「選択的バイセクシュアル」という選択?

僕の大好きなLGBTミュージック・ブログQueer Music Experience.で、「選択的バイセクシュアル・アーティストの系譜」(現在2まで)というシリーズ(?)をやっている。


Queer Music Experience.―選択的バイセクシュアル・アーティストの系譜・その2


恥ずかしくも光栄なことに、僕が5月2日のエントリで呟いた「選択的バイセクシュアル」という言葉を、使って下さった。


「選択的バイセクシュアル」について僕が考えていたことというのは、当該エントリを読めば分かるが、いまいち歯切れの悪くて、半信半疑な感じである。が、Q.M.E.マスターの藤嶋さんは、これを「性的指向の1カテゴリ」という、ずっとクリアでポジティヴなアイディアに変えている。


なぜなら。 (←おっ、藤嶋さん風)


LGBTミュージック史には、すでにいたのである。生まれついてのゲイ、バイセクシュアルではないが、なんらかのかたちでバイセクシュアルというアイデンティティを選んだアーティストが。
ナタリー、おまえだけじゃなかった。


「選択的バイセクシュアル」という、いささか座りの悪い(僕のボキャ貧のせい)カテゴリを藤嶋さんがあえて取り上げてくださった裏には、「既成の性的指向のカテゴリに属さない人は、自分が属する自分のためのカテゴリを、自分の手で作ってしまえばいい」という、「セクシュアリティのカテゴライゼイションの多様化」に対する藤嶋さんの積極的な考えがある。

性の多様性を、広く一般に理解してもらうためには、一人ひとりに適した性のカテゴリを、さらに細分化していく必要があると、私は思います。


なぜならば。


性の多様性を広く一般に理解してもらうということは、言いかえれば、「それぞれの性的指向のあいだにある違いを正しく認識してもらう」、ということに他ならないからです。


つまり、1つひとつの性的指向のあいだの差異を正しく認識することによって、そこから初めて、「それぞれの性的指向のあいだで、いったい何が異なっていて、何が共通しているのか」ということが、浮き彫りになってくるんです。


ということは。


それぞれの差異から目を背けるという行為は、異なったカテゴリのあいだにある共通項からも、同じようにして目を背けてしまうということに、他なりません。


お互いを理解し、共存していくための糸口を、見失ってしまう怖れがある、ということです。


したがって、カテゴライズという行為を否定してしまうのは、多様性を尊重しているというよりは、むしろ「一元化」を導き出す、非常に危うい考え方です。


繰り返しになりますが、「1つの型に嵌められたくない」のであれば、自分が属する自分のためのカテゴリを、自分で作ってしまえばいいんですよ。カテゴライズそのものを否定する必要はないんです。


以上のような理由から、性的指向のカテゴリをより細分化していく作業は、非常に意義深い、必要不可欠なものだと、私は考えます。


Queer Music Experience.- 選択的バイセクシュアル・アーティストの系譜・序章


うーむ。名言である。


「カテゴライズする」とは、この場合、「存在を認知する」ことに近い。


トランスジェンダー」または「GID」、「アセクシュアル」というカテゴリーが近年になってかなり一般に浸透したことが、どれほど多くの人を救っただろう。
それまでは、その人たちは、「自明の性別」「人間は性欲を抱くもの」という通念に、黙って耐えているしかなかった。
「ゲイ」という名や、異性愛と等価の「性的指向(sexual orientation)としての同性愛」という概念が、「異常」「病気」「不自然」「ホモ」「オカマ」「変態」という言葉がはらむ暴力にさらされ続けてきた男性同性愛者を、どれほど救ったことか。


これは言い換えれば、きちんとしたカテゴライズの努力がなければ、セクシュアリティの概念は偏見と差別が吹き荒れる無法地帯となる、ということでもある。
なぜなら、セクシュアリティの差異は、ニュートラルに扱われることが滅多にないから。
差別と偏見の危険を、つねにはらんでいるから。
だからこそ、それぞれの差異を、それぞれにとってなにが「自然」なのかを、表現してゆく必要があるのだと思う。


