フレデリック=ファルーク・ブルサラ様


ゼイディ・スミスのデビュー小説『ホワイト・ティース』に、フレディ・マーキュリーが登場するシーンがある。

「よその文化を冗談の種にするのは、良くないんじゃないかしらね」
 楽団は,自分たちがそんなことをしていたとはつゆ知らずにいたのだが、これはマナー校の校則におけるもっとも忌むべき罪だと気づき、みんな視線を足元に落とした。
「そうでしょう?そうでしょう?あなたならねえ、ソフィー、もし誰かが『クィーン』をバカにしたらどんな気がするかしら?」
 ソフィーというのはあまり賢くない十二歳児で、頭のてっぺんからつま先まで、まさにそのロックバンドのグッズで身を固めている。ソフィーは、分厚い眼鏡の奥で目を光らせた。
「いやです、先生」
「やっぱり、いやよね?」
「はい、先生」
「フレディー・マーキュリーがあなたの文化に属しているからってバカにされたらね」
 サマードは、パレスのウェイターたちの間で流れていた噂を聞いたことがあった。このマーキュリーとかいう人物が,じつはファルークという名前の肌がうんと白いペルシャ人で、コック長がボンベイ近郊のパンチガニの学校でいっしょだった覚えがあるというものだ。だが、些細なことにこだわる必要がどこにある?愛らしいバート=ジョーンズが滔々と語るのをじゃまする気のないサマードは、情報を自分の胸だけに畳んでおいた。
「文化が違っているために、ほかの人たちの音楽が変に聞こえることがあります」ミス・バート=ジョーンズは重々しい顔で言った。「でも、だからといって、その音楽があたしたちのものほど良くないということにはならないでしょう?」
「なりません、先生」
「あたしたちは、文化を通じてお互いのことを学べるわよね?」
「はい、先生」


ゼイディ・スミス『ホワイト・ティース』上巻 pp.215-216.


「インドの音楽」と「わたしたちの音楽」が対等だと子どもたちに説くイギリス人教師の話を聞きながら、ロンドンのインド料理屋でウェイターとして働くバングラディシュ系移民のサマードは、彼女が「わたしたちの音楽」として引き合いに出したQUEENフレディ・マーキュリーが、インド出身のペルシャ人(パールシー)ファルーク・ブルサラであることを思い出している。「ロック=イギリス文化」という認識のもと、当然のように無視されているフレディの民族的出自への疑問は、しかし、魅力的なバート=ジョーンズへのサマードの恋心ーというより性欲ーのまえに簡単に吹き飛んでしまう。


『ホワイト・ティース』は、20世紀末のロンドンの移民社会を舞台に、人間の帰属意識が寄りかかるあらゆるものを痛快なまでに解体してゆく。国,民族,文化、家族。自分の「正しい居場所」に辿り着こうとする足掻きはひたすら隘路に入り込んでゆき、自分は何者でどこから来たのかというアイデンティティは、精子レベルまで脱構築されてしまう。
しかし、溶解させられるアイデンティティは、もっぱらマイノリティのものだ。移民たちがイギリス社会の中で拠り所を求め右往左往する上で、イギリス人は安穏とイギリス人でいる。アイデンティティや帰属なんてしょせん虚構だよーと気楽にうそぶけない不均衡が、「フレディ・マーキュリーは誰なのか?」という問いの中に潜んでいるーのだけれど、それも目先の欲にはすぐ忘れられる。


帰属を、「必然」を失えばその向こうには何もないことを恐れる一世のまえで、二世,三世はなにもかもが「偶然」であればいいと願っている。

 サマードは、この国で二十年暮らして身につけた生まれながらのイギリス人のような英語を無意識のうちに披露しながら、苦々しげに言った。「ほんとにそう思うよ。この頃思うんだ、この国に足を踏み入れるときに悪魔と契約しちまうんじゃないかってな。入国のときにパスポートを渡す、スタンプを押してもらう、ちょっと金を作りたいと思ってる、なにかはじめたいと…だが、ちゃんと帰るつもりなんだ!誰がずっといたいもんか。寒くて、湿っぽくて、ひどいところだ。ひどい食い物、不愉快な新聞ー誰がいたいもんか。けっして歓迎してはくれない国だぞ、ただ俺たちを我慢しているだけだ。我慢しているだけ。最後にはしつけられておとなしくなる動物みたいに思ってるんだ。誰がそんなところにいたいもんか。ところが、悪魔と契約しちまっている…その契約に引きずられて、突然もう帰れなくなっている。子どもたちはわけのわからないものになってしまう。自分の属するところがないんだ」
「そんなことはないよ、ぜったい」
「そして、どこかに属するという考え自体をあきらめてしまうようになる。突然、このことが、この属するということが、まるで長い間の下劣な嘘だったような気がしてきて…生まれ故郷なんてものは偶然だ、すべて物事は偶然なんだって思うようになる。でも、そんなふうに思ってしまったら、その先はどうなる?なにをする?なにか意味のあることなんてあるか?」
 サマードが恐怖の表情を浮かべてこの暗黒郷(ディストピア)を語っているあいだ、アイリーはその偶然の国が自分には天国のように聞こえることを申し訳なく思っていた。恐ろしく自由な気がする。


ゼイディ・スミス『ホワイト・ティース』下巻 pp.202-203.

ホワイト・ティース(上) (新潮クレスト・ブックス)

ホワイト・ティース(上) (新潮クレスト・ブックス)

ホワイト・ティース(下) (新潮クレスト・ブックス)

ホワイト・ティース(下) (新潮クレスト・ブックス)