このベースから出発する〜「マイ・ビューティフル・ランドレット」


せっかくの連休なので、好きな古い映画を掘り起こして、改めて評価してみたり。



幼なじみで恋人同士のパキスタン移民2世オマールと移民排斥ネオナチ労働者階級ジョニーが、南ロンドンのさびれたコインランドリーを力を合わせて建て直すお話、というのは、今さら説明するまでもない。


監督スティーブン・フリアーズはゲイ映画「ブリック・アップ」(1987)、「司祭」(僕はあまり好きじゃないが)の脚本のジミー・マクガヴァンが脚本を書いた不況下労働者物「がんばれ、リアム」(2000)、アメリちゃんがなぜかトルコ移民女性労働者を演じた「堕天使のパスポート」(2002)などを撮った人である。原作・脚本のハニフ・クレイスィパキスタン系2世で、本人はゲイではなく、本作以外同性愛者を扱った作品は書いていないらしい。


イギリスに生きる移民を描いた映画には、とても心に残る映画がある。もちろん、最悪の映画、偽善的な映画も、ガレキの山のようにあるのだろうが。植民地主義時代の遺産であり、現代イギリスの大きな現実である移民社会と真剣に向き合うこと。それは、イギリスの過去と現在に真剣に向き合うことでもあるのだろう。


しかし、イギリスに生きる閉鎖的な移民社会、彼らを敵視する無職の労働者階級、その中の同性愛者、「まあ大変そうね」と対岸の火事を見物するだけで、終わるわけではない。この映画を観ていてヒシヒシとしんどいのは、人生の辛さとは、選択肢の乏しさだということだ。
(少なくともこの映画で描かれている)移民にとっての生、成功とは、金を稼ぐこと以外ありえない。故ブット首相の友人で社会主義者でジャーナリストだったオマールの父親は、移民としては敗残者でしかない。勝者は様々な事業で富を築き、白人女の愛人を囲っている弟のナセルだ。オマールも生きてゆくためには、ナセルが采配を振るう一族のネットワークに加わり、拝金主義になるゲームに参加するほか道はない。


これは別に、移民だけではない。
この映画に登場するイギリス人は2人、ジョニーとナセルの愛人だけれど、彼らは、とてもよく似ている。
ナセルの愛人の白人女を、娘のタニアは憎悪している。だが彼女は、出自のためか経歴のためか、同じイギリス人には相手にされない、成金の移民の愛人としてしか生きていけない人間なのだ。私を人間として扱ってくれたのはあなたの父親だけだ、と女はタニアに言う。ジョニーもまた、仕事もチャンスもなく、ネオナチまがいの仲間のあいだにしか居場所がなく、ゲイ(またはバイ)であることなど言えようはずもない。イギリス人であっても、彼らはその恩恵を少しも受けていない。


ほとんど立場は変わらない彼らなのに、一方がイギリス人であり一方が移民であることが、彼らを隔てる。
というか、イギリス人と移民は、カネを介してのみ、結びつくことができる。
ナセルと女のあいだには、金による愛人関係とはいえ、まちがいなく愛がある。だが女は、タニアに軽蔑されナセルの妻に呪われる「金で買われた女」としてしか、ナセルとともにいられない。ジョニーとオマールも、ただ一緒にいたいだけなのだ。幼なじみで、一度は決裂したが親友で、恋人だから。ソーホーの中産階級と欧化した移民系イギリス人なら、たぶん何一つ理由は必要ないのだろう。だが、ジョニーはカネのために移民の「パキ」に雇われて平気でいる情けないヤツとしてしか、オマールと一緒に仕事をすることができない。逆にいえば、一緒に仕事をする事が「できる」。
畜生、金は万能なりだ。オマールもかなりたやすく拝金主義に染まる。「マイ・ビューティフル・ランドレット」は、ムカつくほどの金の力が見せつけられる映画でもある。


イギリス人と移民の接点は、金だけだ。だがそれを逆手に取って、2人は自分たちの世界を切り拓く。
2人が建て直したコインランドリーは、薄っぺらくてチャラチャラして、どこか危うい。「バグダット・カフェ」や「フライド・グリーン・トマト」のような、はぐれ者たちを温かく守る「ホーム」の雰囲気はない。
だがそこでは、パキスタン男とイギリス女がワルツを踊り、ゲイが愛し合うことができる、まぎれもないアジール(聖域)なのだ。
窓のすぐ外では排外ウヨ野郎が徘徊し、聖域の枠はどこまでも脆い。だが、その脆さが、聖域の切実なリアリティをいやが上にも高める。そこに来れば南ロンドンの、移民とイギリス人を隔てる壁の、辛い現実をつかの間忘れることができる。現実を忘れ−いつか辿り着きたい未来を夢見ることができる。


ジョニーとオマールの関係がいい。こういう、ズルズルダラダラと続くセコい関係が、僕は大好きである(笑)。幼なじみで、恐らく最初の恋人で、同性愛者を絶対に受け入れはしないそれぞれの社会の中で、唯一お互いを分かち合える相手なのだ。
だからいくら煮詰まったってムカついたって、別れられない。オマールの一族のパーティーを抜け出し、古巣の労働者階級の若者が群れるクラブでフテ腐れているジョニーを、オマールが追ってくる。いい加減、二人を隔てている現実のややこしさに、二人とも気づいている。でも切れることができない。相手を手放す勇気なんか出ないのだ。いいなあ、この共依存っぷり(笑)。



金と現実主義まみれの、結構気の滅入る設定の中で、それでも楽しくこの映画を観れるのは、若い3人ーオマール、ジョニー、タニア−が、怒りや不満や、生き抜きたいという楽観的な希望を、強く漲らせているからだろう。
しかし、彼らだって、自分たちの社会を支配するルールを、既成のレールを外れる気にはなれない。理由なく反抗できるような、それほど余裕のある少年少女ではないのだ。


