周縁の名探偵


いまさらだけどアガサ・クリスティのエルキュール・灰色の脳細胞・ポアロのシリーズは長編33中短編50何編だかあるんですね。
どうりで未読作品が次から次へと見つかるわけだ、と思いつつ、14作目『もの言えぬ証人』を読んだ。


もの言えぬ証人 (ハヤカワ文庫―クリスティー文庫)

もの言えぬ証人 (ハヤカワ文庫―クリスティー文庫)


作品数が多いぶん、いまいちな作品もあるわけで、こいつはミステリとしては「いまいち」入りかもしれない。
「私は人間の心理を問題にする」とポアロはよく言うが、ポアロ物(に限らないかもしれないが)はカチッとキャラの立った登場人物たちの人間ドラマ群像になっていることが多い。この場合登場人物たち=容疑者(というか、犯人かもしれない奴)なわけだが、彼らと事件との関わりを匂わせる怪しさは、それぞれが抱える人間的な問題と、密接に絡み合っている。それを探偵の観察と状況分析が解きほぐしてゆく。


この手続きがよく練られていれば、スリリングなミステリ兼人間ドラマになるわけだが、『もの言わぬ証人』はそれが巧みとはいいがたい。いくつかの伏線はいささか拍子抜けするかたちで回収されてしまうし、さして納得がいく伏線もないまま犯人が判明し、その理由を最後にまとめて「犯人の心理分析」だけで説明してしまう。「怠慢しやがったな」と思ってしまった。ポアロの「売り」である心理分析に依存しすぎた失敗だ。


ただ、面白かった点もいくつかあって、「ボブ」のキャラが良かったこと、19世紀半ばぐらいからイギリスで流行した心霊主義(スピリチュアリズム)が風刺とともに取り入れられていたこと、「ボブ」のキャラが良かったこと(しつこい)、あと、容疑者への嫌疑を掻き立てるうえで、ゼノフォビア(外国人恐怖)が巧みに利用されていたことだ。


登場人物=被害者を取り巻く一族=容疑者連の1人が外国人なのだが、「こいつがアヤしい」「いややっぱりあいつじゃないか」と匂わせながら物語が進行する中で、一見非常に好人物なその人物に対する疑念には、「こいつは信用できない、外国人だから」というまさに感情的なフォビアが−作中人物の間にも、そして読者の中にも−うごめくように描かれている。クリスティらしいなと感心した。


探偵はしばしば、周縁の人だ。そして、なにが周縁かは、なにが中心とされているかによって決まる。
クリスティは、ポアロ・シリーズを通して、20世紀前半の英国社会のゼノフォビアを描いた。ベルギーからの戦争移民のポアロは、英国社会に巣食う外国人差別感情によって絶えず周縁に追いやられ、その周縁から鋭く英国社会を観察する。自分の周縁性を捜査のために狡猾に利用することもしょっちゅうある(『アクロイド殺し』もそうだし、『三幕の殺人』もそうだ)。
自分でもしつこく誇示するように、ポアロは天才型の探偵だ。しかし、彼の魅力に惹かれる人には、「灰色の脳細胞」より、その周縁性にこそ惹かれた人も多いんじゃないだろうか、と思う。


クリスティとポアロ・シリーズと英国的ゼノフォビアについては、きっと何か書かれているんじゃないかと思うが、不勉強にして知らない。


ドラキュラの世紀末―ヴィクトリア朝外国恐怖症の文化研究 (Liberal Arts)

ドラキュラの世紀末―ヴィクトリア朝外国恐怖症の文化研究 (Liberal Arts)

僕が読んだことがあるのはこれ。ブラム・ストーカーの時代の英国的外国恐怖症の研究。


アガサ・クリスティーが生んだ2人の名探偵、ポアロミス・マープルは、いずれも周縁の人だ。2人とも、大戦中から大戦後のイギリス国家が求めた「生産性」や「国民性」とは、無縁の人だった。ポアロは老いた外国人、ミス・マープルは老嬢。
老嬢=結婚しなかった女性のイメージは、やや「奇怪なキャラクター」として、盛んに消費されていたものだろう。ある時は社会の「常識的な(多数派の)」ライフサイクルをはじき出された者ならではの自由さで、常識の範疇に生きることに汲々とする人間たちを睥睨するピカロ(悪漢)として。ある時は排除されたがゆえに「人間」としての則を失い怪物化したモンスターとして。
クリスティは、ヒーローとしても、モンスターとしても、とても魅力的に老嬢を描いた作家だ。


