ」の姿も変わってくるだろう。
2人暮らしのじいさんゲイもいれば、1人暮らしのじいさんゲイもいる。
アウトでプラウドなじいさんもいれば、クローゼットで静かに暮らすじいさんもいるだろう。
日本ではゲイが子どもを持てる可能性はまだ乏しいが、国によっては子どもを育てるゲイが普通の選択になっている。いずれは孫を持つゲイも出てくるわけだ。
20年、30年後の自分の生き方を教えてくれるような、いろんなじいさんにもっとスクリーンで会いたいと思うのである。我にじじいを。

*1:たとえばNHK教育・高校講座「家庭総合」2007

*2:2002年以降の家庭科の教科書では、家族やライフコースの多様化が示されるなかで、同性愛家族への言及もある。石坂わたるHP「わたるの部屋2nd」-ゲイと教育・学校