飲んだくれの敗残者の知識人であるオマールの父だけが一人、平気で強靭な理想を語ることができる。
なんの力も持たないが、チャラい理想主義者ではない。おのれの頭脳で考え、批判し、妥協せず、ジリジリと真理に向かって這ってゆくことに日常生活のように慣れている、そういう生き方をしてきた人間の鋭い輝きが、彼の中にはまだ残っている。
ランドリーの開店の日、オマールは父の来訪を待ち続ける(うーん、ベタな展開だ)。だが、自分を認めて欲しい父は、来てくれない(うーん、ベタな)。深夜になって、ジョニーが一人店番をするランドリーに、ようやくオマールの父が現れる(うーん、ベ(略))。
そこで父がジョニーに語った言葉は、この映画のクライマックスだ。

「あなたは僕に沢山いい助言をくれて…僕が小さいときに」


「君が小さいときに。それが君を何にした?
君は政治家になったか?ジャーナリストに?ー貿易商に?
いや。
君はパンツの洗濯屋だ。
なあ、君。
労働者階級には失望したよ。私も人のことは言えないが。
君はもっと何かができるはずだ。
助けてくれないか。
私は息子にパンツの洗濯屋でいて欲しくない。彼には大学で学んで欲しい。
君も大学へ行け。
あの子は学ぶ必要がある。
我々はみんなそうだ−もしはっきりと知ることができれば、
この国で誰がどんな目にあっているか…
そうじゃないか?」


My Beautiful Laundrette-script


「知識とは、この世界で誰がどんな目にあっているのかを知るための武器である」。この言葉にむちゃくちゃ感動した人間は、僕だけではない、ぜっったい。
しかし、若者にそんな勇気はない。目の前の現実はこんなに厳しいのに、どうやってあなたのような高みへ?ジョニーはオマールの父親にだけ「サー」と言っている。オマールの父を見たとたん、ジョニーの全身にあふれる畏怖と敬意と羞恥が、とても切ない。


タニアもそうだ。胸中には怒りと不満を募らせているが、彼女が考える人生の選択肢は、ごくわずかでありきたりだ。両親を軽蔑しても、親に押しつけられたオマールとの結婚を拒んでも、自分の人生は男が助けてくれて成り立つものだと思っている。
そのプランがあっさりと否定され、なにもない場所に放り出されたとき、辛いことだけれど、彼女の人生はほんとうに始動する。
どこだか分からないが、自分の手で自分の人生を築く場所へ旅立つために、トランクを傍らにホームに立つタニアの姿は、ほんとうに美しい。


終盤には、カタストロフが訪れる。金だけで築いてきた移民の自負は崩れ、家族はバラバラになり、聖域は破壊され、血が流れるー結局、危うい、砂上の楼閣のようなごまかしの均衡は、あっさりと崩壊する。
しかし、すべてが崩壊してもーまあ、2人は続くのだ。これがダラダラ関係のいいところである。
そうなのです。これまでの流れを一挙に葬り去ったカタストロフのあと、突発的に続く「なんでやねん」というハッピーエンドを可能にしているのは、「ダラダラ続く関係が一番強いのである」という真理なのです。ダラダラばんざい。


あれから、2人はどうしただろう?2人のその後は、観客の想像にゆだねられている。
僕は、2人は父親の忠告を守り、大学へ行ったと思うのだ。イギリスはオープンユニバーシティの本場である。2人はランドリーを立て直し、また金を稼ぎながら、少しずつでも学んだだろう。なにがあっても戦い抜ける知性と意志を鍛え、いつか社会へ発っていっただろう。そうでなければ、移民の遺産は受け継がれないと思うのだ。
その日まで、美しいランドリーは彼らの拠点、ベースでありつづける。


彼らが同性愛者だったから,移民や下層階級だったから、ではない。
誰でもあのランドリーには、不思議な郷愁を感じたはずだ。だって、人生のある時期に、誰でもああいう場所を持ったことがあるのだから。


子どものころ、空き地や集合住宅の陰に掘っ建て小屋だか穴だかただの空間だか分からないものを造り、そこに厳粛な名前をつけた。「今日からここが僕らの秘密基地だ」。


僕らはみなそこから出発しているのではないか。あの空き地から遠ざかった今も。誰もが自分の中にひとりひとりのベースを、アジールを持っている。逃げ場ではない。そこが出撃拠点なのだ。誰でも戦っている。だから必要なのだ、いざというときに自分を守ってくれるベースが、誰にも冒すことができない聖域が。
傷つけばそこに撤退し、傷を癒し、また戦意を蓄えて、再び戦線へ打って出てゆくー僕らはみな、そうやって生きていないか。だからこの映画に感動したのではないか。民族も、性的指向も関係なく。


「マイ・ビューティフル・ランドレット」は、2人の男の子が力を合わせ、人生の出発点になるベースを作った、そういう物語なのである。

AfterEltonの今夏映画特集小ネタ(笑)


AfterElton.comを見ていたら、こんなネタがありました。


AfterElton.com-The Gay Summer Movie Preview We'd Like to See


思わず貼り付けてしまいます。ふざけててすんません。って、ふざけてるのは僕じゃないよAfterEltonだよ。


パイレーツ・オブ・カリビアン


  


エリザベスがレディ・バーニイに乗っ取られました。ウィルとスパロウが目混ぜしてます。島でさりげなくヴィレッジ・ピープルが踊っているのが、嬉しいですね。



スパイダーマン


  


ダークサイドはSM系だそうです。



ファンタスティックフォー


  


1人加えてファブ5にしてみました。飛び入り参加しているのはどうやらカーソン姐さんのようですね。