そもそも、「選択的バイセクシュアル」と呼べそうな人びとの存在に僕が関心を持ったのも、僕が同性しか好きになったことのないゲイだからである。
まずバイセクシュアルの感覚が分からないし、性的指向が曖昧である、または性的指向を選ぶという感覚は、さらに分からない。
「分からない」ということは、「偏見・差別」を生みやすい。


僕の経験的な印象だけれど、「ヘテロ」「ゲイ」「バイ」という性的指向の大カテゴリーに属しきらない、周縁や境界に位置する人たちは、しばしば、かなり強い偏見を受けるのではないかと思う。
やれ、ホモフォビアを抜け切れていない、「なんちゃって」だ、性的指向は遊びじゃない、選べるもんじゃない―
なぜこういう「境界の紛争」が起きてしまうのか。それはむろん、この社会の異性愛中心主義のためだ。
異性愛と同性愛の間には、深刻な差別の構造と、社会的認知の大きな大きな落差がある。そのため、その境界を越えようとする人は、しばしば差別や落差を無化するどころか、かえって浮き立たせてしまうことがある。


前のエントリで取り上げたナタリー・ポートマンの「選択的バイセクシュアル発言」も、事実、埃が立つように同性愛差別の構造を浮き立たせしまっている。
たとえば、報道は、ポートマンを称して「同性愛にオープンだ」と言う。
だが、バイセクシュアルが両性に欲望を抱くのに、「オープン」もへったくれもない。
ポートマンの発言がわざわざ「オープン」と評価されるあたりに、「普通なら同性愛は拒否してあたりまえだ」という思い込みや、開けた心で同性愛を受け入れて「やっている」というマジョリティのイヤらしい優越感がのぞく。
また、前エントリの追記で引用したファンサイトでは、「ナタリーは『同性愛にはオープン』だが『同性愛者』ではない!(NOT GAY!)」と言われている。
一見、ポートマンの発言を「客観的に述べている」ように見える。だがその実、ポートマンが同性愛者である(客観的にはありえる)可能性は強硬に否定し、拒否しているのだ。


こうした反応には、僕が同じエントリで引用した選択的バイセクシュアル願望の女性の態度と、ものすごく共通点が多い。
あの人も、バイ願望を持ち、同性愛に偏見はないと語りながら、自分から同性を求める「積極的なレズ」すなわち「生来の同性愛者」には偏見をにじませている自分に気づいていなかった。


僕は、N.ポートマンという恐らく頭のいい女優がバイ願望を表明し、同じ傾向を持つ女性たちの欲望を代弁するのは、よいことだと思う。
だが一方で、彼女の発言が、些細なように見えるが型どおりの(つまり、根強く強硬な)同性愛嫌悪的反応を周囲に引き起こしていることも、見過ごすことはできない*1


こういうことを考えると。
自分が属するカテゴリを表現してゆくというのは、実は、自分のカテゴリが他のカテゴリに及ぼす危険のある「加害性」に気づき、理解してゆくことでもあるのだと気づく。


たとえばゲイは、「ゲイは心は女なんだろ」といった偏見や、性同一性障害と同性愛者を一緒くたにした誤解に抗うために、自分たちが「同性を愛する『男』である」ことを強調する。だがそれは行過ぎれば、「男でないもの」、女性やトランスジェンダーを否定し、貶めることにもつながる。
「女」「オカマ」と言われるのを「恥」と思うゲイの無意識は、女性蔑視・トランスジェンダー蔑視につながる危うさをはらんでいる*2


男であるゲイは、自分を正当化しようとすると、この社会で男の特権的な地位を保障するマチスモとミソジニーのコードに乗りやすい。
同じように、異性愛と同性愛の境界で、セクシュアルマイノリティに分類されきらない選択的バイセクシュアルは、しばしば異性愛社会における同性愛嫌悪のコード−生まれつきの同性愛者に対する蔑視や、その裏返しとしての(つまり実質変わらない)表層的な同性愛の美化−に巻き込まれやすくないだろうか。