ポアロはただ外国人だというだけじゃなく、英国的価値観による「男」を逸脱した人間だ。おしゃれ、美食、スポーツや自然への無関心、そしてあからさまな傲慢、自意識を隠さないこと。イートン校出身の典型的英国紳士ヘイスティングス大尉と比べると、その差はさらに際立つ。デイヴィッド・スーシェ主演のTVドラマ・シリーズではこのあたりがさらに強調されていて、その立ち居振る舞いは、ほとんどキャンプである。日本語吹き替え版(熊倉一雄)だと、オネエに近くなってくる、と言ったら言いすぎかもしれないが、僕がポアロが好きな理由は、結局このへんにもあるらしい。

もちろん、ポアロ異性愛者で、かつ女性に対しては保守的な思想の持ち主である。「保守的」といっても、「女は家庭で貞淑に云々」ではなく、あくまで「曲線美」、ソファにもたれて婉然と微笑むような神秘性である(笑)。ポアロがかつて想いを寄せたロサコフ伯爵夫人は、そういう種類の女性ということになるが、かなーりビッチでヘンなキャラだと思う。


周縁的な探偵には、人を惹きつけるものがある。その視線には「中心」を揺るがしうる批判性があるからだ。
そういえば刑事コロンボも、周縁の探偵だろう。旧シリーズ第42話「美食の報酬」は、彼がイタリア系移民だということがかなり強く表に出た作品だ。レストラン批評を武器にL.A.のレストラン経営者から金を絞っていた料理評論家の事件だが、いかにもWASPWASPした評論家と、出身国の料理店を腕一本で守ろうとする移民たちの対立という構図が一貫している。コロンボは、殺人犯人を追跡しつつ、移民たちの側に立つ。グルメ批評家の前で、コロンボが父親が得意だったイタリア家庭料理を作ってみせる場面、殺された伯父のレストランを継いだ甥(まだ米語が喋れない)のために、コロンボが通訳を買って出る場面は印象的だ。


レズビアン・ゲイの探偵が活躍するミステリもあるが、読んでみたいと思いつつ、読んだことがない。
ときどき「ゲイ疑惑」が持ち上がる探偵といえばシャーロック・ホームズだが、「ホームズ=同性愛者」というアイディアには、僕は興味が湧かない。仮に彼がゲイだとしても、クローゼットのミソジナスなゲイだ。あまり魅力的でもないだろう。単にゲイだからといって、「周縁にある者ならではの力」を持ちうるわけじゃないのだ。



それにしても、『もの言えぬ証人』は、事件終了後の終幕の終幕が衝撃だった。あれは謎解きの弱さを補ってあまりあると思う。え?!なんでそうなっちゃうの、ボブ?!


8月27日追記


HODGEさんの日記で、英国的ミステリについてのとても興味をそそられる分析を読んだ。


HODGE'S PARROT-ディック・フランシス『度胸』


HODGEさん曰く、英国ミステリに通底するメンタリティは「復讐」だという。
なるほど、つまりこれは、英国産のミステリには「正義」のイヤな匂いが少ない、ということにも関係してこないだろうか。
エルキュール・ポアロの行動原理は、「真理を突き止める」「(犯人によってさらに引き起こされる)殺人を防ぐ」「(特に未来のある若者の)幸福を守る」だ。結果としてやっていることは善なのだろうけれど、彼は「正義」や「善」を語らないし、それを行動原理にしてはいない。「法」なり「正義」なりを標榜する超越的裁定者の立場には立たないのである。


これが米国のミステリだと、お国柄で変わってくるのだろうか。


北米探偵小説論

北米探偵小説論


なにしろゴツい本なので、一度も読み通したことがない(手が痛くなる)。ほとんど辞典みたいに、気が向いたときあっちこっちを少しずつ読んでいる。
その黎明から湾岸戦争アメリカが「世界の警察国家」になる20世紀末まで、アメリカの探偵小説と探偵たちが辿ってきた歴史を追う。戦争の陰やミーイズムへの退行、黒人や移民やマイノリティの複雑な声など、その軌跡は単純には語れない。が、その足取りはそのまま「正義」の迷走のようにも思える。