「私はカテゴリに縛られたくない」と言い、自分がいかなる立ち位置にも依拠しておらず、その立ち位置から人を害することがないと思っている人がいるとしたら、それはずいぶんとおめでたい、傲慢な人である。
自分自身の属するカテゴリを真面目に考えるということは、他者に対する自分の立ち位置、加害性に敏感であるということでもあるのだ。


とはいえ、あまり理屈で考えても混乱してくるだけで。


「人」を見るのが一番いい。


人は、尊敬に値する人、反面教師な人を見ながら、見よう見まねで生きかたを学んでゆく。
僕も、どう行動すればよいのか、どう考えればよいのかは、全部人に学んでいる。ゲイとしても、僕を作っている別のさまざまなアイデンティティにおいても。


Q.M.E.で紹介されている「選択的バイセクシュアル」のアーティストには、本当にいろいろな人がいる。
それぞれに、承服しかねるところもあれば、尊敬に値するところもある。
でもそれぞれに、すばらしい。


だから、Queer Music Experience.を見ろ!
というのが、このエントリの主旨なのであるが。


ナタリー・ポートマンが選択的バイセクシュアル女性の理想的なロール・モデルになるか、リベラルな物言いの裏で同性愛への偏見を助長しているだけの「困った人」になるかは、今後の彼女次第なんだろうなと思う。


そういえば、「選択的バイセクシュアル」的な発言で周囲を撹乱している困った俳優といえば、もう一人いる。


ジャレッド・レトだ。オリバー・ストーンの「アレキサンダー」でアレキサンダー大王の生涯の想い人ヘファイスティオンを演じた彼である。


彼の相次ぐ(といっても2回だが)「カミングアウト」は、彼がラディカルな「選択的バイセクシュアル」であることを示しているのか、それともただのDQNなのか、よく分からないところがある(実生活では、自分より格上の女性セレブとばかり付き合っている印象ばかりが強い)。


ただ、僕が個人的に気になるのは、彼が「俺はマジでゲイだ(I’m gay as a goose)」と語った2006年の「カミングアウト」で、自分をThe Smithのモリッシーになぞらえたことである。推測するに彼は、モリッシーワナビーなのである。


2006年の「I’m gay as a goose」発言のインタビュー
AOL music- Jared Leto AIM Interview


2004年(「アレキサンダー」の頃)ゲイ雑誌『OUT』に対して行った「カミングアウト」
Out Magazine- Warrior Love-In light of Jared Leto’s cagey coming out interview, we’re digging up our cover story with him from September 2004. He was knocking at the closet door even then!


AfterEltonに、これについての面白そうなエッセイがある。↓
AfterElton.com―曖昧なゲイ:デヴィッド・ボウイからジャレッド・レトへ(Vaguely Gay: From David Bowie to Jared Leto)


ジャレッド・レトデヴィッド・ボウイに始まりモリッシーに続いた性的指向を撹乱させる「曖昧なゲイ」の系譜に位置づけ、性的指向の政治における「曖昧なゲイ」のカテゴリーの功罪を問うもの。


この「曖昧な(しばしば選択的な)ゲイ」と(僕もこちらに属する)「明らかな(非選択的な)ゲイ」の間のむずかしい問題については、また考えて、ましな考えがまとまったら、書くかもしれない(書かないかもしれない)。

*1:ポートマンの「同性も愛せる」という発言が与えるインパクトが、実は「異性を愛するべきだ」という異性愛規範の繰り返しでしかないことは、id:noadaさんがもっと明快に批判している。 腐男子じゃないけど、ゲイじゃないーナタリーの方だけ可能性を認めたくらいで大騒ぎ。

*2:このあたりのことは、平野広朗氏のHiro-peeの寝床ー「伝説のオカマ」論争考」が必読。